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作品名:合唱物語 作者:佐々木 三郎

第16回   転職再就職
転職再就職

矢野は身辺整理を始める。許認可申請届のマニュアル作成を駒込直美に命じる。「これからは自分でやってゆくのだ。これが最後の業務命令だ、これを全支店の総務課に送れ」それは原稿についての意見感想を問い合わすものだ。矢野は工場実習を通じ自分の考えが使い物になるか周りに聴いてきた。まず会社の前線、営業サービスに他部門の意見である。部門が違うと受け取り方考え方も違う。この違いをどのように埋めてゆくか、あるいは発想を転換するかとやってきた。これが矢野を大きく育てたのだ。
矢野を惜しむ人間は少なくなかった。とくに社長、組合委員長、安倍技師長が下村に「惜しい人材を」と言ったと聞きうれしかった。しかし国際的問題を抱える矢野にとっては過去のことになろうとしていた。辞表を課長に提出すると驚いた顔をしたが予期していたようでもあった。辞表が受理されると世話になった人にあいさつして回った。下村は驚いた顔をして「残念だなあ。君を僕の片腕とも思っていたのに」「過分なるお言葉。不束者をここまで育てていただきながらご恩に報いることもできずただただ申し訳なく思っております」と言って一礼した。矢野の行動は瞬く間に社内に拡がる。
四国支店長は親会社の常務に昇格していた。「君の活躍は聞いていたよ。役不足だったかな。もっと大きな舞台が待っているのじゃないかな」「お世話になりながら任務を全うすることができず申し訳ございません」「君はよくやった。何かあったら相談してくれたまえ」「有難うございます」と電話口で頭を下げた。
名古屋の支店長、工場長、総務課長、岡本も別れを惜しんでくれた。同期の連中にも挨拶したかったのだが彼らはわかってくれるであろうと電話しなかった。工場の顔見知りも浮かんできたが振り払うように席を立つ。

会社の出口でミスオールドに呼び止められる。「六時に栄寿司に来て。女子社員だけで矢野さんの送別会をやるから。遅れないでよ」相変わらず売れ残りの女は一方的である。まあ彼女たちをこき使ったから顔を出すか。矢野は通いなれた通勤道路を避けてデパートの屋上から東京の街を見下ろした。この巨大都市に世界の富が集まってきている気がした。このままの成長をつづけるなら世界は日本経済にひれ伏すのではないかと思われた。事実バブルがはじけるまで日出る国、経済大国ともてはやされたのだ。
これから不動産と行政書士を目指して職を探すことにした。社内教育の一環として国家資格をとることが推奨され、矢野もお付き合いで宅建主任者と行政書士の資格を取得したものだ。明日は不動産会社の面接を受ける。これからの行く末を考えていたがサラーマンの習性で時計を見る。六時に栄寿司に着くよう移動を始める。
店には総務の女子社員が15人待っていた。私服に着替えると女に見えるから不思議だ。「私たちね、矢野さんが本社に来た時は頭に来てたのよ」「そうよ。私たちをバカにしてたでしょ」「そんなことはない。眼中になかっただけだ」「それよ、最後の最後まで」「数々のご無礼の段ご容赦くださいと言えばいいのか」「そう言ったら矢野さんらしくないわ。頭に来てたけどいなくなると思うとさびしくなってきたわけ。でお別れの席を設けたの」「北野タケシか矢野健」「なによそれ」「何でもグサーっていうじゃない」「言えてる言えてる」「まあともかく乾杯」

女の話には文脈がない。あっちとびこっちとび。三つ四つの話が同時進行する。「でね、下村専務の娘さん菌かウィルスが脊髄に入ったらしい」「あの人子会社に出向させられて自殺を図った」「そうそう」「普通菌が脊髄に入る」「でも会社に居られなくなった人多いわね」「このままにしておくものかと言ったそうよ」「でもさ矢野さんぐらいじゃない男も女も仕事本位」「だからちやほやしない」「工場の総務に訊いたのだけど矢野さんに泣かされた子ほど懐かしがっていたそうよ」「でねある男が専務の娘に近づいてものにしたらしいの」「火曜サスペンス」「工場は仕事本位みたいとだからそのこの昇給も私たちよりずっと上」「殺してやりたいと思ってもおかしくないわね」「今度の平取り」「天下りね」「三鷹と名古屋に土地家持って」「あれに飛ばされた人も多いね」

握り寿司の盛り合わせがきた。5人前が三つ。「さあ飲んで食うてといきましょ」「酔ってトラにならないで」「経理のあの人建設資金を追いかけた」「飲み食いは業者を呼び出して払わせる」「その彼氏医学の知識があったのね」「国立病院も首をかしげて」「どうやって金を浮かしたか暴露すると息巻いた」「下村常務に泣きついた」「経理のエースも取締になれなかったでしょ」「二人で泊りがけの小旅行」「仕事本意の人は気持ちいいけど本社では変わってゆくわね」「所詮はサラリーマン」「その痛みは強度のストレスからきている、精神的なものだとの診断だったの」「休まず遅れず事勿れになってしまうのね」「建設省も宮内省にも手を回してもみ消しを図った」


矢野がこの脈絡のない送別会の話を整理すると
1下村当時常務の娘の脊髄に菌が入ったのは何者かが脊髄に菌を注入した。何者かは常務に強い恨みを持つ者でその針先が本人でなく娘に向けられた。
2建設省の天下り取締役(当時は部長)は工場建設に際し業者から賄賂として名古屋東京仙台に土地を取得した。名古屋支店工場、都内工場の移転統合と多額の金が動いたが原価計算からその分が上乗せされリベートとして平取締役に流れた。さらに下村常務にも。東京工場の跡地35万坪は住宅公団に売却。こちらは建設省に解体業者、建設業からそれなりのリベートが流れたのであろう。
3皇太子の工場視察は彼らにとっては絶好の機会であったが、視察そのものも誰かのシナリオであったのかも知れない。隣接地の買収が相場をはるかに上回るものであったことも傍証となろう。

矢野が驚いたのは日頃気にもかけなかった女子社員が事の本質を見抜いているということだ。矢野は谷和子、香川京子に夢中であったからか、無関心であったか。俺は会社を食い物する連中にかしづくことはできないと思った。

女子社員の送別会は盛り上がりを見せる。金銭感覚はしっかりしているのに何故だ。「私酔っちゃおうかしら」と駒込直美が言った。「そうだよ、流した涙だけ矢野さんの愛情が今になってわかった?」「ずいぶんしごかれたわね。今日でお別れもう会えない」と口々にはやし立てる。「私を奪って、今夜は帰さないって言いなさいよ」直美が立ち上がって「私を奪ってください」と言った、きゃあー、かっこいい。「次は酔ったら介抱してね、だよ」「酔ったらホテルで介抱してください。今夜は帰しません」「その調子」「そこで私酔ったのかしらと肩にもたれる」駒込直美が「私酔ったのかしら」と頭を矢野の肩に載せる。「もっと色っぽく、観てなさい、こうよ。矢野さんわたし、酔うたかしら」「夜鷹か三鷹か」「ひどいわ」「私が模範演技するね」と次次に迫る。「私、酔ったかしら」と胸に顔を埋める。「まあまあね、愛染かずら」「カサブランカで行きなさいよ」

矢野が電話の呼び出しを受ける。商社の磯松に転職先を頼んでおいたのだ。「あら帰るの、ドイツの話聞かせて」「今日は本当に有難う。うれしかったよ」と矢野が礼を言った。「いやです、帰らないでください」と駒込直美が半分本気で言った。「お前は歯を磨いて寝ろ。俺のあとのこと頼んだぞ」「わかっています」


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