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作品名:合唱物語 作者:佐々木 三郎

第14回   第四章 合唱団員同窓会 脱藩者
第四章 合唱団員同窓会


脱藩者

明治維新の若者には藩を背負う者と藩を飛出し、」国を背負う者がいた。前者は薩長土肥、後者はその他の藩に大別されよう。もっとも異国の支配から日本をどう守るかの観点では共通したものがあったであろう。これらと対照的なのが藩にしがみつくものである。100年後の昭和の若者はどうか。藩を会社に読み替えると解りやすいかもかも知れない。矢野健は国を思うような人物ではないが会社にしがみつくような男でもない。脱会社に近いだろう。

矢野は帰国後何事もなかったように仕事したが、周りは冷たかった。下村はすでに専務昇格の内示を受けていたから自分の権威を無視する若者が許せなかったのだ。自分でも無能なことはわかっていても専務という肩書には権威があるはずだと怒鳴りたい気分だ。管理部門の人間は全員俺にひれ伏すべきだ。
憎しみとは己を無視する者に対して生じる。下村の矢野への憎しみは日ごとに増大してゆく。とくに私は会社に雇われているのであってお前に雇われているのではないという態度が許せない。これは生理的嫌悪である。あらゆる手とりわけいじめを使っても矢野を排斥しろと総務部長に命じた。下村の後継者として総務部長になっていた片山は大人げないと思ったがそのうち自分が専務の地位に就くまで好きにしなさいと考えていた。片山にとって下村は一時の盟主であり、己の出世の踏み台に過ぎない。
片山は戦略を立案することはできないが個々の作戦を実施できるから下村よりはましだが大した人物ではない。片山は矢野の評価を察知していた。『組織への忠誠とは上司への絶対服従である』ことを矢野に徹底させる良い機会だ。しかも下村に命じられてのことと言い訳できる。彼自身、矢野が自分を下村の腰巾着と観ていることを感じていたのだ。能ある鷹は爪隠すのだよ、矢野君。

矢野は仕事のできる人間を尊敬し大切にするが口先だけの人間を軽蔑する。設計部長の安倍は矢野に眼を掛けてくれた。矢野が公害に取り組んでいた時のことだ。矢野の抱える問題に適切なアドヴァイスと支援をしてくれたのだ。矢野は物事の本質で話すことができる安倍を尊敬した。安倍も問題をつかみ解決しようとする矢野に好感を持った。仕事師の感性が共鳴したのであろう。
しかし総務部の安倍に対する評価は低かった。理由は簡単明瞭である。下村が安倍を敵視していたからだ。安倍の発明は世界的であり会社が存続できるのはその発明によることは自他ともに認めるところであったから次期社長候補と目されていた。無能な下村にとって安倍は出世街道での最大の障害である。
片山はこの図式を理解しない矢野を異星人のように感じた。サラリーマン社会は上司を持ち上げ、見返りに引き上げさせるところである。上司の意向は社是にも優先する。基本中の基本である。これを無視することは反逆である。入社して1年もすれば理解し行動できるはずだ。江戸時代から忠義とは主君対するもので藩、幕府といった組織に対するものではない。これが組織の正義だ。

その頃社内で英会話教育に力を入れていた。技術系職員の海外出張また海外からの視察が増えていたからだ。講師は下村の縁故者が採用される。日常会話には問題ないが技術的話となると問題である。技術英語が求められる。講師料は週1回2時間で1万円であったから月4万円になる。いいバイトである。学卒の初任給が3万円から5万円になっていたが。
矢野もめったに使うことのない英会話より実務に役立つ技術英語の必要性を口にするほど幼稚ではなかったが自分の担当する高卒の高専受験の英語教材に工業英語を選んだ。高卒で入社しても企業の高専を終えると学卒高専卒のキャリア組に編入される、高専在学中も給料は支払われる。しかし試験問題は大学の一般教養程度のレベルである。高専を目指す者には寮で文型を徹底的に教えた。主語、動詞、目的語、補語 がわかればある程度の文意がつかめる。
一方、高専を受験する気にない連中には工業英語をやらせた。彼らは旋盤、切断、溶接等の単語がわかると文意を掴む。現場で体験しているからだ。矢野が日本語に訳しても矢野自身が理解できないものを彼らは理解した。「おい俺がわかるように説明しろ」学卒はわからないことを質問する。高卒との大きな違いだ。「鋼材に旋盤に当てるには角度が重要と言っています」「なぜ角度が重要か」「当たり前でしょ。鋼材を水平においてノギスを垂直に当てないと精度が出ないでしょうが」「全国的にそうか」「いやだなあ、矢野さん世界的にそうですよ」「ふーん」「まあ矢野さんは技能五輪の工場選抜も無理ですね」「俺は技能五輪に参加しないからいいのだ」

言語は意志、思想、概念の伝達手段である。手段を持っても伝達すべき概念そのものがなければ無用である。米国の有名な会社の技師が工場視察と打ち合わせにやって来た。専門的話になると海外部の通訳は窮する。安倍が手振りを交えて片言の英語で説明するとその技師は大きくうなづくと同時に安倍に敬意を示した。技師同志では流暢な会話は不要である。細部については筆談で事足りる。二人は旧知のように意気投合した。
その安倍がハノーヴァーメッセの展示会に出席すべく英仏独の会話を勉強し始めた。矢野はハノーヴァーで民泊しているから懐かしかった。安倍は会社でリンガフォンを買って欲しいと言ってきた。矢野が快諾すると上司が怒り出した。当時は取締役部長であった下村の意向を恐れてのことである。事は是非ではなく上の意向で決まる。安倍をライバル視する下村の意向が何故わからぬと怒鳴りたかった。
矢野は「これからは英語のほか仏、伊、ロ、スも必要と成ってくるでしょう」「部長も海外駐在員を視察して回らなければならないでしょうから役立つかと思いましたが部長はフランス語が堪能だから要りませんね」「いやあ僕のフランス語は学生時代にかじった程度だからね」と乗って来た。「これからの国際化に向け総務が全社を啓蒙してゆくべきかと考えますが」「僕もそう考えていたよ。スペイン語圏内への輸出が延びているからね」「中南米からモロッコですか」「そうなんだ、アフリカはフランス語圏だが中南米はスペイン語も必要だよね」下村が矢野に同調するとその上司は困った顔をしていた。ザマあみろ、腰巾着金魚の糞的胡麻擦りめが。下村は部長研修でツッパリ社員の往なし方を習得していたのだ。矢野に話を合わせたのは賛同した振りをしただけである。ここで声を荒げては自分の権威に傷がつくと思ったからである。下村はこういう政治的行動にはそつがない。

下村は思う。あの頃は矢野を必要としたが専務の座に座れば奴は用済みだ。今日のような反逆は見逃せない。見せしめの為にも左遷すべきだ。自分には専務の次は5000人の頂点、社長の椅子が待っているのだ。全ての者が自分にひれ伏すのだ。この快感は権力者にしかわからない。俺の権力に恐れを示さない者は抹殺すべきだ。

日本社会は本質論と損得論がぶつかる社会だ。仕事本位か出世本位と言ってもいい。出世とは私腹を肥やす手段である。この構図は安倍と下村に象徴されていた。矢野は李陵であったかも知れない。しかし矢野も無策であったわけではない。下村の意図を察知して脱サラの準備をひそかに進めていた。行動範囲を世界に広げなければならないから容易ではないが日本国内、会社内のことはさほどのことではないと思い始めていた。
会社を辞めるのは簡単だが入社に際して世話になった教授と支店長に顔向けできるようにしておきたい。自分がこの会社に存在したこと残しておきたい。それが自分に対するけじめであると思っていた。すでに平均的総務部員が束になってもなし得ないことをやってきたが最後に許認可届出の手続きを平準化しておこうと考えていた。下村、片山のいやがらせなど燕雀の囀りに過ぎない。

矢野は新入社員の駒込直美に全支店営業所工場から現時点の許認可届の写しを集めるように命じた。それを分類させると朱筆で訂正してゆく。「これと同じように書け」と命じた。それを返送させる。新会社の名称所在はゴム印を同封している。やがて名称変更にともなう許認可申請届が本社に送られてくる。これに代表者、社長印を押して送り返す。官公庁の受理印受付印を押したものが送られてくる。「この調子ですべての許認可届を1月で終わらせろ」と直美に命じる。
根拠法令規則を一覧にまとめる。公害関係でやった手法だ。駒込直美はいろいろと質問してくる。「やっているうちにわかってくる。いちいちきくな、学校じゃないぞ」直美が泣きべそをかく。矢野が法律、政令、規則とA4の用紙に貼り付けてゆく作業は声を掛けることすら拒絶していた。その用紙をコピーすると解説を書き込んでゆく。仕事に没頭するとはこういうことかと直美は思った。

直美が原稿の朱書きが終わったものから矢野のトレーに入れてゆく。この流れ作業が2時間続いた。矢野がトイレに立つのをみて直美はお茶を入れた。矢野は無言で茶をすすりながら解説を書き込んでゆく。直美がトイレから戻ると朱書きの原稿が返って来ていた。FAXのこと、とメモが止められていた。
もう一部は清書のこと、とあった。朱書き原稿の根拠法令と解説だ。この作業は2週間に及んだ。矢野は口も利かないが直美にはその意図がわかって来た。出先からの問い合わせもほとんどなくなった。朱書きと根拠法令と読み合せると直美にも許認可申請届の意味がわかってきた。「もう少しやさしくできないのかしら」と言っていた周りも何も言わなくなった。

その日は入社5年目の柴田勝枝が休んでいた。「昨日空便で送った契約書、特急で公正証書まいて(作成)欲しいのですが」と名古屋支店の岡本から電話が入る。「どの分ですか」「明王寺建設です。ヤバイみたいです」「わかりました、今日中にまきましょう」と電話を切るなり「駒込、公証役場にゆくぞ」と言った。どぎまぎする直美に「その契約書を封筒に入れろ」と怒鳴る。公正証書作成委任状の債権者蘭には代表取締役の捺印が要る。「ここに社長印をもらえ」と直美に指示する。課長には「名古屋支店やばいようです」とだけ言った。
会社を飛び出すと公証役場に走る。事務局長にお願いしますと頭を下げる。事態を察して局長自ら契約書をチェックする。債務者の印鑑証明の印影と異なるものがある。割賦金額と合計額の異なるもの1件。「他は大丈夫ですね」と局長が言った。「現地と打ち合わせてきます。お前は残れ」と駒込直美を残して矢野は会社に取って返す。「矢野さんコピー」と役場の職員が補正箇所のある契約書の複写を手渡してくれた。会社に駆け戻ると名古屋支店に電話する。「FAX着きましたか。どうしますか」「債権回収部と協議して折り返し電話します」岡本とのやり取りが終わると課長に指示(了解)を仰ぐ。
補正のあるものを後回しにするか、他の契約書と一緒にやってしまうかだ。「総務としてはどちらでもいいが今回は債権部との協議が必要ですね」との返事だ。岡本から一緒にやってくれと言ってきた。「今債権部からも突っ込んでくれといってきたよ」と課長。俺が言わせたのだ、無能な者は黙ってうんと言っておればいいのだ。矢野は公証役場の事務局長に「一緒にお願いします」と電話入れる。そこへ債権部の高島が執行分付与申請委任状への社長印押印請求書を持ってきた。事態は緊迫していた。

公正証書は金銭債権にしか強制執行力がないのだが機械の所有権を主張するには証明力において有効である。債権回収は早い者勝ちである。暴力団が債務者の目ぼしい財産を実力で押えることが多い。お兄さん方も公正証書に対してはそれなりの仁義を切ってくるのだ。
そこへ駒込直美が息せき切って返って来た。矢野が公正証書を受け取りながら「よくやった」と言って高島に見せる。「早速空便で名古屋支店に送ります」と高島は文書課長に頭を下げて帰ってゆく、すぐ債権部長から総務部長に感謝の電話が入る。名古屋支店長と総務課長からも文書課長に感謝の電話が入った。文書課長も公証役場に電話を入れ深々と頭を下げた。

その日の駒込直美の業務日誌には次のようにつづられていた。「業務は考えるよりも行動することが大事だと知りました。何故そうするのかはあとで考えればいいことですし、また自分なりの答を出して正しいかどうかを自分で採点してゆくところが学校と違うところだと思いました。新人の私を一人前に扱ってくれた会社に感謝しています」


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