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作品名:続 椰子の風に吹かれて 作者:佐々木 三郎

第10回   山田中尉の墓参り
山田中尉の墓参り

 ユキと清美は日本旅行、山田中尉の墓参りの準備を進めていた。このような重大事項を旦那にも話さないのがフィリピンスタイルだ。直前まで坂本は知らなかった。俺には予定がある、二人で行ったらいいだろう。だって清美さん日本初めてよ。分かりきったことを言うな。怒らないでよ。怒らないでか。フィリピン女は一つのことに猛進するから他のことは目に入らない、気にしないのだ。
 ユキさん、また同じ過ちを犯したわね、隠事日本人とくに坂本さんが嫌うことよ。だってお母さん清美さんのお祖父さんのこと、入国のことで頭がいっぱいだった。あなたのそういうとこ私は好きよ、でもね旦那様をないがしろにしたのだから手討ものよ。てうち?刀で馘を刎ねる奴?そうよ、無礼討ち。私たち馘を刎ねられるの。今度は初犯じゃないから大変よ。手が掛るわね。坂本さんに電話してみるわ。すみません。お土産高くなるわよ。
 すると塩崎さんもご存知だったのですか。私は、たった今、、ユキから聞いたのですが、まあ、坂本さんに無断で事を進めたことは責められべきでしょうが、動機は清美さんの夢を実現させようとしたことだから許してあげて。情状の余地はあっても量刑の問題です。そうね、夫婦喧嘩に私の出る幕はないわね。真知子は早々に話を切り上げる。
 左様でござるか、ご厄介をお掛けしました。されど娘のために男の約束に不義理致すは、、坂本さんとどんな約束されたかは存じませんが、墓参りのほかに山田様の日本行の方策を探る目的もございますのよ。それがしの、やさしい娘じゃからのう。お三方(男軍団)もわかって下さるでしょう。うむ、ここは塩崎殿におすがりするしかないの、何分よしなにお計らいくだされ。心得ました。

 婿殿、昨夜夢をみた。父の遺言が仏壇の奥から見つかった。叔父がそれがしと妹に会いたがっているのじゃ。それはきっと正夢でしょう。清美が近々日本に行くそうですから確かめるでしょう。何、清美が日本に、メルダ聞いているか。私聞いていません。親に無断で外国に行くなど、許せん。絶対に許さん。そうでしょう、ユキもいやユキが言い出したらしいのですが。共犯じゃ、処断すべし。
 共犯と言っても清美は従犯でユキに従っただけですから。共同謀議は明らかなれば共同正犯、同罪でござる。婿殿、そのような甘い態度が女をつけあがらせる。びしっと離縁状突きつけなされ。それは過激な。メルダそうであろう。そのとおりに御座います。聞いたか婿殿、日本男児はかくありなん。げに。

 両名処分で婿殿の機嫌が直りました。それは上々でございました。さすが元外交官夫人は策士でごさるな。あら、戦略ですよ。これはご無礼仕った。あとは清美さんね。はあ、よくよく申し渡しておりますれば。清美さんなら上手くやるでしょう。この度は誠にかたじけのう存ずる、先ずは御礼方々ご報告まで。ご丁重に、ご成功をお祈りいたします。では、これにて御免。

 清美から電話が入る。今からあなた会いたい、許して下さいとは言いませんが謝りたいのです。私はまた機会があると思うけど父の夢は存命中に叶えてあげたいのです。あなた力になって下さい。そうか、忙しいが何とか時間をつくろう、近々にそちらにゆく。さようでございますか、何卒、よろしくお願いいたします。ユキは清美と坂本とのやり取りを聞くとはなしに聞いている振りをしていた。ことは真知子の筋書き通りに運んでいる。やはりお母さんはすごいな。
 あなた、お出かけですか。ああ、山田殿がお呼びだ。私、今日から三日間、児擁護の審議会がございますのでご一緒できません。審議が終わり次第参ります。ごめんなさい。うむ、仕事を大切にいたせ。ありがとう御座います。今すぐ旅の支度を整えます。塩崎真知子脚本演出、ユキは改めてその手腕に感服した。そうだ、岡本理事長といい、日本の女は怖いなと心底感じるのであった。

 あなたごめんなさい。バギオの清美の部屋には紀和が眠っている。もういいよ。夫婦の和解は和合にしかず。坂本は清美を抱き寄せる。喘ぎながら坂本の頭を抱く清美。意識が遠のく中で安心した表情に変わってゆく。最近見られなくなった日本の女だ。やさしく髪を撫でてやる。寝顔も可愛い。和服を着せてやりたい。清美は準日本人だから肌が合う。坂本は国際派だから国籍人種を問わないが、気が合って肌が合うとなればやはり日本人かとも思う。出尻はと胸にほんのりとした色気を感じる。広幅尻もいいが、たおやかさに欠けるな、これは愛欲理論意追加すべきだ。坂本は寝そべって天井を見る。紀和が起きた。坂本は娘を抱き上げる。清美が見上げている。坂本はふと目をそらす、見透かされた気がしたのだ。娘の肌は清美に似て色白の餅肌だ。お前のお母さんはいい女だ、あんなふうに育ってくれ、まだ誕生日も来ていないか。
 あくる日ユキは南海雄を連れて真知子の家につく。お母さんありがとう。上手くいったようよ。間もなく山田ご夫妻も着かれるでしょう。山田さんは坂本さんに相談があるから清美さんが報告にくるわ。お母さん南海雄を庭に出していい。なるほどそうね、夫婦喧嘩は子供の前でやっちゃいけないからね。マリアとアンジェリータが、梅雲と許細君もやってきた。陳とカルロスは荷物を運ぶ。亭主関白とはいかない。言われるままにそれぞれの別宅に向かう。清美も紀和を抱いてやってくる。
 お母さん凄い。男は所詮女の掌から出られないのよ。私たち連合は不滅ね。キャーキャー声をあげる。もう一人が加わるのはまだ先のことである。 庭にはモニカ(マリア)アナヤ(アンジェリータ)碧渓(梅雲)壁谷(許細君)南海雄(ユキ)が遊んでいる。カルロスがある晴れた日にを歌っている。男の集合を呼びかけている。坂本と常男は少し時間をずらして登城する。間もなく女軍団7男軍団4の両軍の対戦が始まるであろう、いや既に始まっている。



 坂本ユキ南海男清美紀和の関西空港の入国審査。ちょっとこちらでお聞きしたいのでよろしいですか。何を訊きたいのだ。親子関係などについて。拒否したら。入国できません。そうか、貴方の職名氏名は。ぶら下げた名札を見せる。デジカメで写真を撮る。名前は。末広巌、生年月日は。あの審査するのは本官の方ですが。審査資格があるか、審査しているのだ。法務省の役人だな。よし、職務に関する限り質問していい。
 坂本が絡むのには理由がある。日本人が世界中ほとんどの国で観光するにはパスポートだけで足りる。フィリピン人はそうはいかない。とくに日本国は入国審査が厳しい。そもそも観光ビザを取得するのすら難しいのだ。たとえば日本人男性がフィリピン女性と結婚して子供ができた場合子供は日本国籍を取得できるが母親は簡単でないのだ。ましてや坂本とユキ、清美との関係は内縁といったところ
南海男紀和の日本国籍は認められるはずがない(両親が婚姻中という要件が父親の認知だけでいいことになったが日本の法務省は世界一厳格と言われる)。
 ユキ議員の工作でマラカニアンから日本大使館に圧力をかけた。大使館の本省決済と逃げを打ったが外務省と法務省はあっさりOKを出した。外堀も内堀も埋められていたのだ。この国では国家権力を握ると大抵のことがまかり通る。ただ、ユキは大統領から一つ借りを返しましたねと一言刺された。山田常男にビザが下りるになお時間がかかるであろう。見通しすら立っていない。

 まず、あなた方のご関係をお聞きします。右からユキ、南海雄、坂本、紀和、清美だ、頭に入ったか。南海雄さんとの関係は。彼の母が右のユキ、左が父。パスポートもそうなっているだろう。いえ、そうです。どうして分かりきったことを質問するのだ。赤ん坊の紀和、抱いているのが母清美、父坂本。他には。その事実を確認するためにお聞きするのです。あんた馬鹿か、処女が信じていいのね、と聞くようなものだ。はあ?事実を確認するには事実を証するものしかないだろう。よく公務員試験受かったな。質問して何が分かる。これは俺の戸籍簿謄本だ。コピーとるか。

 お借りします。まだあるのか。旅行目的は。そこに日本語で記載してある。ではご職業は。記載のとおり。他の入国者にも同じように質問するのか、俺たちは特別なのか。いえ、規則です。規則、身してみろ。できない?個人情報が入国に必要な根拠法を示してもらいたい。法律通りに世の中が動くなら行政などいるものか、国会だけで足りる。公務員は全員失業だな。どうやら末広審査官も坂本の不満を理解したようだ。ふたりの現地妻、ふたりの子供。ベンチから程々にのサインが出る。

 IDみせてやれ。国会議員?記載してあるだろう、記載が信用できないか。いえ、結構です。お手間を取らせました。こんな下らない質問で清美の祖父の祖国への思いは傷ついた。謝れ。誠に申し訳ありません。あんたの入国審査の質問を書面に書きなさい、これから行政評価事務所に持ってゆくから。ちょっとそれは。まともな質問なら職務として理解できるが許せない。

 行政不服と損害賠償、国家賠償だけじゃないぞ、あんた個人に対する民事請求もだ。覚悟して置け。末広審査官の顔が緊張する。それと口の利き方勉強し直しておけ。ディー謝っているのだから許してあげて。清美さんのお爺様は日本軍中尉だったの。その息子さんが日本国籍を取って墓参りをしたいということなの。わかる。わかります。息子さんは清美さんのお父様で65歳になられるの。早くしないと日本に来られないでしょ。それでしたら、法務省に国籍専門の同期がいますから相談されてみては。私の方からも電話しておきます。これが彼の電話番号です。私の携帯も書いておきますから。まあ、うれしいわ。では、皆様、よいご旅行を。

 やれやれ、悪いのにあたったなあ、右翼とも見えなかったが、、、。だいぶやられていたようだな、あの手には逆らわないほうがいい。はあ。昔、旅券発行の女が首になったことがある、もっとも、女の態度は傲慢だったが、その申請者は旅券課にその足で怒鳴り込んだのだ。しかしいい女を二人もものにするとはあの男何者だ。政府筋から圧力がかかったようです。みたいだな。あの脅しとすかしは大したものだ。顔は怒っているが目は笑っている。場慣れしてますね。

 荷物をもって外に出ると山田清美の大きな文字。おい、清美あれは和雄叔父さんか。清美が手を振る。清美か、兄貴にそっくりだ。叔父様。よく来た。肩を抱き寄せる。とにかく車に乗ろう。バンが近づく。息子の洋平だ、清子とハトコになる。親父俺と常男さんが従兄だ。そうだな、清子とはなんというのかの。まあ、それはともかく、よくいらっしゃいました、荷物を座席に積み込む。お疲れでしょう、親父うどんか蕎麦でも。そうだな、あすこはどうだ。ああ、いいなあ。

 何がよろしいかの。私は山掛け蕎麦を。私きつねうどん。じゃあ、私は山菜蕎麦に。しかし清子は兄にそっくりだ。母は明憲は私に似て男前だよと自慢していた。大叔父様こちら連合いと娘紀和です。こちらはユキさんと息子南海雄さん。私を日本に連れて来てくれましたの。それはそれは清子がお世話になります。いえ、こちらこそ、親しくしくさせていただいております。ささ、熱いうちに。このトンビにあぶらげおいいしいわね。南海雄にうどんを与えるとずずっと食べる。おお食の太い子だ、いい男になるぞ。ナミオ君はどんな字をかく。南の海に英雄の雄です。南海のますらおか、この地方は南海道と呼ばれた。北海道じゃなくて。あれは北じゃ。東海道、西海道、山陽道、山陰道、近畿道、北陸道、ええと、中仙道、東北道か。

 海の道、山の道ですか。清子は日本語がうまいのう。ユキさんもいい日本語を話す。しかし昔の呼び方の方が感覚的に分かりやすいですな。いかにも。南海道とは四国とこの和歌山だ。お詳しいの。申し遅れましたが坂本です。清子がお世話になります。こちらこそ常男さんとも親しくさせていただいております。紀和は常男さんが紀州和歌山から名付けられました。そうかそうか、常男と妹、かなと言ったか、元気にしとりますかな。ええ、お元気です。

 山田中尉の墓は和歌山市の郊外、小高い山の中にあった。線香と花を供える。百坪ほどの墓地は山田家の墓が並んでいる。これは私の両親の墓。清美が線香を供え手を合わせる。清美ですとつぶやく。墓地の横に市街を展望できる空間がある。坂本さん、向こうは阿波の徳島。正面が那賀川、右に勝浦、徳島でしょう。同じ地名があるということは、清美が言いかけると、昔から人が行き来していたということ、と山田老人。どっちが本家。和歌山にきまっとる。ユキが坂本をみる。いいんだと眼で答える。

 山の麓に山田家がある。広い青田に囲まれた農家だ。築180年とか、母屋だけで100坪はあろう。納屋、離れ、土蔵中庭、かつての日本の風景が残っている。清美の来訪を聞いて親戚が集まってくる。裏山と家屋敷はご先祖様が残して下された。ところで客人猪はお好きかな。是非、さらに五目寿司を所望致す、異国に暮らす身なれば。いかにも。

 老人、山田和雄が話すところによると父は農家の長男だが東京文理大学を卒業して母校の教師をしていた、母親は東京の商家のむすめだが駆け落ちの形で山田家に入り近くの女学校の教師をしていたようだ。二人の息子を授かり学究の夢を子供に託すも戦雲はこれを阻む。学徒動員の国策に従って志願を生徒に勧める父は毎日悩んでいた。明憲から志願すると聞いて親子喧嘩になった。お前のその能力をこんな下らない戦争に使うのか。長男は志願しなくていいことになっとる。存じております。しかし山田家のためです。長男の私が志願すれば一族からの志願はしなくて済むでしょう。教育委員会と軍とに掛け合っていただきたい。父は抱きしめてゆかしたくないと号泣したそうだ。父母は山田中尉の帰りを信じて願って墓をつくらなかったので和雄が建てた。

 本当明憲叔父さんの御蔭で俺たちの親父は志願せずに済んだもんな。私も女学校で叔父さんの姪ということで鼻が高かったわ。ほれに、男まいやったしな。マニラで憲兵をやってたときは日本兵からも現地の人からも慕われていたそうだ。戦友の方が話してくれた。あるときな、中国から転戦できた日本兵がマニラで踏み倒したとき金を与えて払わしたそうだ。これにはごろつき兵も一目おいて飲み屋のママを紹介したそうだ。ママのほうが逆上せたが叔父さんやんわりと往なしたそうな。俺は憲兵を志願した訳ではないが憲兵らしく振るまわななるまい。少尉殿は筋を通すお方だとゴロツキ兵も叔父さんには従ったらしい。

 清美さん、これ湯上りに着なさい。ユキさんはこれ。叔父さんお風呂に入ってもらって食事にしましょうか。おお、そうじゃのう、旅の疲れをとって貰おう。坂本さんの浴衣はこれでいけるわね。どうぞこちらへ。ディー南海雄と入って、私清美さんと。わかった。広い木風呂は気持がいい。南海雄を洗って湯につかる。日本の風呂はいい。南海雄は潜っては跳び上がる。坂本は眼を細める。坂本が頭を流していると南海雄が下からチンチンを引っ張る。こら、大事大事、だめ。いてえ、止めろ。風呂桶に逃げ込む。背が立つかと心配するがぴょんぴょんバタバタやっている。

 ユキと清美の浴衣は良く似合っている。若い人はきれいねえ。それあげるけん持って帰り。ほんとうれしい。袂を引いて回って見せる。ようきれいどころ。お兄さんいい男ね。そうかい。さあ、始めましょう。すみません、ちょっとお願いがございます。今回の旅は山田中尉の墓参りのほかに常男さんの日本国籍取得が目的です。そのために皆様のお力添えをお願いしたいのです。やや間があって、なんでもするわよ、ね、叔父さん。我が一族のためのご尽力かたじけない。国籍取得は日本に入国するための手段です。常男さんは父の国を訪れたいだけで日本に住む気はないと思います。あら、住むなら土地も家もあるし、いつでも帰って来たらいいのに。姉さん、それが簡単に簡単にいかないから坂本さんがお話されている。そうなの、御免なさい。

 国籍取得となると親子関係確認判決をとることになろうかと思われます。あした、法務省にいって相談してきます。何分よしなにお取り計らいくだされ。わしも常男と花南にあってみたい。それならフィリピンにお越し下さい、我々がご案内します。飛行機で3時間車で4時間です。バギオの北、世界遺産で有名な棚田がつづくところです。いきたい、みんなで行こう。みんなとは行くまい、半分ずつじゃな。そうじゃ、男と女に分かれたらええ。あんた何考えとん、悪いことしたらあかんよ。たまには羽伸ばしたい。なにいよん、こっちのせりふじゃ。

 入国できたら3月ゆっくり日本を見て回れます。そうだわ、清美さん電話かけたら、インターネットできますか。おい、ノートパソコン持って来い。小学生の男の子が立ち上げる。小母さんできるの。お姉さんと言いなさい。きれいでしょ。きれいけど若くない。こら、いらんこというな。清美がテレビ電話をかける。でない。いないのかしら。

 呼び出し音、常男の顔、お父さんお父さん、清美か怒鳴らなくても聞こえておる。そちらのボリューム上げて、スピーカーの横につまみがあるでしょ、それ右に回す。こうか。大きすぎる、少し戻して、そう、今和雄叔父さんのところ。清美のけ、常男、叔父の和雄じゃ。おお、叔父上、父から聞いております。そうか、兄貴にそっくりじゃ、花南は息災にしておるか。はい息災におります。近々会いに参る。楽しみにお待ちしております。ここにお前の従兄たちが集まっておる。男の子がパソコンを回す。これ。お爺ちゃんみんなの顔を映すんじゃ。ほうか、なるほど。あっちのなパソコンやったらカメラだけ動かせるんやけどな。ようしっとんな。なんでもきいて。娘清美、孫娘紀和がこと、よろしくお願い申し上げる。

 一同深々と頭を下げる。少年が驚く。四年一組山田太郎、青葉の笛を歌います。

一の谷の 軍(いくさ)破れ
討たれし平家の 公達(きんだち)あわれ
暁(あかつき)寒き 須磨の嵐に
聞こえしはこれか 青葉の笛

更くる夜半(よわ)に 門(かど)を敲(たた)き
わが師に託せし 言の葉(ことのは)あわれ
今わの際(きわ)まで 持ちし箙(えびら)に
残れるは「花や 今宵(こよい)」の歌

常男が唱和する、父がよく歌ってくれたと涙す。どういうこと。平家物語の一節だ。どうして泣くの。オバちゃん、しらんのか。公達とは平の敦盛当年14、相手は熊谷次郎直実。周りは功名をとの源氏の兵たち、直実泣く泣く敦盛の首を取る。その兜には龍笛小枝、そこで直実、戦場の嵐の中で聞いた笛の主はと。また、平家都落ちの夜、平の忠度は<千載集>の編者である師藤原俊成にこの<旅宿の花>を託す。師いわく、武門に生まれずば歌人として名を残せしものを。
 ユキがぽろぽろと涙を流す。おばちゃんないたらあかん、化粧が落ちるで。山田中尉と忠度とが重なるのであろう。ほんま太郎ちゃんの講釈ようわかるわ、私泣けてきた。私もじゃ。平家物語一の谷の段、本日これにて一巻のおわりー。拍手、拍手。太郎ちゃんは明憲さんの生まれ変わりやねえ。

 翌日、法務省の戸籍課に相談に行く。清美の話を聴くと係長はわかりました、判決取って裁判所に嘱託でやってもらったらどうですか。原告は。本人常男さん、なに、弁護士に代理させたらよろしい。金はなくてもやってくれる弁護士がいます。この人に相談なさったらええと思います。名刺の裏に添え書きをする。あなたのことは税関の末広から聞いてます。ここも役所仕事ですから判決が一番早いと思います。こちらはかの有名な国会議員、ご名刺いただけましたら。上に報告してきます。
 所長室に通される。課長部長もついて入る。所長が出迎える。新幹線はあんじょういってますか。おかげさまで。しかし、凄腕の国会議員がこんな美人とは。今回は私用できてますけど観光客誘致しておこうかなんて。議員、観光なんていつでもできますがな、外務省のアジア局に行かれたらよろしい。あいつの電話番号。秘書が我妻さんですかと、いいながらダイアルする。専用線だ。おでになりました。おおきに、広中です、今すごい美人がきている、フィリピンに観光客を誘致したいんだって。いつでもいい、そう、じゃあよろしく。我妻局長がいつでも寄ってくれと言うとります。議員のお名前は外務省で知らない者はいないそうです。恐れ入ります、よろしくお引き回しください。日本語もお上手ですなあ。こちらのお嬢さんは。山田常男さんの娘さんで大学院で日比文化比較を研究されておられる。中尉のお孫さん、一日も早くお父様が日本にこられるようにしますから、日本に留学されたらどうです。所長、抜け駆けは困ります、担当は私ですから。中谷係長がむくれる。

 この問題を扱っているNGO事務所を訪ねる。弁護士が出てくる。話を聴いて判決まで半年、まあ三月はみといてください。訴状はこんなものでどうだす。よろしかったら委任状に署名捺印ください。はんこないですが。山田さんのはんこありますよ。これどうです、男らしいでしょう。署名はあなた日本人でしょ、代理で署名してな。男らしい字。いけますか。いけていけて。日本の役所は形式が好きですから。筆跡は問いません。これからもお願いするかも。戸籍簿謄本もってきてくれる人は少ない。あんさん、よう気がまわりますな、お話も簡潔明瞭、助かりますわ。
 これは祖父の遺言かと持って来ました。はんこがないから法律上の遺言とは言えませんが十分な証拠ですよ。これがお爺様が書かれた事を証明すればいい。戦友の方が間違いないと言って下さいました。その方に上申書を書いていただいたら裁判所も納得しますよ。といいながらペンを走らす、こんなもんでどうです、これにハンをもらえますか。大丈夫と思います。
 それでお礼のほうは。よろし、よろしい、我々ボランティアですねん。私に何かできることがありますか。日本語がこれだけお上手やから通訳してくれたらな、どれぐらいいけます。バギオ周辺でしたらだいたいわかりますと清美。そりゃ助かる。わたしもね、タガログは少し勉強しましたが、はやヴィサヤになるとお手上げ。ミンダナオでは苦労しました。私ミンダナオ出身、スバニンとユキ。ほう頼もしい。お二人がいたらほとんどいけますな、言葉が一番難儀ですねん。これ私の名刺です、メールが一番やりやすいですなあ。
 清美とユキも名刺を渡す。学生さん、日比文化比較、ええテーマですな、こちらは、あの新幹線のユキ議員、こりゃ千人力や。先生、つぎの方こられてますよ。今度ゆっくりお話したいです。貧乏暇なしですのでごめんなして。ありがとうございました。よろしくお願いします。

 あんな男もいるのか。でも役所も親切。よかった。やはり日本は素晴らしい。和雄さんに報告しておけ。私がしますと清美。ええ、気が付いたらお腹ぺこぺこ。五目寿司ができとる。すぐ帰っておいで。洋平がそちらに向かっている。和歌山城を駆け足で観てバンに乗る。うまくいったか。はい、洋平叔父さん。親父も86、明憲叔父さんは一回り上だから92のはずじゃ。叔父さんは頭がよかったから学問を選んだ、農家を親父に押し付けたと気にしていたが親父は勉強嫌い農家のほうが向いてるとむしろよろこんどった。そうだ、清美その手紙は持ってかえって常男さんにお渡ししろ。ありがとうございます。でも、コピーはとってある。そうですか、有難くいただきます。どこからみつかりました。仏壇の奥や。え、と坂本の顔をみる。叔父さん、父が夢に見たのも仏壇の奥に祖父の手紙があったそうです。そうかあ、そういうこともあるんやのう。
 清美お腹すいたろう、うどんにすしができとるぞ。おう、紀和も腹へったか、お、南海雄君は食べっぷりがいいのう。坂本殿一本つけようぞ。いえ、この吸い物美味しいござれば。それはそれ、くじらを召されるか。これはめずらしい。鯨、ウエール。紀州は昔から捕鯨が盛んなれど近頃手に入らなくなってのう。美味にござりまする。わしも付き合うか。おーい。お祖父さん昼からのむんですか。客人お接待じゃ。お客さんをだしにして、一本だけですよ。夜は刺身と芋にですよ、飲めませんよ。きつい嫁での、洋平も苦労しておる。お医者さまに叱られるのは嫁の私でございますからね。わかっておる。 
 食事がすんで報告をする。それは上々、お二方のご尽力かたじけのう存ずる。されば那智の滝、熊野大社なぞを案内いたそうぞ、洋平、ほかにどこがいいかの。恥ずかしながら、伊勢へ七度熊野へ三度と申すに、それがし未だに。おやすいご用、車ならば一刻半でござるよ。おっちゃん観光やったらネットで観たら早いで、わしがみたろか、おう、太郎君頼む。
 和歌山から南へ行って白浜で休憩、串本で昼飯食うてから熊野参り。いちんちめはこんなところじゃ。次の日は高野山から生駒を越えて伊勢に行って来る。時間があったら奈良を見て回る。どうじゃ。うん。お爺ちゃんの運転は慎重やからこれ以上はあかん。お父ちゃんやったら飛ばすけんもっと観れる。太郎君かたじけない。なんの、わしも学校がなかったらついたるんじゃ
けんどな。太郎ちゃん気遣ってくれてありがとう。
 美人のオバちゃん日本語よう読まんのか、おせたろか。ユキは美人のオバちゃんと言われてお願いしますと神妙。清美も私もお願いとつづく。ええよ。まず平家物語な。
 祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
        娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらは(わ)す。
        おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。
        たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。

 わしに付いて来な。かっこうええやろ。かっこええわ、太郎ちゃん難しい字も知っとんやね。あんな、字知らんでも丸覚えしたらええ、みなほない言うてくれる。わしもよう書かんけんどな。わしがおらんでもいけるで、ネットで探したら琵琶の音楽入りも出てくる。太郎ちゃんといたら勉強になるわ。ほれほどでもないけどな。意味はここにある。

祇園精舎の鐘の音には、諸行無常すなわちこの世のすべての現象は絶えず変化していくものだという響きがある。
沙羅双樹の花の色は、どんなに勢いが盛んな者も必ず衰えるものであるという道理をあらわしている。
世に栄え得意になっている者も、その栄えはずっとは続かず、春の夜の夢のようである。
勢い盛んではげしい者も、結局は滅び去り、まるで風に吹き飛ばされる塵と同じようである。

 ええこと書いてあるわね、オバちゃん子供のとき勉強してないから今すごく知りたいことあるんよ。清美さんは大学院で研究してるから英語も完璧。お姉ちゃんごついな、わし英語苦手。なんで日本人が英語ならわなあかんの。日本は一つの言語、日本語だけで話ができるけど、フィリピンには80以上言語があるから、タガログ語と英語を標準語にしているのよ。お姉ちゃんそれほんま。オバちゃん聞いてごらんなさい。オバちゃんね、マニラで働いていたときタガログ語ができなくて
よくおこられた。どないしたん。覚えないと首でしょ、ノートに書いていったの。苦労したんやな。日本語も仕事のために必要だからノートに書いてはくりかえしたのよ。オバちゃんやるでえ。それほどでもないけど。でもね、日本語は難しかっ
たわ。どして。
 同じユーでもあなた、おまえ、きさま、貴殿、でしょ。アイはわたし、自分、おれ、拙者、でしょ、おまけに男と女でちがうしねえ。そうそう、我輩は猫である、太郎君英語で言える。ほんなむつかしいんなろうとらん。I am a cay. うそ。ほんと。私猫でーす、もいっしょ。ほんまかいな。オバちゃんのいうとおりよ。自分のことは I だけ、それに男も女もおんなじ。親父も爺ちゃんも。そうよ。相手は You だけ、誰でもユー。じゃあ、平家物語のお礼にbe 動詞教えて上げるね。あなたのおとうさん、は英語で言える。うん、いえる。Is he your father? すごい、じゃあ、答えは。Yes he is my father. Very good.あなたのお母さん、Is she your mother ? 二人は私の両親です、They are my parent. おしい parents ね。そうか。あのこ妹さん、Is she your daughter ? いいえ、弟です。No,he is my brother. よくできました。教科書見せて、ほら、ここみて、まとめてくれてるでしょ。うん。she her her ,he his him 以外は男女の区別はないの。あとは国会議員でも子供でも同じ。だから簡単でしょ。奴が連中の親分か、は Is he their Boss ? 逆に日本語に直すほうがむずかしい。彼はかれらのボスか、では感じがでないでしょ。いえてる。おれ、勉強する。


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