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作品名: 椰子の風に吹かれて 作者:佐々木 三郎

第7回   7
                 山田中尉

 昭和20年(1945)3月日本軍は敗走を続けていた。マニラからバギオへさらに北へと。その中に山田中尉率いる20数名の部隊があった。敗走においても列を整え歩んでいた。この近くに来た時、1羽のカルガモが雛を連れて部隊の前を横切った。部隊は止まりそれをやり過ごした。部族の長であり、バランガイ(最小行政区)の長でもあったメルダの祖父は山田中尉を食事に招待した。
 山下マネーと呼ばれる軍票は既に紙くずとなっていて兵は飢えていた。祖父がカルガモの礼を言うと山田中尉は自分も兵の多くも農家の出であるからと答えた。祖父は食料を与え、兵の休息場所を提供した。二人は夜遅くまで語り合った。メルダの叔母マリリンが食事のもてなしをしながら通訳した。

 翌日弱ったカルガモを潰すのを見とめた山田中尉はこれは雛の母親ではないか、しばらく様子を見てからにしろと強い口調でマリリンに言った。唐辛子を白湯に入れカルガモに飲ます。祖父は山田中尉に部落を案内して回った。稲田でカルガモを見つけた中尉はその目的を尋ねる。食用と聞くと頷いて雛を預からせてくれと依頼した。10羽の雛が届けられた。中尉は別の植田の近くに雛を放ち餌を与える。
 タロー、タローと雛に呼びかける。それは日本人には太郎とフィリピン人にはタロン(滝)と聞こえた。数日後雛は植田の雑草を食い始めた。これを真似ていた男が『家のカルガモは稲を食う』と訴える。中尉は笑って『カルガモに草を教えないからだ』と答える。周りが笑う。『お前はどんな餌を与えているか。まるい草を与えると稲の苗は餌と思わなくなる』一同感心する。

 中尉は兵に白菜、いちご、などの指導を分担させた。畜産に詳しい兵もいた。そんなある日村長から衣服が寄贈された。中尉は兵に着替えるよう命ずると一ヶ月の休暇を与えると告げた。村の生産技術は格段に進歩し生産量も倍増した。農耕具、工具も改良されていった。何よりも農地そのもの改良が大きかった。落ち葉雑草の肥料化は肥料概念のなかった村に衝撃を与えた。一ヶ月の休暇はその都度延長されいつしか無期限となっていた。
 間もなく村長はマリリンの叔父であることがわかった。『山田中尉、マリリンと結婚してはどうか。兄も村人もそれを望んでいる』父親が打診してくる。自分はいつ死ぬかわからない。『戦争は間もなく終わる。マリリンも中尉と結婚したいのだ』この国の打診は相手がうんというまでつづく。継続、反復は力なり。中尉も根負けした。中尉もマリリンを憎からず思っていたから形が欲しかったのかもしれない。村人には理由など要らない、日本兵の知識、技術、技能、考え方が欲しいのだ。

 結婚式は三日三晩続いた。数百人の村人が飲めや歌え踊れ、踊れや歌え飲め。フィリピン人は踊ると幸せな顔をする。踊りは人生のすべてか、中心かも。それはセクシーで露骨なほど受けがよい。日方も負けてはおられない。鬼軍曹が手を上げる。『中尉殿自分は新郎方を代表して黒田節を歌います。この羽織袴をお付けください』ありがとう。中尉が着替えて刀を腰に付ける。エイエイ。『おお、サムライ!』と新婦側から歓声が上がる。

      酒は飲め飲め 飲むならば 日の本一のこの槍を 
        飲みとる程に飲むならば これぞ誠の黒田武士

山田中尉の舞は見事であった。ため息は喝采に変わる。村人が『これぞ誠の』と歌いだすと全員が『黒田武士』と合唱する。三寸の藁束が運ばれてくる。中尉は刀を抜くと袈裟懸けにかける。藁束が滑り落ちる。どよめきが起こる。『あれで首を切ると皮一枚残すそうだ、だから首は繋がっているように見える』『本当か、スゴイナ。あれ欲しい』そんな会話はすぐ広まった。刀を納めて一礼、新郎が席に戻ると村長が大きな盃を差し出す。新郎は一気に飲み干す。拍手が黒田武士コールにかわる。祝儀は人を幸せにする。
『うちの班は稗つき節だ。吉岡上等兵、班を代表して歌え』『はっ、自分は新郎新婦のために心を込めて歌います』『吉岡、頑張れ』班の声援を受ける。

     庭の山椒の木に 鳴る鈴つけて 鈴の鳴るときゃ 出ておじゃれ
     鈴の鳴るときゃ 何というて出やる 馬に水くりゃと 言うておじゃれ
     那須の大八 鶴富捨てて 椎葉出るときゃ 眼に涙
     ないて待つより 野に出ておじゃれ 野には野菊の花盛りよ

新郎が新婦に悲恋の物語と深い谷への水汲みを語る。新婦が父親に伝える。父親が大きな声で周りに話す。『貴様、国は』『はっ、椎葉村であります』『やはりな、いい声だ。ありがとう』新郎が酒を注ぐと歌い手は直立して『光栄であります』と答える。
『もう一度歌ってくれ』 稗搗き節が谷あいに木魂して行った。

 マリリンが臨月を迎えた頃、隣村で急病人が出たと助けを求めてきた。日本兵なら治療できるのではないかと母親が頼んだそうだ。患者は子供か。もうすぐ5歳の誕生日とか。母上、俺は衛生兵を連れて行きたいが、マリリンが心配だ。『婿殿、私が付いています。お産に男手はいりません』隣村といっても山を一つ越してゆかねばならない。村長が用意した馬で急ぐ。
 昼過ぎに隣村に着いた。少年は40度近い熱を出している。発熱前に食った物を尋ねる。家族と同じものを食ったのに何故この子だけがと母親が訴える。衛生兵が触診して腸が弱っている、食中りではなく細菌によるものだと診断した。水か?おそらく。
飲み水を顕微鏡で診る。これは見たことがありませんが原因でしょう。医者はいないか?一人の男が出てきた。医者だが薬がないと言う。このバクテリアは?この地方によく見られ、激しい下痢を引き起こすらしい。男は英語ができた。ドクター炭を飲ませ
たらどうか?いい考えだ、サ−。炭には殺菌力がある。すぐ炭を粉にする。舌が乾いている。蜂蜜はないか?ドクター、脱水はひどいのか?衛生兵が水を炭の粉でろ過する。山田中尉は蜂蜜に混ぜた炭の粉を口に入れて見せ、母親に子供に飲ませろといった。母親は自分も口入れて肯くと子供の口に少しずつ流し込む。
 炭でろ過した水にはほとんど細菌はいなかった。ドクターも肯くとこの水を飲ませるように言った。母親は一口飲んで子供に飲ます。次は熱を冷ますかどうかの議論になった。貴様の意見は?ドクターと同じであります。発熱による殺菌に期待したい考えます。そうか、専門家がそういうのなら。素人ながら子供の体力が持つか心配だ。おっしゃるとおりです、母親の選択をドクターに訊ねて貰ってはどうでしょうか。そうしよう。
 母親は判らないと叫ぶ。この判断は母親にしかできないと中尉が諭す。ドクターも『中尉のおっしゃるとおりだ、お前の決断次第で治療方法も変わってくる。ことは急を要する』と説得する。『熱を冷まさない』母親がきっぱり言った。そのとき赤ん坊が泣き出した。母親が乳を遣る。ドクター、あの母乳を飲ませたらどうか。イェス、乳を搾らせよう。貴方は医学の心得があるのか。山田中尉は笑って子供の身体を拭いてやる。頑張れとやさしく声をかける。父親がタオルを差し出す。お前がやれと手振りで示す。村長が食事の用意ができたと案内する。あとはあの子の体力次第か。衛生兵とドクターが肯く。

 食卓に付くと空腹が感じられる。いただくか、腹減ったなあ。は。山田は頬張りながら食材、料理方法を尋ねる。ビールと地酒が出てくる。これは有難い。村長、父親と乾杯する。貴様も飲め、今日の主役だ。衛生兵に注いで遣る。ドクター世話になった。貴方の診断治療に敬服する。二人はグラスを合わせる。『サー、カーボンにはバクテリアを殺す力があるのか』村長が山田中尉にたずねる。俺のお袋がそう言っていた。『これから村の水源と水路を見て欲しい』これだけご馳走になれば断る訳にもゆくまい。食事を済ませて徒歩で水源まで行く。水路を辿って村に帰る。水質は?水源にはバクテリアはいませんが村に近づくと増えてゆきます。生活水で汚染されるのでしょう。浄化槽か?そうですね。山田は村長に図を描いてみせる。一つ、飲料水は別のパイプを設ける。もう一つ、大きな壷に炭を袋詰めにしてろ過させる。
 パイプは竹でもいいか?壷の底に穴を空けて焼くのは難しい。炭はどれくらいでとりかえるのか。などの質問が出た。パイプは竹でよいが寿命が短い。木枠の水路を設ける方法もある。壷の穴は焼く前に竹筒を差し込んでおくのはどうか。炭の交換は1月ぐらいか、やってみてドクターと相談することだ。山田はそう答えて子供の様子を見に行く。熱が引き出しました、と衛生兵。ドクターも触診してうなずく。しばらく粥を与え、徐々に食い物を増やすように告げると帰路に付く。馬には土産が積み上げられていた。そんなに積んだら馬が可哀想だ。山田がつぶやく。村長は別の馬に積み替えさせ案内の馬の尻に手綱を結ぶ。村人は三人をいつまでも見送っていた。

 それから三日後マリリンが男の子を生んだ。山田は常に男であれとの願いを込めて常男と名づけた。マリリンの両親もツネオ、ツネオと抱き上げる。ところで山田とは?常男の祖父が中尉にたずねる。お父さん、山の田、山の中の田圃ですよ。じゃあ、ここもヤマダかな。そうです。これは小さいから棚田です。川田、上田、中田、下田、それから青田、植田、黒田もあるか。『山田の中の一本足の案山子、天気のよいのに蓑笠着けて 朝から晩までただ立ち通し 歩けないのか山田の案山子』山田が歌って聞かせる。母、祖父母もすぐ覚える。やがて村中で歌われ出す。
 山田は村人の音程がおかしいと感じ吉岡をよぶ。吉岡上等兵、俺は音痴だから貴様正しい音程でこの歌を村人に教えてもらいたい。かしこまりました。吉岡は子供たちを集めて歌って見せる。一人でもおかしいのがいると何度も何度も全員で歌わす。彼の意図は子供にも理解された。子供どうし教えあうようになった。さすが日本帝国陸軍上等兵の教練は徹底している。何事にも飽きやすいフィリピン人も吉岡の熱意と声の良さに惹かれていく。子供たちの歌はリクエストされるほどになった。子供たちは他の歌も教えてくれとせがむ。海、汽車、金太郎、証城寺の狸囃子、てるてる坊主などに人気がある。
 吉岡は村人に請われて日本の歌を教える。音大を中退しているらしい。こちらはゴンドラの唄、荒城の月、茶摘、浜辺の唄、椰子の実などが好まれた。歌声は日本兵を和ませてくれた。昼休みなど現地人と一緒に歌っている。子供たちは山田の家の前を通るときは案山子を歌う。
『山田の中の一本足の案山子、弓矢で威して力んでおれど、
     山では烏がかあかあと笑う、耳がないのか山田の案山子』
2番の歌詞も覚えたぞ、との報告であろう。それにしても上手くなったものだ。

 常男はすくすく育った。三歳にして両親の言葉を理解し智恵もずば抜けていた。五歳では人の心が読めた。他人にも優しい男に育った。山田中尉は常男には目を細めながらも躾けは厳しかった。愛情のある躾けには子供は答えるものである。剣術、柔道、相撲、空手と武術の真似事も始めたが筋の良さは周囲の認めるところであった。躾けるときの山田は常男を男と見ていたが、いつもはやさしい父親であった。常男の四つ下の妹は花南と名づけられた。かな、南の花、マリリンはこの名前が気に入り舐めるように育てる。花南は常男に付いて周り、常男もこの妹を兄として可愛がった。この幸せな生活は突然破壊された。

 それは昭和25年(1950)のことであった。米軍比軍が混成30名ほどでやってきた。米軍士官が『お前は山田明憲中尉か。お前をを戦犯容疑で逮捕する』と言って逮捕状を見せた。山田中尉は逮捕状を見て『これはフィリピン裁判所が発行したものではないのか。氏名と職名を伺いたい』と静かに話しかける。それが通訳されると米軍士官はたじろいで『我々米軍は比軍を補佐するものである』と返答した。山田中尉は笑いながら『補佐ならば逮捕権はないな』と切り返す。NO SIR.(ありません)今度は比軍士官が前に出る。山田に敬礼する。『自分はフィリピン陸軍中尉フェルナンデス ゴメス。逮捕状により山田中尉を逮捕する』山田は軽く敬礼して『フェルナンデス中尉、この逮捕状は正式な手続を執ったものか』Yes Sir.『戦犯とは何を指すのか』『逮捕状記載の通りであります』『記載がないから質問しておる。逮捕請求書はあるか』『ありません』『誰がこの逮捕状を請求したのか』『自分にはわかりません』『フェルナンデス中尉、正式な逮捕状を持参していただきたい。私はここで暮らしている。逃げも隠れもしない』
 フェルナンデスが答えに窮すると米軍士官が合図した。米兵2名が山田中尉の腕を押さえた。『無礼者』と一喝。山田中尉が少し身をかがめた。米兵2名は前方へ投げ飛ばされていた。『おお、合気道!』比軍兵が声を上げる。米兵が銃を構える。『ふん、これがアメリカ合衆国のやり方か』米軍士官の顔がゆがむ。
 『フェルナンデス中尉、軍服に着替えて来る』『OKサー』それは常男が見た最初で最後の父の軍服姿であった。常男と花南とマリリンをを抱き寄せ、すぐ帰って来ると言った。村人が次々と山田中尉を抱きしめて別れを惜しんだ。やがて『皆様のご厚情ご厚誼に感謝する』と述ると山田中尉はフェルナンデス中尉に敬礼した。米軍比軍全員直立不動で敬礼して山田中尉を迎えた。終戦から既に5年、日本への憎悪も少し和らいでいたし、彼らにも軍人として山田中尉に感じるものがあったのだろう。その後まもなく、山田中尉の消息は途絶え、終に帰って来なかった。

 メルダの長い話が終わった。坂本が濁り酒を注ぐ。メルダは会釈してそれを飲み干した。『私、この話を誰かに話したかったの。今日坂本さんに会えてこの人だと思った』山田常男の目に涙が、ユキ、マリア、セバスチャン、そして坂本の目にも。その後の山田中尉の家族、ツネオとメルダとの出会いなどもっと聴きたいと思ったが囲炉裏の火が小さくなっていた。いつしか四人とも眠りについていた。外は雨が降り続いていた。 

次回 清美


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