「予想通り……たるんでるな」 要は余裕の表情でつぶやいた。彼女の気まぐれに付き合わされた寮の住人はランニングから戻ると我慢していた腹痛に襲われて食堂に突っ伏していた。あの不死身の島田でさえも顔色を青くしてテーブルに突っ伏せている。これが真冬の出来事だからまだ誰も要に食ってかかることはなかったが、これが真夏の出来事ならば一騒動あっただろう。誠は取り合えず腹痛もなかったが、ただ苦笑いを浮かべながら椅子の上で息を整えつつ様子をうかがっていた。 「気合が足りねえな」 たたみ掛けるようにそう言うとまた周りを見回す要。 「これが気合の問題?生理現象でしょうが」 涼しい顔の要にアイシャが青い顔で突っ込みを入れた。いつもは平然と笑っているだけの彼女の右手も脇腹に当てられている。相当苦しいらしく冷や汗のようなものさえ浮かんでいるのが見える。 部屋中の空気はアイシャに味方していた。冷たい視線が要を取り巻く。さすがに自己中心的な要も雰囲気だけは分かるのか、アイシャに浴びせようとしていた罵声を飲み込んでただ黙り込んでいる。 「単に自分の義体の慣らしに全員をつき合わせたかっただけだろ。そう言うことなら自分一人でやれ」 カウラの一言。アイシャを始め、食堂の人々が大きく頷く。要は状況不利と悟るとただ乾いた笑みを浮かべていた。 疲労感が部屋中を支配している。ただ一人元気な要はとりあえず話題を変えようと目をつぶった。彼女の脳と直結するネット情報。おそらくは話題を変えてくるだろう。誠も要の小手先のごまかしには騙されまいと身構えて彼女が口を開くのを待った。 「それより……面白い話があるんだが……」 誠の予想通り、どこか彼女らしくもなく遠慮がちに要が口を開いた。 「なによ要ちゃん。これ以上何か変なことがしたいわけ?つまらない話なら本当に怒るわよ」 いつもは騒動を起こす側のアイシャのその態度に誠は少しばかりおかしく感じながらもどう話が続くのか見守ることにした。要もこのくらいのアイシャの態度は想像していたらしく苦笑いを浮かべながらもったいぶることもせずに左腕の端末を起動させ立体画面を表示させた。 「こいつだ……どう思う?」 「遼州同盟の人権機構の声明?例の東和の間抜けな法術師が起こしたトラブルの帳尻あわせでしょ?それで何か動きがあったわけ?どうせろくな事じゃないんでしょ、その様子だと」 アイシャは小さな画面の詳細を見ようと立ち上がるとそのままよたよたと要の腕の上に展開された画面に顔を近づけた。わざと見えにくいというように責めるような視線を要に向けるアイシャ。 「こうすれば見えるだろ?」 「見えるけど……ちょっともう少し腕を上げて」 人造人間の強化された視力ならば余裕で読めているはずの画面をまるで見えないというように角度を変えて何度も覗き込むアイシャ。その姿にそれまで下手に出ていた要がまた苛立ちの表情を浮かべ始める。誠はもうもめ事はごめんだと逃げ出す心構えをしはじめた時だった。 「法術適正の強制化に反対する署名活動を始める?ずいぶんと消極的なお話ね。だからなんなのよ」 「それでも同盟の意志として法術適正検査の強制化に反対することを示して見せたんだ。かなりぎりぎりの選択だったと思うぞ。遼南あたりがかなりごねたんだろうな。あそこは法術師のパラダイスみたいな門だからな。法術適正検査の受検率が一桁代……東和の右っぽい連中もかなり騒いでいるからな」 苦笑いの要。予想通りの世の中の反応。誠はすでに法術師と認定された身分として複雑な心境で会話を聞いていた。アイシャはまだ要の腕を手にとって画面を読み続けている。 「ここから先は……遼南宰相アンリ・ブルゴーニュの声明文ね。何々……法術適性検査の強制化は著しい人権問題になるであろうと……ひいては同盟の人民の間に分断と亀裂を生むことになる……。生むことになるも何も生まれてるじゃないの」 「今頃何言ってるんですかねえ。適性検査の強制化に反対するも何も遼北や西モスレムじゃ強制じゃないですか」 「島田ちゃん。元々人権意識の薄い国の話をしてもむなしいだけよ」 島田の言葉に余裕のある突込みを入れるアイシャを見ながら誠の目は端末を起動させた要に向いた。 「で……どうなるんでしょうか?」 「これからは色々あるってことさ。軍事や犯罪組織の活動に関するだけが法術師の話題だった訳だが……これからは人と人との個人的な関係にまで法術と言う存在が食い込んでくることになる。法術を持つものと持たないもの。それが憎み憎まれて世の中が転がることになるってことさ」 吐き捨てるようにそう言うと要は自分の右腕を握りしめてその上空に表示された画面を追っていたアイシャを振り払って端末の画面を消した。ふてくされたように黙り込むアイシャ。要は彼女を無視するとそのまま視線を誠に向ける。 「東和も法術師を押さえ込む方向に進むだろうな……そうなればたぶんオマエの両親も今回は年貢の納め時だってことだ」 「親が?なんで?」 ぼけっとしている誠に要は大きくため息をついた。 「誠ちゃんが明らかに進んだ法術師である以上、その両親が法術適正があると考えるのが普通でしょ?それに誠ちゃんのお父さんは学校の体育の先生じゃないの。まずこういう時は教育現場が狙われるものよ」 「あ……」 アイシャに指摘されて誠はようやく要の意図に気づいた。 「ともかくこれからはかなり息苦しい世の中になりそうだな」 要がため息をつく。部屋のそれまで要への怨嗟の念に満ちていた雰囲気が消え去っているのを誠はようやく感じていた。島田を始め、法術適正を持つ隊員は少なくは無い。そして自分の血縁者にそう言う存在がいることが不思議ではないこととそうなればどのような言われない攻撃が突然訪れるか。そんな事を考えると朝食後にランニングをさせられるくらいの事はすでにどうでもいい話だった。 「東和も揺れるな……『官派の乱』の胡州の再現か?」 「そうはならんだろ。東和は一応シビリアンコントロールができてる国だ。保守派が叫んでも軍は動かねえよ」 カウラと要。別の話題を口にしながらもその目は誠を見つめていた。 「どうなりますかね?」 「私に振らないでよ」 誠の言葉にアイシャが苦笑いで答える。誰もが当惑し、ただどんよりとした空気が食堂に立ちこめた。 「はいはい!なんだか知らないけどお通夜じゃないんだから!まもなく出勤の時間ですよ!」 突然の快活な声。誠もまたその声に救いを感じて顔を上げた。叫んだのは食堂に闖入してきたサラだった。その隣にはため息をついているパーラがいる。 「アイシャさんに呼び出されたんですか?」 「まあね。パーラに頼んで送ってきてもらったの」 サラの言葉にパーラが引きつった笑いで頷いた。恐らく早朝にアイシャからの電話で無理やり起こされて、サラを家まで車で迎えに行ったパーラ。その苦労を想像すると誠も彼女が不憫に思えてきた。 隊員達もそれぞれに我に返ると重い腰を上げて食堂から自室へ散っていった。 「それにしても……なんだか重苦しい雰囲気ね。何かあったの?」 サラは島田のジャージの襟をいじりながら誠達を眺めた。 「まあ……食後すぐに運動させた誰かさんのおかげでね」 「しつこいぞ、アイシャ!それに暗くなったのはアタシのせいじゃ無くて世の中のせいだ」 「都合が悪いと何でも世の中のせい……要ちゃんは中学生?」 「おい、いっぺん死ぬか?本当にいっぺん死んでみるか?」 にらみ合う要とアイシャ。その進歩のないやりとりにカウラが大きくため息をつく。 「それにしても……アイシャの頼みで吉田さんに調べてもらったんだけど……今回の事件後に情報発信を増やした個人や団体の名前が……」 「ありがと!」 そう言うとサラが取り出した一枚のチップをアイシャは受け取ってその手にかざして見せた。 「吉田に?そんな事を頼んでどうするんだ?」 唖然とする要を横目に笑顔のアイシャはチップ握りしめるとそのまま食堂の外へと消えた。 「アイシャの奴は何か知ってるのか?」 「あいつも一応は運用艦の艦長代理だ。政治的判断に直結するような指示を受けたときの対応策でも考えているなじゃないのか」 カウラの言葉に要は煮え切らないという表情で腕を組む。 「法術師とそうで無いものの対立が誰の利益になるか……そんなことでも調べてるんじゃないですか?」 「対立を煽っている奴がいる……アメリカ軍かね?それにしちゃあずいぶんの不器用で危なっかしいやり口じゃねえか。『ギルド』ほどじゃ無くても法術師の小さな互助組織の存在はいくつか確認されているんだ。それが今回の騒動の反動で騒ぎ立てた連中にせき立てられて手でもつないでみろ。地球も巻き込んだ大騒動になるぞ」 要の言葉に誠は反論できなかった。今の状況は誰の利益にもならないように見える。だがあまりに事態は急転していた。そこに作為が無いと考えるのもまた不自然に見える。 「とりあえず後でそれとなく聞いてみるか」 そう言うとカウラが立ち上がる。 「これから聞くんですか?」 「今は着替えるだけだ」 誠の言葉にそっけなく答えるとカウラも食堂を出て行った。 「この寒さで汗もかかない癖にな……」 要はそう言うと伸びをしてそのまま食堂の出口に向かう。 「遅刻するぞ」 「はい!」 振り返っての一言に誠も気がついてそのまま食堂を飛び出した。 「なんだか……大きな話になってきたな」 階段を駆け下りる隊員達とすれ違いながら誠はそのまま自分の部屋に飛び込んだ。すぐにジャージを脱いでTシャツとジーンズ、ジャンバーに身を包んで部屋を飛び出す。 階段を駆け下りて玄関に向かうと誠の前にすでに着替えを済ませたカウラと要が立っていた。 「それじゃあ行くぞ」 「え?アイシャさんは?」 「アイツはパーラの車で先に出た」 それだけ言うと実に普通に靴を履くカウラ。要も気にならないというようにブーツに手を伸ばした。 「そうですか……」 釈然としない誠は彼女達に付き合うようにスニーカーを履いて立ち上がった。
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