海軍省の建物を出るとすでに胡州の赤い空は次第に夜の紫に染め上げられようとしていた。 「そうだ、明石。付きあえ」 突然の別所の言葉に明石は当惑した。だがそれを別所に悟られるのが悔しくて向きになって彼を見下ろした。 「ええで。だがこいつ等の足はどないすんねん」 そう言って魚住と黒田を見やる。別所の車で四人で来たため二人は足を奪われることになった。 「ああ、心配するな。タクシーでも拾っていくことにするから」 魚住は満面の笑みで黒田を見上げる。黒田はそれで何かを気づいたと言うようににんまりと笑った。 「じゃあ、決まりだな。来い」 そう言って別所はそのまま裏手の駐車場に向かう。明石もそれに続いた。閑散とする駐車場に一台止められている黒いスポーツカー。それに向かって歩く別所。 「どうだ?保科と言う御仁は」 車の周りで挨拶をしている武官達をやり過ごすとつぶやくようにたずねてくる別所に明石は首を振った。 「あれだけで分かるんやったら苦労せえへんわ」 「そうだな」 別所はそう言うと車のキーを開ける。明石は体を折り曲げて狭い車内に体をねじ込むようにして座った。 「黒田の奴、よう座っとったな。ぶちきれて殴りかかるんやないかと冷や冷やしたで」 そう言う明石の言葉を無視してそのまま別所は駐車場を出た。 「それはともかく……実はな。お前の昇進と部隊配属が正式にに決まったんだ」 友の口からそんな言葉が出ても特に明石は驚かなかった。赤松准将の懐刀として知られた別所は上層部にもパイプを持っていることは知っていた。さらに、西園寺派の陸軍の醍醐少将などとの連絡を行っているのは彼の部下達だった。 「まあ、昇進試験は自信があったからな。それに西園寺公の推挙があれば海軍じゃフリーパスなんやろ?」 皮肉るつもりだが、別所は乗ってこなかった。そのまま車は屋敷町を走る。 屋敷町でも官庁街からすぐの大きな門をくぐった。それが西園寺基義卿の館であることは明石も読めた。すぐに書生が駆け寄ってきて奥の駐車場へと車を誘導する。 「なんや、御大将も来とるやないか」 明石の目に第三艦隊の『二引き両左三つ巴』、赤松家の家紋をかたどった隊旗をつけた公用車が見える。 「貴様の昇進を祝いたい人がいるってことだ。良い話だろ?」 そう言ってキーを抜いて駐車場に降り立つ。だが、明石はそこで見慣れないガソリンエンジンのスクーターが止まっているのに気づいた。 「なんや、あれ。出前でも取ったんやろか?」 明石の言葉に苦笑いを浮かべながらそのまま別所は玄関へと向かう。 赤松家よりも二回りも大きい玄関だが、そこには駐車場にいた書生以外の人の気配が無かった。だが、別所はそのまま靴を脱ぎっぱなしで上がりこむ。書生が駆け寄って靴を持つのを見て明石もそのまま上がりこんだ。 長い廊下。次第に闇に落ちていく庭を見ながら二人は奥に進んだ。 「ええ匂いがするんやけど……」 明石がそう言うと別所は足を止めてにやりと笑った。 「お前はこの屋敷は初めてだったな」 そしてそのまま再び廊下を歩き続ける。視界が開けて当たりに庭が広がる。獅子脅しの音、それに混じって宴会でもやっているような声が遠くで聞こえる。 「西園寺亭には食客が多くてな。いつも宴会が催されている。お前も聞いたことがあるだろ、その噂くらいは」 「まあな。西園寺サロン言うところは帝大でも有名な話やさかいな。平民出の知り合いは皆憧れとったわ」 西園寺家は文化の守護者。これは胡州の国民なら知らぬものはいない事実だった。この屋敷に世話になりつつ芸を磨く芸人。出入りしては糊口をぬらす詩人。酒を求めて出入りするシャンソン歌手。胡州の芸能の守護者でもあるのが西園寺家のもう一つの顔だった。明石はただ宴会の続いているような別棟から離れるように進む回廊を別所に続いて進んでいた。 行き着いた先。砂の敷き詰められた広場に煌々とライトが照らされている。そこで別所が歩みを緩めてそのまま片ひざを着いて頭を下げた。 その光の中に陸軍の士官候補生が一人、木刀を構えて立っている。そしてそれに向かい合うように和服の女性が薙刀を構えて向かい合っていた。 「控えろ、康子様と要様だ」 別所の言葉に明石も片ひざをついた。西園寺基義の妻康子の噂は明石も時たま耳にすることがあった。遼南貴族の出で、その人となりは天真爛漫。その奇行で周りを惑わす。どれも四大公の筆頭の妻女としては疑問に感じる行動にただ西園寺基義と言う切れ者が相当な物好きだと思う以外の感想は明石には無かった。だが、明石は槍に自信があるところから目の前の康子が相当な薙刀の達人であることだけは一目で見抜くことが出来た。 薙刀にしろ槍にしろ。どちらも弱点は間合いの中に入られることにある。そうすれば短い剣に抗することは難しい。だが、じりじりと迫る娘の要の間合いから、ぎりぎりのところまで来ると素早く下がり、回り込む。娘の要が隙を突くべくにじり寄るタイミングをずらして迫るのだが、それを見越したように絶妙な間で回り込んでいた。 『これは……康子様が勝つな』 そう思った瞬間、待ちきれずに要が上段に構えた木刀を持って一挙に切り込んだ。しかし、それは軽くかわされ、振り下ろされた薙刀が要の背中に打ち込まれる。 「これは!」 思わず立ち上がった明石を別所が止める。 「ああ、晋一君。見てたの?」 まるで調子の狂うのんびりとした言葉に明石の力が抜けた。 「康子様。ご機嫌……」 「何よ!晋一君たら。照れちゃって!それとそこのお坊さんは?」 背中をさすっている娘の要の肩を叩きながら満面の笑顔で康子は頭を垂れている明石に目をやった。 「ああ、明石清海(あかしきよみ)言います。娘さん……大丈夫ですか?」 「大丈夫よね!」 明るくたすき掛けをした帯を緩めながら康子が叫ぶ。だが背中を打たれて倒れていた少女はしばらく膝に付いた砂を払っていて康子の問いに答えることは無かった。 「ほら大丈夫!」 「大丈夫に見えますか?お母様」 砂を払い終えて立ち上がる要。腕まくりをしているひじから先に筋のようなものが見える。 『そう言えば要様はサイボーグだったな』 明石は祖父を狙ったテロで瀕死の重傷を負い、体のほぼ90パーセント以上を失った事件の被害者、要のことを思い出していた。西園寺家は代々進歩派として知られ、いつも国粋主義的な勢力にとっては敵以外の何物でもなかった。多くの当主がテロで倒れ、子息は凶弾に倒れた。それでも先進的家風で常に政治の局面に関わり続ける一族の力に明石はただ感服しながらその次期当主の要の姿を眺めていた。 「サイボーグがそんなに珍しいですか?」 鋭い言葉を吐く要だが、闇市で無法者同士のやり取りを繰り返してきた明石にはかわいらしく感じられた。所詮は安全地帯にいた人間の目。いくら不良を気取ろうにもそんな自覚のない甘えがその目の奥に見て取れた。 「それでは自分達はこれで」 別所が頭を下げる・明石は二人が気になりながらもつれてきた別所の手前、一礼して稽古の場から去った。 「晩御飯は期待していいわよ!」 子供のように見える笑顔で康子は明石達を見送った。 そのまま廊下は続く。そして池に囲まれたそれほど大きくない離れに着いたとき、再び別所はそのふすまの前でひざを突いた。 「別所、明石。入ります」 別所の声が静かな離れに響く。しかし何の反応も無かった。 「別所!明石!入ります!」 今度は力を入れて別所が叫んだ。 「聞こえてるよ!入りな!」 澄んだ声がふすまの向こうから聞こえる。それを合図に静々と別所はふすまを開いた。中でこの館の主、西園寺基義と一人の見慣れない男、そして上司の赤松忠満は目の前の碁盤を並んで見つめていた。 「ああ、無駄ですよ。そこの黒石。丸々死んでますから。また俺の勝ちですね」 どう見ても自分達より若い男が陸軍の制服を着て西園寺達の前に座っていた。静かにふすまを閉める明石。 「ああ、明石。お前は囲碁はわかるか?」 助けを求めるような調子で赤松が明石を呼ぶが、明石は首を振った。 「だめだめ!もうこうなったら挽回不可能ですよ。でもまあ兄貴もずいぶんとましになりましたね」 西園寺を兄貴と呼ぶ。そのことでその陸軍大佐が遼南皇帝にして胡州四大公の当主嵯峨惟基であることが分かり明石は当惑した。 「おう、忠さんのところの子飼いか?噂は聞いているって……確か、別所君とは会うのはこれで二回目か?」 嵯峨が盤面を見つめる西園寺を置いて明石達を振り向く。 「ご無沙汰しています。しかし……」 「気にするなって!まあ気になるのも当然だな。ベルルカンに治安出動している部隊の指揮を取っているはずの俺がここにいるのがおかしいってんだろ?」 ニヤニヤと笑いながら当惑した顔をしているだろう自分達を見つめる青年将校に明石は振り回されているような感覚にとらわれていた。 「皇帝陛下が自ら軍を率いて同盟加盟を表明したカイリシアに……」 「ああ、俺は大軍を指揮するのは苦手でね。どうせ部下任せになるからな。こうして胡州の動静を探っていた方がよっぽど建設的だろ?」 そう言うと隣においてあった徳利から酒をついで煽る。 「しかし、映像でもはっきりと見たんですけど」 「ああ、あれは弟。親父が兄弟を100人以上こさえやがったからな。おかげであのくらいの望遠での映像なら区別がつかないのもいるわけだ」 嵯峨は笑いながら明石達を面白そうに眺めている。 「やっぱり駄目だな」 西園寺は相変わらず碁盤を見つめていたが諦めたようにそう言って嵯峨を見あげた。 「だから言ったじゃないですか。もうおしまいだって」 盤面を見つめていた赤松はようやく納得が言ったように隣に座りなおす。 「しかし、二人とも驚いていないとは……忠さんも良い部下がいるみたいだ」 「十分驚いとるように見えるんやけど。それと新三(しんざ)のところの切れ者に比べたらどうにも。あの吉田とか言う傭兵崩れがおればワシも安心して部隊を留守にできるんやけどな」 そう言って隣に忘れられたように置かれた杯を取る赤松。 「新三なんて言ってもこいつ等に言っても分からねえよ。ああ、忠さんと俺は高等予科学校からの同窓でな」 「本当にそれは何度も文句言いたい思うとったんやけど腐れ縁の間違いやぞ」 明石はそこであることを思い出した。 『胡州高等予科学校』。先の大戦の終戦前まで貴族の教育機関のひとつとして開設されていた学校である。軍に進む子弟の早期教育を目的に設立され、軍幹部にはその出身者が多かった。特筆すべきところは成績優秀者は陸軍士官学校や海軍兵学校を経ずに直接陸軍大学、海軍大学の受験資格があると言うところだったが、その試験は過酷で数年に一人という合格実績だった。 その数少ない合格者の一人が目の前の嵯峨だった。家柄も才能も優れた名将としていずれ彼が軍に重用されることになるのは当然の話と言えた。だが、その家柄ゆえに嵯峨は中央から追われることになったのは皮肉なものだった。 西園寺新三郎として四大公筆頭西園寺家の部屋住みだった彼が、ゲルパルトの名家シュトルベルク家の長女と結婚して中央政界から追放状態だった西園寺家に世の注目が集まると、軍は陸軍大学を出た彼を東和大使館付き武官として東都に送った。中尉待遇での花形デビューと言う体裁だが、事実は軍の中央から遠ざけることがその目的だった。事実その後も嵯峨は二度と軍の中央へ近づくことは無かった。 だが現在その胡州軍の中央と縁が薄いと言うことが嵯峨の優位に政治的状況が展開する可能性を秘めている。そう明石は見ていた。 元々嵯峨家の領邦には2億の民を抱えるコロニー群がある。全人口が八億に満たない胡州で図抜けた領邦とその人脈を使える嵯峨は未だ西園寺派や烏丸派とは一線を画して動くことが出来る状況にあった。彼の手足となる被官の陸軍の重鎮、醍醐文隆中将は西園寺家に近い立場とはいえ、三老の醍醐文隆の兄佐賀高家大将や池幸重(いけゆきしげ)准将などは烏丸派が勢力を持つ陸軍に会って中立を守っていた。 「二人とも俺がここにいるのは驚かなかったわけだ。だが、俺がなぜここにいるかは分かるか?」 いたずらをする子供のような瞳。明石は自分より一回り上の年であるはずの陸軍大佐の顔を見つめていた。 「それは先ほどおっしゃった……」 「それじゃあ子供の答えだ。胡州の動静をたどるなら部下や被官にやらせる方が良い。そうしないともし俺がそれだけの為にここにいるとばれたら奴等は自分達が信用されていないってことでへそを曲げるかも知れねえからな」 再び嵯峨は徳利を傾けた。 「じゃあ、お二人と協力して……」 そう言った別所に赤松が諦めたような視線を向ける。それも承知の上と言うようににやりと笑った別所が嵯峨の顔色を見ていた。 「保科公の健康やないですか?嵯峨大佐がにぎってはるのは」 明石は試しにそう言ってみた。西園寺と嵯峨の兄弟は顔色を変えなかったが、上司に当たる赤松が二人の顔色を見たところで明石は自分の問いが正解だったことに気づいた。 「良い目をしているよ。最近の保科さんの動き。明らかに目に付いてね。いろいろと調べたんだが、やはり相当悪いらしい。ただ血管がプッツンしてリハビリ中の大河内公爵とは違って消化器系の癌だがせいぜい延命が効く程度の対処しかできない。それも本人が断ったそうだがね」 今の胡州を支えている老人の死。一瞬で場が凍った。 「そして、兄貴に釘を刺しに来たわけだ」 しばらくの沈黙の後、嵯峨は兄の西園寺を見つめる。 「釘?何のことだ?」 そう言った西園寺に嵯峨は一通の手書きの書状をポケットから出して兄に渡す。 「もう少しこういうものは丁寧に扱えよ」 西園寺はすぐにそれを読みはじめるが、次第に目を嵯峨に向ける回数が増え始めた。 「まあ、池もまじめな男だからな。露骨に高家の領邦の半分を譲ると言われても俺にお伺いを立ててきやがる。困ったもんでしょ?」 嵯峨の言葉に読みかけの書状を放り投げた西園寺。それを拾った赤松は読まずにそれを畳んだ。 「じゃあ清原からの書類もあるやろ?」 赤松の言葉に今度は携帯端末を開いて文書を画面に表示する。そしてそれを西園寺と赤松。二人に見せる嵯峨。 「よく考えたもんだな。こちらでは嵯峨の直轄地まで切り取って池に差し出すと書いてあるぞ。新三、そんな予定はあるのか?」 半分笑うような調子で西園寺は画面から目を離して嵯峨の顔を覗き見た。 「なあに、西園寺派が倒れればそれに見合う領邦を俺に差し出すっていうつもりでしょ?清原さんは」 淡々と答える嵯峨。それを別所は冷たい目で見つめる。 「こんな紙切れが行きかっているとして今回の状況をどう運ぶおつもりですか」 怒りをこめた別所の言葉に白々しくおびえたふりをする嵯峨。 「怖い顔したってどうにもならないんだけどな。ただ烏丸さんや保科さんに会って分かったことは俺にゃあもう手を上げるしかねえってことだな」 そう言うと嵯峨は杯を干した。 「おい、お前がそないなこと言ったら……嵯峨家が終わるんちゃうか?」 赤松の言葉に悲しげな表情を作る嵯峨。それが本心からのものかは明石にも分からなかった。 「だってしょうがないだろ?この国の制度を根本から変えるにはどちらかが倒れるしか無いんだ。強力な指導体制により制度を根幹から変革することで国家の発展を目指す。これは俺もやったことだが人に勧めるつもりはないが、それ以外に今の胡州に選択の余地が無いことは理解しているつもりだよ……だがねえ……」 嵯峨はそう言うとタバコを取り出した。灰皿がこの屋敷に無いことを知っている別所が何か代わりのものを探そうとするが、嵯峨は手で押し止める。 「ああ、携帯灰皿を持ってるんだ。俺は昔から肩身の狭い愛煙家だからな」 そう言ってポケットから金属の小さな円盤を取り出す嵯峨。 「ああ、そうだ。貞坊には会ったのか?」 赤松の言葉にしばらく別所と明石は呆然とした。 「一般受けしない呼び方は止めとけよ。安東貞盛大佐殿だろ?会ったよ」 嵯峨の言葉に沈黙に包まれる。明石も黙り込んだ。赤松の妻が安東大佐の姉であり、安東の妻が赤松の妹。その複雑な事情を考えれば言葉を繰り出すのが難しかった。 「アイツは本当に融通が効かねえ奴だな。まあ昔からだけどな」 そう言ってしばらく考え事をしていた嵯峨。そこにふすまの外に人の気配を感じた。 「康子か?」 西園寺の声にふすまが開く。そこには下女が一人目の前にすき焼き鍋を置いてかしこまっていた。 「おう!待ってたんだ」 嵯峨の言葉に合わせるように変わった円盤を持った康子が現れる。 「あの、それ……」 「電熱器。知らないでしょ」 そう言う康子は非常にうれしそうに両手に持った電熱器を別所の前と夫の基義の前に置く。二人の女中は手にした鍋を康子の置いた電熱器に置き、その隣に肉の乗った皿を置いた。 「へえ、これが西園寺流のすき焼きですか」 別所はじっくりと鍋の中を見つめる。いまだ温まっていない割り下に浮かぶ春菊に目がひきつけられる。 「ちょっと時間がかかるのが困るのよね」 そう言いながら続けて入って来た女中から卵などを受け取る康子。 「要!あなたも来なさい!」 ふすまの外に座っていた西園寺要が遠慮がちに部屋に入ってくる。明石はその雰囲気に安心できるような感じを抱きながら見守っていた。
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