「本当にこのたびは……」 応接用のソファーに腰掛けた要。目の前の老人がおどおどとしている様を見て自分の胡州帝国宰相の娘、次期四大公筆頭候補と言う身分が恨めしく感じられた。 黙っている老人。事件の始まりに彼のところを尋ねたときは彼女のそんな素性も知らずにうどん屋の亭主と客と言う関係だったと言うのに、この老人の息子、志村三郎の葬儀で老人が手にしている金色のカードを渡した時からどことなくぎこちない関係になってしまったことを後悔した。 「これ……なんですけど」 カードをテーブルに置いて要に差し出す老人。そのカードは胡州中央銀行の手形だった。 「一度……差し上げたものです。受け取れません」 そのカードは1億円の手形。恐らくこの様子を盗撮しているだろう吉田達はどよめいていることだろうと想像すると、要には苦い笑みが浮かぶ。 「でも……こんなことをしていただくことは……」 「私と三郎さんが付き合っていたのは事実ですから」 そう言って笑顔を作っているが、老人はただテーブルの上のカードをさらに押し出すために手を伸ばすだけだった。 「ですから……私としても」 「じゃあ、これを貰えば息子が帰ってくるんですか?」 老人の言葉に要は言葉が詰まった。要にははじめての経験だが、叔父の嵯峨の前に詰め寄る彼の部下の親達の姿でいつか自分も同じことを言われるだろうと思っていた言葉。実際にそれをぶつけられて初めて要は目が覚めたような気がした。 「知っていますよ。警察の人が来てアイツが何をしていたかはわかっていますから。じゃあなおさらこれはいただけません。人様のものは盗むな。商売は信用が大事だ。弱いものの気持ちを分かれ。いろんなことを教えましたが奴は一つだって守れないままなりばかりでかくなって……」 そう言う老人の目に涙が浮かぶ。要もようやく諦めてカードに手を添えて自分の手元に寄せた。 「アイツのしたことが許されないことだとはわかっています。命で償うような悪いことだって事も……でも奴はワシのたった一人の息子なのも事実ですから……」 老人が似合わない白いジャケットの袖で涙を拭う。要は何も言えないまま黙って老人を見つめていた。 「わかりました。これは受け取れないんですね」 要の言葉に静かに老人は頷いた。ようやく気持ちを切り替えたように唇をかみ締めたまま無理のある笑みを浮かべる老人。 「でも一つだけ……一つだけ教えていただけませんか?」 遠慮がちに老人が口を開いた。ためらいがちに要も頷く。 「アイツは死ぬ前の日にうちの店に来て……突然、『俺は幸せなのかもしれないな』なんて言ったんですよ。アイツが……明らかに死ぬ前の数日。あなたと再会してからアイツは表情が変わったんです。そんな奴にとって……あなたにとって……あの馬鹿息子はどんな存在になりますか?」 老人の視線が痛く要に突き刺さった。要は黙ったまましばらく志村三郎という存在について考えてみた。 要はしばらく沈黙した。 三郎と過ごした東都での工作活動任務中の日々。思い出しても割り切ることが出来るほど軽くはなかった。身体を任せたからと言うわけではなく、非正規部隊の隊員として任務遂行の為に近づいた野心に燃えていた三郎。だが、その任務が終わっても要は三郎と会う日々を過ごしていた。 お互い会う必要など無かったのに、いつの間にか当然のように二人は同じときを過ごした。東都の租界でのシンジケート同士の抗争が激化し、同盟軍の部隊が侵攻した。押されていた東都警察の包囲網が完成し、同盟機構の司法局員が駐留するようになって胡州軍は東都の権益を諦めて彼女にも帰国命令が出た。その時もぼんやりとチンピラ扱いされていた境遇から抜け出して喜ぶ三郎のことを考えていたのは確かだった。 「確かに……東都といえば、まずアイツを思い出します」 弱弱しくしか吐き出せない言葉に要は自分でも驚いていた。 「この街に再びやってきて、アイツと会おうと思ったこともあります……」 ここまで言葉を繋げてようやく要にも心の余裕が出来た。視線を上げると涙を浮かべる老人が要を見つめていた。 「でも……もう会えませんでした。何も再びここに来た時の身分が正規部隊の隊員だったからと言うわけじゃないんです。アイツがあのまま変わらなかった。むしろ以前は反吐が出ると言った組織幹部に成り上がったのが裏切られたと思っていたのは事実ですけど……でも……もう終わったことだったので……」 「そうでしょう。それでよかったんですよ」 老人の目は優しく要を見つめていた。先ほどまで息子を殺された被害者の目だったそれが、優しく要のことを見守っている父親の目に変わっていた。 「今回の出来事もアイツの自業自得ですよ。ただ、アイツのことをこれからも心にかけてくれるのなら……おかしい話ですね。忘れろと言ったり忘れるなと言ったり。年をとるとどうにも愚痴っぽくなってしまって……。今のあなたは立派な将校さんだ。本当はアイツのことなんか忘れてもらいたいと言うのに……親馬鹿って奴ですか」 力なく笑う老人に要も無理に笑顔を作って見せる。老人は取って置きの白いジャケットからハンカチを出して涙を拭った。 「そうだ!私は商売人ですから。この前……東和政府から租界を出るための居住許可が出たんですよ」 租界から東都に渡るには多種多様な事務手続きが必要だった。要もその手続きに2〜3年の時間がかかることを知っていた。我慢していた涙腺の疼きを笑顔が凌駕したおかげで少しばかり安心しながら頷く。 「それで、実は新港に弟夫婦がいましてね。店舗の建物だけあるんだがって話が来てまして……」 「お店、移るんですね」 ようやく救われたような話を聞いた要は溜まった涙を素早くふき取った。 「ええ、新港ですから。確か……保安隊の運用艦は新港を母港にしていましたよね?」 老人もようやくさっぱりとした表情で要に笑いかけてくる。要もまたそんな老人を見てようやく落ち込んだ気持ちから救われる気がした。 「じゃあ食べに行っても良いですよね」 「もちろんですよ!それにそちらの技術者さん達が新港にもいるそうじゃないですか?」 笑顔の老人が言葉を飲み込んだのは、こつりと何かが当たってテーブルが動いたからだった。要はつい反射で腰の拳銃に手を伸ばした。 再び机が動く。そして開け放たれたカーテンの下になにか丸いものが動いているのが目に入った。 「あれ、何でしょうかね……」 老人も気がついたように日向に動く丸みを帯びた物体に目を向けていた。 「駄目!要ちゃん!駄目!」 ドアが突然開き、驚きの表情を浮かべていた要の目に、小さなシャムが映った。そして誠やカウラ、アイシャまでもが慌てた表情で飛び込んできて銃に手をかけていた要を取り押さえにかかる。 「なんだよ!何があった!」 まとわり付く誠の頭がカウラに押しのけられて胸に当たったので、とりあえず要は誠の首筋に肘鉄を叩き込んだ。 「あ!誠ちゃん!」 のされた誠に手を伸ばすアイシャ。拳銃を取り上げて安心したようにため息をつくカウラを見て、要はその襟首を掴んで引き寄せる。 「おい、説明しろ。何が駄目なんだ?どうしてここにお前等が乱入して来るんだ?」 だがカウラは視線を合わせずに窓の方に向かったシャムを見つめていた。 「怖くないよ。大丈夫……」 要から見てテーブルが影になって見えないところでシャムが何かと話をしていた。それに合わせてテーブルの隣の球状の何かが揺れている。 「ほう、これは大きな亀ですね」 老人は微笑むとシャムのところに歩いていく。 「亀?」 要の体から力が抜けた。そのまま座ってカウラとアイシャを見つめる。 「銃はいらないわよね。見ての通りシャムちゃんが飼ってる亀さんよ」 「はあ?」 アイシャの言葉にしばらく思考が止まる要。後頭部を押さえながら彼女の膝元で誠が意識を取り戻す。 「誠ちゃんも災難よねえシャムちゃんはなんでここに亀吉を連れてきたの?」 高さが1メートルはあろうかと言う立派な甲羅の持ち主を撫でているシャムが小首をかしげた。 「ああ、それは決まってるだろ?寒さに弱いからな。ベルルカンオウリクガメは」 扉のところで騒動を見つめていた吉田がそう言うとそのままシャムのところに向かう。 「車に乗せてきたってことは吉田……テメエは最初から知ってたんだな?」 指を鳴らしながら近づく要に迷惑そうに顔をしかめる吉田。 「亀ぐらいいいじゃないか。こいつは草食だから人に危害を与えたりしないぞ」 「そう言う問題じゃなくって!」 怒鳴る要に後頭部を押さえている誠が迷惑そうに要を見つめた。 「ごめんな……ってお前のせいだからな!いきなり人の胸に抱きつきやがって!」 「抱きついてないわよねえ?」 「私が押したら胸に当たっただけだ。全部お前のせいだな」 アイシャとカウラの言葉に要の言葉が詰まる。そんな要達のやり取りを老人は笑顔で見つめていた。 老人は笑い始めた。それを見て一緒に意味も無く笑おうとしたシャムの頭を吉田がはたく。 「本当に素敵な方たちですねえ。西園寺様。あの人たちはあなたの身分を……」 「身分?そんなものここじゃ関係ないですよ。それにアイツとあった頃のアタシもそう言う状況じゃなかったですから」 思わず照れて頭を掻く要。その後ろにじりじりとアイシャは迫る。 「なに気取った口調でしゃべってるのよ。いつも通りのほうがうどん食べに行くとき気が楽でしょ?」 「オメエは食うことしか頭に無いのか!」 そう言って頭に当てていた手をアイシャに振り下ろすが、アイシャはそれを素早くかわしてシャムのところに顔を出す。 「怖いわよねえ……あんな化け物相手に怖かったでしょう?」 「おい、アイシャ。一遍死んで見るか?」 じりじりと指を鳴らしながら近づく要を振り返るアイシャ。老人はそんな光景を笑顔で見つめていた。 「良いですね……仲間って感じがしますよ」 後頭部を殴られたせいでじっとその光景を離れてみていた誠に老人がつぶやいた。 「確かにうちはコンビネーションが売りですから」 そう言って苦笑いを浮かべる誠を羨望の目で見つめる老人。 「こういう仲間がいれば……あいつも道を踏み違えたりしなかったでしょうね」 老人の目に再び涙が光る。どうすることも出来ずに誠はただ老人のそばでシャムと怒鳴りあいをはじめる要を見つめていた。 「なんだってこんなところに連れて来たんだ!ここは職場だぞ!動物園とは違うんだからな!」 「何でよ!グレゴリウスもいるじゃないの!それにこの亀は前回のベルルカン出動の時に世話になった村長さんから貰ったのよ!粗末にしたらバチが当たるんだから!」 「いや、ナンバルゲニア中尉。村長とバチは関係ないと思うぞ」 カウラまでも巻き込んで広がるどたばた。頷きながら要達を見守る老人。 「おい!暴れんじゃないよー!」 ドアが開いて入って来たのは嵯峨。さらに明華と明石、部外者である安城までもが部屋に入ってきた。 「ったく……何やってんだよ。亀一匹の問題でそんなに熱くなること無いだろ?」 「隊長!亀吉は私の大事なお友達だよ!ひどいよ!その言い方!」 「すいません」 シャムに詰め寄られてすぐに頭を下げる嵯峨。明華と安城は顔を見合わせてその頼りない隊長を見つめている。 「要よ。何でも銃で解決ってのは関心せえへんぞ」 そり上げた頭をさすりながら要に詰め寄る明石。その巨体に愛想笑いで答える要。老人は黙ったまま誠を見上げてさびしそうに笑った。 「すいませんねえ。うちの餓鬼共は躾がなってなくて……」 頭を掻きながらそう言う嵯峨に痛々しい視線が集中する。嵯峨の浮かべた苦笑いは老人にも伝染した。 「でも楽しそうでいいじゃないですか。東都警察の仏頂面に比べたらずっとましですよ」 老人の言葉に東都警察との出動が多い同盟司法局機動隊の隊長である安城が大きく頷いている。 「まあ人間味あふれる部隊と言えば格好が付きますかね」 「あまり自慢にはならないんじゃ無いですか?」 自分の言葉を明華に一言で否定されて泣きそうな顔をする嵯峨。彼らを無視して要とシャムの口論は続いていた。 「勤務中に銃を携帯する必要なんて無いんだからね!」 「そりゃお前がぼけてるだけだろ?常在戦場がアタシ等の気概として必要なんだよ。当然敵が出てくりゃ鉛弾の一発もくれてやるのが礼儀って奴だ」 「お前は一発じゃすまないだろ……」 「カウラちゃん。良いこと言ったわね」 「お前等は黙ってろ!」 三対一。分の悪い勝負と悟ったように島田が持っていた銃を奪い取ると要はそのままホルスターにそれを差し込む。カチリと響く音で固定されたのを確認するとそのままシャムが頭を撫でている亀に近づく。 「しかし……なんでこんなのがいるんだ?」 「そりゃあ俺とシャムが車に乗せて運んだからだな」 「そう言うことを聞いてるんじゃねえよ!叔父貴!」 亀の甲羅を叩きながら要の視線が嵯峨に飛ぶ。 「別にいいだろ。危険物を運んだわけじゃないし」 「それ甘すぎだろ?ここは職場であって動物園じゃ無いんだ。ペットの持ち込みは……」 「動物園は普通ペット持込禁止よね。動物が暴れるから」 減らず口を叩くアイシャを要がにらみつける。 「亀がいると何か邪魔になるのか?」 「おい!叔父貴。普通職場に亀はいないだろ?」 「すっぽん料理の専門店とか……」 「うちはいつから料理屋になったんだ?」 「ひどいよ隊長!亀吉を食べるなんて!」 うかつな一言でそれまで嵯峨の味方だったシャムまでも嵯峨を責める様な視線を向けてくる。その隣では他人の振りの吉田がニヤニヤと笑っている。 「食べるってのは……冗談?」 「何で疑問形なんだ?」 そう要に突っ込まれると嵯峨は仕方が無いと言うように頭を下げた。 「さてと……これで失礼しますね」 老人の一言にようやく要は視線を上げる。 「あ!……ああ……」 自分の隠していた地がばれたことに気づいてうろたえる要。それをニヤニヤしながら見上げる嵯峨。この見慣れた光景を見ている老人の表情に、安心したような表情が浮かんだのを見て軽く頭を下げた。 誠の行動ににこりと笑って答えた老人。 「本当にすいません。西園寺はこういう奴なので……」 抗議するような視線の要を無視してカウラが老人に頭を下げる。 「いえいえ、素敵な人達ばかりで……アイツもあなた達に見送られて逝ったなら幸せだったんでしょう……」 再び目に涙が浮かぶ老人。そんな彼の肩を叩く明華の姿にそれまでの騒がしい応接室は沈黙に包まれていた。 「ああ、湿っぽいのはここには似合いませんよね。じゃあ、西園寺大尉には一つだけお願いをしたいのですけど……」 老人は涙を拭うと笑顔を作って黙り込む要を見つめる。 「ああ、できることなら何でもしますよ」 嵯峨を折檻するのをやめて立ち上がった要。真剣なタレ目が見える。 「うちの店に……新港で営業始めますから。是非来てください」 要は大きく頷くがすぐにシャムと吉田を振り返った。 「要ちゃんのおごりだもんね!」 「違うだろ!」 シャムを怒鳴りつける要だが、隣の吉田やアイシャは大きく頷いてシャムのそばに一歩近づく。 「わかりました。新港に行くときは西園寺のおごりでうかがいます」 「何勝手に決めてんだよ!カウラ!」 真剣な顔でカウラにまでそう言われて今度は要が泣きそうな顔になる。そんな光景をうれしそうに見守る老人。 「では、お世話になりますね。これからも」 そう言うと一礼して老人は出て行った。 「たいへんだなあ……要坊」 タバコの箱をポケットから取り出しながら応接室のソファーに座っている嵯峨がニヤニヤと笑う。 「まあうどんは嫌いじゃないからな。仕方ねえけど一回分くらいはおごってやるよ」 その要の言葉に目を輝かせるシャム。 「たいへんですね……西園寺さん」 誠は思わずそう言うが振り向いた要の笑顔の中で目が笑っていないことに気がついて口をつぐんだ。 「おう!それじゃあ練習するか」 要はそう言って立ち上がる。誠もカウラもその言葉の意味が分からずにいた。 「そうね、あの人はパーラに連絡とって駅まで送らせるから」 察して立ち上がったパーラはそう言うと腕の端末を掲げている。 「ランニングからですか?いつもどおり」 吉田の言葉にようやく要が言い出した練習が野球部のものだとわかって誠は嵯峨に目をやる。 「いいんじゃないのか?俺もしばらく運動してなかったしなあ」 立ち上がって伸びをする嵯峨に冷たい目を向ける安城。その厳しい表情を見て諦めて腰を下ろす嵯峨。 「安城隊長。ランニングくらいならいいんじゃないですか?どうせ隊長の運動不足解消の必要があるのは事実ですから」 含み笑いを浮かべて嵯峨を見やるのは小さなラン。 「そうね、十キロ走の訓練があるんでしょ?それに隊長自ら参加するのも悪くない話かもね」 「秀美さん……それは無いですよ」 そう言いながら苦笑いを浮かべる嵯峨。大きな亀を抱えたシャムがニコニコ笑いながらその光景を見守っている。 「じゃあ全員着替えてハンガーに集合!」 要はそう言って足早に応接室を後にする。 「しゃあねえなあ……」 諦めたように嵯峨は立ち上がって屈伸運動を始める。 「それじゃあお先に失礼します!」 誠はそう言うとそのまま応接室を後にした。そこには彼を待っていた要の姿があった。 「要さん……」 「なんだ?」 問いかけにぶっきらぼうに答える要。そこにはいつもの要がいる。先ほどまでの飾った姿ではなく、アイシャが言う『底意地の悪そうな表情』の要に誠は安心感を覚えた。 「とりあえず十キロ走って……お前はヨハンを立たせて50球ぐらい投げるか?」 「やっぱり走るんですね」 「そりゃそうだろ?安城隊長が見てるんだ。叔父貴も嫌とは言わねえだろ」 そう言うと要は女子更衣室に向かう。 「ご愁傷様!」 「お前も走るんだよ」 遅れて出てきたアイシャ、それに声をかけるカウラ。ただ黙ってうつむいて男子更衣室へとぼとぼと歩む嵯峨。 「隊長」 「ああ、気にするなって。運動不足を何とかしたかったのは事実だしなあ」 そう言った後大きなため息をつく嵯峨。再び取り戻した日常に誠はただ半分呆れながら足を突っ込んでいく自分を感じているだけだった。
了
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