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作品名:遼州戦記 保安隊日乗 3 作者:橋本 直

第35回   季節がめぐる中で 35
 苦虫を噛み潰したと言う表情、その典型を見るような顔つきで醍醐文隆陸軍大臣は嵯峨惟基の隣に座っていた。その表情が生まれた原因は醍醐のアメリカ軍とのバルキスタンの政権転覆の作戦が頓挫したと言うこともあったが、それ以上に彼らがいるのが政敵とされる烏丸家の座敷の上座に座らされていると言う居心地の悪さもあってのことだった。
 醍醐が暴きたいと思っていた『近藤資金』の流れに連なると思われる政府高官も烏丸家の被官という名目でこの場に呼び出されてきていた。隣の嵯峨が悠然と彼らを眺めている有様を見て、さらに醍醐の顔は歪んだ。
「醍醐さん、そんなに渋い顔する必要ないじゃないですか」 
 嵯峨は笑っていた。隣に控えるこの屋敷の主、若干23歳の女大公烏丸響子も嵯峨の笑みの理由が分からず黙って彼を見つめていた。そんな響子に醍醐は少しばかり安心していた。下級貴族達の支持が厚く、西園寺首相の彼らにつらく当たる政策の中で彼女が頭角を現しているのは胡州の安定と言うことを考えれば必要なことだと醍醐は思っていた。
 そんな自分の思いが無ければ隣に座るかつての主君を殴り飛ばしてこの場を去ることすら醍醐の考えのうちには入っていた。
「泉州公には多少臣下の気持ちを勉強していただく必要がありそうですわね」 
 その清楚な声色に乗せて放たれる響子の言葉に嵯峨は思わず自分の頭を叩いた。本来ならば当主になるはずも無く、分家の気楽な暮らしを送れた彼女がこの場所にいることのつらさを嵯峨は察していた
「さすがに苦労人はできてらっしゃる。まあ今後は気をつけるつもりですよ」 
 嵯峨の言葉に醍醐は明らかに白々しい以前の主君に乾いた笑みを送った。下座に並ぶ人影が嵯峨と響子を見比べているのが醍醐にも分かる。烏丸家の被官や響子を支えている保守系の政治家の姿を見るたびに醍醐は明らかにこの場に自分がいることがふさわしくないとでも言うように、右側に控える西園寺派の政府高官達をに目をやった。
「では泉州殿が今回のバルキスタンでの混乱の収拾を行われると言うことを公言してもよろしいわけですね」 
 念を押すように烏丸家の被官の一人が口を開いた。
「だからそう思ってくれてもかまわないって言ったじゃないですか」 
 いつものようににやけた顔をさらしている嵯峨。烏丸家側の下座の一隅から小声で話し合う言葉が嵯峨にも漏れ聞こえていた。一方、嵯峨家と西園寺家の被官達は沈黙を続けていた。嵯峨が提案した保安隊を投入してバルキスタン反政府勢力を無能力化し政府軍に選挙期間中の停戦を確約させると言う言葉がどれほど無理のあることかは分かっていた。だが嵯峨にしろその兄の西園寺基義にしろ人の話をはぐらかすことに関しては天下に聞こえた人物だった。失敗したときの対策についても何重もの対抗策を示された以上、何を聞いても無駄なことは誰もが理解していた。
「広域制圧兵器。実用のめどは立ったと言いますが、それが発動しなければすべてが水の泡になるんじゃないですか?対応策は……どうもあまりにも力技に頼りすぎているような気がするんですが……。『高雄』一隻と特戦一個小隊。結局は我が海軍の出番になるのは間違い無さそうですね」 
 醍醐の次席に座っている海軍准将、馬加資胤(まくわりすけたね)がそう言って嵯峨の顔色をうかがう。周りの嵯峨家や西園寺家の被官達もそれに同調するように頷く。
 だが、嵯峨は口を開かない。烏丸派の人々はそんな嵯峨の姿に再びお互い小声で話し合いを始めた。
「よろしいですか?」 
 口を開いたのは響子だった。紫の地の地味な着物に腰まで達しようと言う黒髪を軽く払うと彼女は嵯峨に向き直る。
「泉州公のお言葉はその神前と言う兵士の一撃に遼州の民の命運をかけろと言うように私には聞こえるのですが、それで間違いないのですね」 
 愛嬌のある丸顔の響子に見つめられて照れるように頭を掻く嵯峨。そのまま天井を見つめ、隣の醍醐を見つめ、最後に下座の人々を見つめる。
「まあそう聞こえても仕方がないですなあ。でも保険はかけてますよ、ちゃんと。さっき説明したとおりうちの虎の子の第一小隊と『高雄』は作戦開始前にバルキスタン沖に展開中ですし、遼南軍にも準待機命令が出ているはずですから」 
 『遼南軍』と言うところで烏丸家側の下座で笑いが起きる。遼南軍の弱さには定評があった。先の大戦では胡州軍の制止を振り切ってアフリカ戦線でタンザニアに単独侵攻し、装備も兵力も劣るタンザニア軍に完膚なきまでに叩きのめされたことは有名な事実だった。そしてこの場には遼南の正規軍はゲリラより弱いということを証明した遼南内戦の生き証人である嵯峨本人が座っている。
「なあに、最初の一撃でかたをつければ良いんですよ。それにまあ他にもいろいろと手は回しているんでね」 
 そんな嵯峨の言葉にざわめいていた下座の人々は黙り込んだ。目の前でにやけている嵯峨。権謀術数で知られたこの男がどう動くか予想がつく人物は誰もいなかった。常に敵と味方の虚をつくことにかけては常に一流であること。遼州同盟に否定的な烏丸家の被官達ですらそんな嵯峨の纏う言い知れぬ恐ろしげなオーラに気おされていた。
「まあ、有言実行が私の主義でね」 
「ではその言葉を言葉通りに信じさせていただきます」 
 その言葉に一瞬嵯峨の死んだ瞳に生気がさした。先制するように発せられた響子の言葉。座は静まりかえって沈黙が一瞬座敷を支配した。
「ご随意に」 
 驚きの表情を取り繕うように笑みを浮かべるとそう言って下座を眺める嵯峨。気がついたと言うようにそれを見て烏丸派と西園寺派の被官達が一斉に頭を下げる。
「信頼を裏切ることの無いように」
 響子のその言葉に烏丸側は納得したように次々と立ち上がり、そのまま襖を開けて廊下へと出て行った。それぞれに通信端末を手にしているところからして胡州政府や軍に嵯峨の作戦が一気に広まるだろうと思うと複雑な心境で醍醐は嵯峨に目をやった。
「良いんですか?今回の作戦は無茶がありすぎますよ。それに先ほどの言葉はどう見ても泉州公に不利に使われる可能性があります」 
 そう言って嵯峨に詰め寄る馬加。馬加ばかりではなく西園寺派の武官達は暗い表情で嵯峨と醍醐を取り巻いた。
「そうは言うが……」 
 恨めしそうに醍醐は嵯峨を見つめる。だが当人はまるで二人の様子に関心が無いというように立ち上がった。
「響子さん。実は遼南からそば粉が送られてきましてね。昨日少し時間が空いたもので打ったのですが……どうですか?」 
 突然の嵯峨の言葉に響子は呆然と嵯峨を見つめた。緊張の糸が切れそうになったところでの嵯峨の一言。一瞬と惑ったあとで目の前の西園寺派の武官達の姿を見て留袖のすそを静かに引いて息を整える響子。
「ええ、ですがこの方達のお気持ちも……」 
 紫色の地味めな小紋が映える姿の響子。あまりに突拍子のないことを言ってきた嵯峨にさすがに彼の臣下の衆を代弁するように言って聞かせようとする。
「なあに、これくらいの人数なら酒の肴にざるそばを食べるくらいの量は持ってきていますよ。醍醐さんも一緒にどうですか?」 
『なにをのんきな事を!』
 叫ぼうとするのを押さえながら醍醐はゆっくりと立ち上がる。
「今は一分一秒が惜しいですから。辞退させていただきます」 
 そう思わず自分の声が上ずっていることに気づいて被官達に目をやる醍醐。しかし、嵯峨の突然の提案に彼らはただ目を開けて座っているだけだった。
「確かに大臣の公務は大変でしょうから。高倉さんとかには伝えておいてくださいよ。『あんたなりにがんばったね』って」 
 そう言いながら胡州陸軍の制服の両腕をまくる嵯峨。彼はそのままなれた調子で廊下へと向かう。彼を見送りながら醍醐は我に返って通信端末を開いた。
「ああ、私だ。高倉大佐の身辺を固めろ!詰め腹を切る可能性があるからな!」 
 醍醐はそのまま部下と連絡を取りながら嵯峨とは逆の方向、屋敷の正門に向けて早足で立ち去る。残されたのは保守派の支柱である烏丸響子女公爵と西園寺派の幹部と言える馬加達だった。
「奇妙なものですね。大公と我々が取り残されるとは」 
 馬加は思わずそう言いながら自分の娘より年下の響子の正面に座った。嵯峨が消えて醍醐が帰った烏丸家の広間にはこの家の当主とその思想に相容れない武官と官僚達が残されていた。響子はこの状況を見て気が付いたように笑顔になっていた。
「いえ、もしかしたらこれは泉州公のご配慮なのかも知れませんね。こうして皆さんとお話しする機会などあまり無いでしょうから」 
 そんな柔らかい口調の響子の言葉に馬加達は思い知らされた。この状況を作り出すことが嵯峨の意図したことではないかと。枢密院での論戦では常に平行線をたどる両者が面と向かって話せる場などこれまではどこにも無かった。
 響子は四大公の一人とは言え、まだ23歳と言うことで派閥の統制が取れるほどの実力は無かった。そのことが先代の烏丸頼盛以来の重臣達に左右される不安を彼女に感じさせていた。一方、西園寺派には豪腕として知られる西園寺基義への配慮もあって烏丸派と接触を取ることを自重しているところがあった。
「やはりあの人は食えないな」 
 馬加は一人つぶやくと目を輝かせて彼の言葉を待つ響子に何を伝えるべきか思いをはせた。


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