胡州帝国、帝都、南六条町(みなみろくじょうまち)。ここには有力貴族の帝都での屋敷が多い地区だった。下手をすれば保安隊の施設が丸ごと入るような領邦持ち貴族の帝都屋敷が立ち並ぶ中、ひときわ目立つ大きな屋敷門に渡辺かなめの運転する車は入っていった。 すでに三人の使用人が待ち受けている。そこに嵯峨惟基は頭を掻きながら止まった車から降りる。 「別に頭を下げなくてもいいから。来てるの忠さん?」 ロマンスグレーの執事服の男性が静かに頷く。それを見て嵯峨はそのまま玄関へと向かった。入り口には嵯峨の見知った、忠さんこと胡州海軍第三艦隊司令、赤松忠満(あかまつただみつ)中将の側近である別所晋一大佐が控えている。 「なるほどねえ……」 頭を下げる彼の前を嵯峨はそのまま通り過ぎた。百メートルは軽くある廊下を渡りきり、さらに別棟の建物へと迷うことなく嵯峨は歩き続ける。庭師の老人に会釈した後、嵯峨は客間と彼が呼んでいる静かなたたずまいの広間にたどり着いた。 一人静かに茶をすする恰幅の良い将軍が胡坐をかいていた。 「ああ、上がらせてもらっとるで」 静かに湯飲みを手元に置くとその将軍、赤松忠満は静かに笑った。 「やっぱりバルキスタンがらみか?しかし、兄貴も暇なんだねえ。高倉の次は忠さんかよ」 そう言うと赤松の前に置かれていた座布団に腰掛ける嵯峨。 「まあ、それだけこの問題が重要ってことなんちゃうか?」 そう言うと再び茶をすする赤松。 「失礼します」 そう言うと初老の女性の使用人が静かに煎茶を入れ始める。 「俺にはバルキスタン問題だけが念頭にあるとは思えないんだよな、今回の醍醐さんの作戦の目的は」 そう言うと嵯峨は手元に置かれた灰皿に手を伸ばす。そしてそのままタバコをくわえると安物のライターで火をつけた。 「ワシも同じこと考えとった。陸軍の連中はようワシに事実を教えてくれへんからな。しかし、ワシには新三の考えの方がようわからんわ。あの将軍様の身柄をアメちゃんから引き剥がす……腐れた官僚の首を守る義務はお前には無いように思うんやけど……」 赤松は新しく入れなおした茶を静かにすする。嵯峨は引きつるような笑みを口に浮かべる。 「それは状況にもよるだろ?膿を出すのにはタイミングと状況、そして方法を考えるべきだっていう話だよ。今回はタイミングもそうだが、組んだ相手も悪い」 静かに目の前に置かれた湯飲みを手の上で転がすようにして言葉をつむぐ嵯峨。 「アメリカ軍。しかも陸軍に新三がトラウマ抱えとるのはよう知っとるが、それは私情なんと違うか?昔から『政治に私怨を入れたらあかん』言うのがお前の主義やろ?」 赤松は上目遣いに嵯峨を見上げてくる。だが、ゆっくりと嵯峨は首を振った。 「遼州同盟司法局の実力行使部隊というのがうちの看板だぜ、頭越しにそんなことを決められたら同盟の意味がなくなるじゃねえか。アメリカは昔からあそこに手を出したがっていた。それを抑えてきたのは遼州の犯罪は遼州が裁くと言う原則を貫いて来たからだ。それを遼州の有力国家である胡州が宰相貴下一斉にその原則を潰そうとするてえのが俺には理解できねえよ」 そう言って笑って見せるが、赤松はその笑いがいつも嵯峨が浮かべている自嘲の笑いとは違うものであることに気づいていた。明らかに悪意を持っている笑み。中等予科学校のときからそれをよく知っていた。 「それに近藤事件は終わったことだ。それをどうこうしてもはじまらねえよ。胡州の官派の残党がいくら金をもらってたかしらねえが、すでに証拠は隠滅済みだ。アメリカがどうバルキスタンの独裁者と言うことになってるエミール・カント将軍の口から兄貴の政敵を追い詰められる材料を拾えるかってところだが、まず俺は期待はできないと断言できるね」 嵯峨は赤松を睨みつけたまま煎茶をすすり、その香りを口の中に広げていた。 一瞬、風の温度が変わった。都市近郊に設置された気温制御システムが夜のそれへと変わったのだろう。開いたふすまの向こうに広がる池で三尺を超える大きな金色の錦鯉が跳ねた。 「ほうか。じゃあお前さんはこのまま黙っとれ言うつもりか?汚れた金をつこうて正義面しとるアホ共がぎょうさんおる言うのがわかっとるのに」 赤松の眼が鋭く光る。湯飲みを口にする嵯峨の手元にそれは突き刺さる。茶を勧める老女が赤松から湯飲みを受け取る。中の冷めたお茶を捨て、新しく茶を入れていた。 「誰もそんなことは言っちゃいねえよ。いつかはけじめをつけてもらう予定だ。だが、その面子にはアメリカ軍人はいらねえな。いや、アメリカだけでなく遼州系の住人以外はいちゃいけねえんだよ」 嵯峨の言葉、そして赤松を見つめるその目はいつもの濁った瞳ではなく、殺気をこめた視線だった。赤松はようやく自分の説得が無駄に終わったことを感じた。 「ほうか、わかった。人斬り新三の手並みいうのを見せたってくれ。それと……今日来たんは他にも用があってな……実は貴子がな新三に久しぶりに挨拶したいちゅうとんやけど……」 そう言って相好を崩す赤松に嵯峨の瞳もいつもの濁ったそれに変わった。貴子。赤松貴子。かつて軍の高等予科に所属していたときに憧れの美人と嵯峨も赤松も一緒になって盛り上がっていた女性だった。結局は赤松家に嫁ぎ、嵯峨はそのまま振られた感じを引きずっていた時期もあった。そんな胡州を代表する美女だった。 「貴子さんか。相変わらず頭が上がらねえらしいなあ。まああの人は昔からきつかったから」 嵯峨はそう言って笑った。親友だった亡き安東貞盛の姉貴子。稀代の美女にして女傑と言われた彼女が赤松を尻に敷いていることを思い出しにやける嵯峨。 「父上」 そう言って静かに廊下から入ってきた楓はそのまま嵯峨のそばに寄って内密な話をしようとした。 「いいぜ、別に。胡州海軍第三艦隊司令赤松忠満中将殿に内緒ごとなど無駄なことだよ。なあ!」 そう話を振られて少しばかりあわてて赤松が頷いた。 「ベルルカンの馬加(まくわり)大佐からの報告書が届いておりますが」 楓の言葉に赤松は少しばかり頬を引きつらせた。 現在、ベルルカン大陸には約三万の胡州軍の兵士が駐留していた。しかし、それはどれも二線級の部隊であり、馬加の指揮する下河内特科連隊のような陸軍の精鋭部隊が動いていると言う話は海軍の赤松には初耳だった。下河内連隊は初代連隊長を嵯峨が勤めた嵯峨の子飼いの部隊とでもいえるものだった。 「ああ、後にしろよ。時間はまだ来てはいないみたいだからな」 そう言うと嵯峨は立ち上がった。 「楓坊もまあ……べっぴんはんにならはってまあ……新三!貴子も久しぶりに新三の顔が見たい言うとんねん、うちに来てや、な?」 そう言うと赤松は立ち上がる。そして少し下がって控えている楓を見て赤松は何かがひらめいたとでも言うように手を叩く。 「ああ、そうや。楓も来いへんか?貴子も喜ぶ思うねん。それとうちの久満(ひさみつ)も……」 赤松忠満の次男赤松久満海軍中佐は本部付きのエリートであり、何度と無く楓に無駄なアタックを続ける不幸な青年士官だった。 「あの、お申し出はうれしいのですが、お断りさせていただきます。僕には心に決めた人がいますから……」 そう言って楓はその細い面を朱に染める。 「ああ、西園寺要さんか!しかし、女同士ちゅうのはどないやろなあ?まあワシのおかんの例もあるいうてもなあ」 「俺に聞くなよ!」 赤松は頭を抱える嵯峨を見て大きな声で笑い始めた。
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