いつものように保安隊隊長嵯峨惟基の部屋は雑然としていた。メーカーから到着してもう何ヶ月になるのかわからない、フランス製の狙撃銃のバレルの入った細長い箱をどけた吉田。隊長室に埋め込まれたモニターを使って説明をしてみるが、飽きた嵯峨はあくびをするだけだった。 「ふうん、そう」 嵯峨はそういうと手にしている拳銃のボルトを、何度と無く眺め回しその表面の凹凸が無いのを確認していた。吉田はその有様を説明中も噛んでいた風船ガムを膨らましながら眺めている。 万力に固定された小口径の拳銃の本体。その下に鉄粉が広がっている様は、どう見ても一連隊規模の部隊の指揮官の執務室とは思えない。 「つまり結論は何処が餌に釣られて食いついたのか分からん、と言うことなんだろ?回りくどいのはやめようや。イタリア政府には司法局からお手紙を出したそうだが……史上最強の営利企業のマフィアの親分さん達のことだ。誠の誘拐を頼んだクライアントの名前は絶対出てこないだろうな」 嵯峨はそう言うと万力から拳銃を外す作業に取り掛かった。 「アメリカ、中国、ロシア、などの地球圏国家群や各惑星系国家連合。ゲルパルトや胡州、大麗の軍部も確かに動いてはいます。隊長が見込んだ介入勢力は一通り動いてますよ」 取り外した拳銃のフレームを眺めながら嵯峨はいつもどおり話を聞いているのかいないのかわからないような状況で突っ立っている。 「ですがどれも動くタイミングとかがばらばらで、何処が主導権を握っているのやら見当がつかない有様で……」 「まあ失敗する可能性は大きかったからねえ。身元がばれないように細工をする準備ができていたんだろ?失敗しても神前に興味を持っている勢力が五万といることを俺に示して見せるだけで十分に効果があると考えて、作戦を立案する人間なんてどこにでもいるもんだよ。難しいねえ世の中は」 そう言うと嵯峨はフレームに息を吹きかけて丁寧に埃を払い落とし始めた。 「隊長は。その中でも一番あの坊やの身元に関心がある奴についてもう目星がついてるんじゃないですか?」 吉田はそうカマをかけてみた。 しかし、そうやすやすとそれに乗るような嵯峨ではなく、淡々とバレルを拳銃に組みつけては外す作業を続けていた。時々渋い顔をしながら擦れあう部品の引っ掛かりが無いかどうか確かめる作業に集中している。だがそれがポーズであることは吉田も長い嵯峨との付き合いで分かっていた。 「それよりも神前の馬鹿ですが、あいつは一体何者ですか?確かに正規に出回っている資料でもアストラルパターン異常者と言うことと、身体能力の高いということしか判明していない。そんな奴を何で……」 「じゃあそう言う奴なんじゃないの?」 嵯峨はそう言うとようやく先ほど散々確認していた拳銃のボルト部分に手を伸ばした。 「でもそんな曖昧な情報で動く国がありますか?」 「あるんだろ?だからあいつは拉致られたわけだし」 そう言うと嵯峨は拳銃の部品を机に置いて自分の肩を叩き始めた。 「それはそうですが……こんなどうでもいい状況で各国の非正規部隊が動き出すほどのことは……」 「事実、動いてるんだから仕方ないだろ。それにお前も自分の情報網で神前のこと調べたんじゃないの?」 いったん椅子に座るとニヤリと笑みを浮かべて嵯峨が吉田のほうを見た。 吉田は別に当然と言うように、再び口を開く。 「それがめちゃくちゃだから言ってるんですよ。多重次元生命体だとか、次元・空間介入能力の持ち主だとか、非活性個体だとか。ともかくめちゃくちゃな情報が飛び交ってるんですよ。酷いのになると吸血鬼の末裔だとか、狼男だとか、アンデッドだとか言い出してる連中だっていますよ」 吐き出すべき言葉を吐き出したというように吉田は肩で息をしながらタバコに火をつける嵯峨を見つめた。 「そりゃあオカルトの世界だなあ。あいつにはお化け屋敷に就職を世話してやればよかったかなあ」 嵯峨はそう言うとタバコの煙を天井に噴き上げた。 「それがオカルトと縁の無い連中の口から出てるから不思議なんですよ。名前は言えませんが某国軍の研究所の研究員達でさえ、神前の名前を聞くとどう見ても思考能力が低下しているとしか思えない結論を語り始める有様ですよ」 そこまで話を聞くと嵯峨はタバコを灰皿に押し付けた。そして座ったまま伸びをして拳銃の部品を机の上に並べ始める。 「で、直接神前と言う男に会ってみてお前はどう思うわけ?」 何度かボルトを撫で回しながらボルトを本隊に押し込んで動かした。その出来にようやく納得が言ったのか、嵯峨は拳銃とその部品を机の上に置くと、そこに乱雑に置かれていた様々な目のヤスリを工具箱に片付け始める。 「分かりません。まあ、資料の通りなら今度の乙型の精神波感応システムを使いこなせるはずだということくらいですか」 吉田は浮かない表情でそう言うと風船ガムを膨らませる。 「じゃあそれでいいじゃん。まあ、あいつの誘拐を企てた連中のことだが、一朝一夕に特定できる相手じゃないだろうから引き続き調査をしといてちょうだいよ。そういえばその神前は何しとるの?」 「なんか、昨日の続きで野球の練習するとか言ってましたけど」 嵯峨は工具箱にヤスリをしまい終えると、部屋の隅に置かれたバットに目をやった。 「俺も素振りくらいはしとくかねえ」 そう言うと嵯峨は拳銃の組み立てにかかった。 「それじゃあスコアラーの仕事に戻るので」 いつもの皮肉めいた笑みを浮かべると吉田は部屋を出て行った。 吉田はそのまま実働部隊控え室を覗いたが誰もいなかった。 「あいつ等も好きだねえ」 そう独り言を言うと軽快に管理部の前を通り過ぎてハンガーの階段を駆け下りる。 ハンガーの中からグラウンドを見る。珍しくサングラスを外している明石の叫び声が吉田にも届いた。 「おいアイシャ。ワレの連れとシャムはどないなっとん?」 白い野球の練習用ユニフォームに身を包んだ明石が試合用の『保安隊』と左胸に縦書きで書かれたユニフォームを着たアイシャに声をかけた。 「すいません!夏コミの原稿入稿が明日で今日は修羅場なんで……」 そう言うアイシャは軽く屈伸をした。 「ったく初日からこれか。まあええわ、その方がワシ等らしい。とりあえずアイシャ。落とし前はつけろや」 そう言ってグラブをつけたばかりのアイシャにボールを投げる明石。 「え!なんかHなことされるんですか?」 ボールを受け止めたアイシャがニコニコしながら答えるのを聞いて、明石は呆れたように天を見上げた。誠はマウンドの上で何度かジャンプしていた。 飲みすぎで気分はあまり良くは無い。それは青白い頬を見れば誰にでも分かることだった。 「昨日、神前の球見たろ?」 サードベースの横に立っているアイシャからボールを受け取ると明石はいつものどら声で叫んだ。 「そんなに大きな声出さなくてもいいじゃないですか」 アイシャはそう言うとプロテクターに身を固めた明石にボールを投げ返す。 しばらくボールを持って考えていた明石が何かひらめいたようにマウンドの上の誠を見た。 「神前の。お前も打席に打者が立っとる方が勘が戻るじゃろ?」 そう言うと明石は手にしたボールを誠に投げた。 投手用の大きめのグラブでそれを受け取ると、誠はボールと明石を何度か見比べてみた。 「はい、まあ……」 誠は曖昧にそう答えた。 自信はなかった。 懐かしい白い練習用のユニフォームに袖を通している間から、昨日には無い不安が彼を支配していた。 本当に肩は大丈夫なのだろうか? 肩を回し、腕を上げ、違和感が無いことは確実に分かるのだが、かつての肩の筋肉の盛り上がりは無くなっていた。球速は戻らないのは自分でも良く分かる。これから筋トレして元の体を作り上げたとしても、肩への不安が残り続けるのは分かっていた。 「今度はマジでいこ、マスクつけるわ。カウラ、いい勉強だ審判やれ。島田とキム、それにヨハンは外野で球でも拾えや」 そう言い残すと明石は用具置き場のほうに歩いていった。 「誠ちゃん!ただ打つだけじゃつまらないから、なんか賭けない?」 久しぶりの投球を前に緊張している誠に向けて、アイシャはそう話しかけた。 カウラの目が鋭くこちらのほうを見ているのを痛々しく感じながら、誠はおずおずと三塁ベースからホームに歩くアイシャの方を見つめた。 「賭けるって……冬コミの執筆か何かですか?」 呆れたように両手を広げるアイシャ。彼女はバットを持ってホームベースのところにいたカウラからバットを奪い取ると素早くスイングをした。 右打ち、バットはグリップエンドぎりぎりのところを持って腕をたたんで振りぬく。 「馬鹿ねえそれはもう決定事項だから。そうじゃなくって私が勝ったら、キスさせてもらうってのはどう?損な話じゃないと思うけど……」 そのアイシャの言葉に誠は混乱した。 「アイシャさん、それって逆じゃあ……」 同じく動揺していたカウラがアイシャの狙いを理解して彼女をにらみつけた。 「怖い顔しないでよカウラ。誠君も奥手そうだからね。じゃあ先生が勝ったらカウラにキスさせてあげるって言うのはどう?」 にらんでいたはずのカウラが急に頬を染めてうつむいた。 しばらく下を向いてスパイクで何度かグラウンドの土を蹴飛ばした後、言葉の意味を理解して激高するようにスイングを続けるアイシャを見つめた。 「アイシャ!何を言ってるんだ!」 動揺しているカウラの顔が赤く染まる。 「ほんとこの子は冗談が分からないんだから……そうだ!今度、どっか行った時、奢ってあげるわよ。それでいいでしょ?それじゃあ決まりね!」 そう言うとアイシャは一人納得したようにバッターボックスに入った。インコースの低めの球をおっつけるようなスイング。外角高めの速球を予想して叩きつけるようなスイング。そして外角低めのボールを救い上げるようなスイングをアイシャは見せた。 そしてアイシャは紺色の帽子を一度脱いで、後ろで縛った紺色の長い髪を風になびかせるとまるで挑発するように誠の投球を待つ用にオープンスタンスでバッターボックスに立った。 用具部屋でマスクをつけた明石がグラウンドに小走りで現れる。吉田をはじめとした隊員達が誠の緊張した姿を見に人垣を作っていた。 「なに、ぼーっとしとる。アイシャの、何か注文があるんじゃ……」 ホームベースの後ろでミットを叩きながら明石が尋ねた。 「そうですね、とりあえずストレート、チェンジアップ、スライダーの順で投げてみてもらえますか?とりあえず球筋が見たいんで」 そう言うとアイシャは流し目を誠に向けた。明石からボールを受けると誠は左手の上で転がす。 肩は先ほどまで続けていた投球練習でかなり出来上がっていた。確かに大学時代に比べれば球威は無いが素人に打たれるような気はしなかった。 「なかなか、ええチョイスしとるのう。コースの指定とかは無くてええのか?」 「ええ、とりあえず先生が自信を持ってるだろうコースをリードしてもらえば」 そう言うとアイシャは不敵な笑みを誠に投げかけた。 打たれる。 誠はそう直感した。昔からこういう時の勘は外れたことが無い。ネガティブな思考がピッチャーにとって致命的なのは自分でも分かっていたがこれだけはどうしようもなかった。 ボールを何度か指に絡ませてマウンドの上で明石のミットが定まるのを待った。 初球はインハイにミットがある。 左ピッチャーならではのクロスファイアーを決めるのに、うってつけのコースだ。 誠はゆっくりと振りかぶる。しかし、どこかで先ほどのアイシャの笑みが拭いきれない。 『出来るだけ前でボールをリリースする』 昨日カウラから聞いた一言で、それを何とか拭い去ろうとした。 事実、指先までの感覚は全て納得がいくフォームだった。しかし、ボールはシュート回転して少し内側へと曲がりこみストライクゾーンの中に決まった。 「打ちごろね」 アイシャはそれだけ言うと軽くそのコースの球を、右方向におっつけるようなスイングをして見せた。 明石もその後ろのカウラも昨日より球の切れは増していることは認めたが、コースが不味いというような顔をしていた。 何も言わずに明石がボールを返す。 『僕が一番それを分かってるんだ』 誠はそう思った。 次はチェンジアップ。 明石のミットはもうすでにインコースの膝元に定まっている。どうやら明石のリードはかなり強気らしい。アイシャの先ほどのスイングから見て基本的に反対方向へ持っていく型のバッターなのだろう。そう誠は思うと自然に体に緊張が走った。 コーナーワークが命綱の誠にとって引っ張りにかかる大物打ちのバッターの方が御しやすい相手だった。アイシャのようなタイプは緩急を使って体勢を崩しても外角のストライクゾーンに甘く入ればそのままライト線に流されて長打を打たれることもありうる。 誠はボールの握りを作るとゆっくりと振りかぶった。 今度は決めて見せる。しかし……。 迷っている自分を意識している分、ボールを離すタイミングがわずかに遅れた。 今度はボールは明らかに低すぎるコースでミットの中に納まった。 「ちゃんと、振る気になるような球投げてくれなきゃ参考にならないじゃないの」 アイシャがぼやいた。 泣き言を言いたいのはこっちの方だ。誠は心の中でそう思った。 次はスライダー。 もう明石はアウトコース低め一杯にミットを構えている。 あのコースへのスライダーは自信がある。ただし……。 誠は心がすでに折れている自分が分かっていた。それでもカウラの真剣な眼差しが、少しばかり彼に勇気をもたらした。今度は自信を持って、リラックスしてモーションに入った。 どうせ見るだけだ。相手がいなければ……誠はそう割り切って素早く腕を切るように振り切った。 ストレートと遜色の無いスピードの球が鋭く縦に落ち、微動だにせぬ明石のミットの中にずばりと収まった。野次馬達から大きな歓声が上がる。 ようやくアイシャは満足したような顔を浮かべるとバッターボックスを外して三回素振りをして見せた。 「ようやくまともな球が来たわね」 軽く素振りをするとアイシャはそう言って笑いかけてきた。誠の顔に笑みは無い。 確かに満足が出来る球だった。だがそれ以前の二球で、もうすでに負けが決まってからの球だ。 「勝負か?ならヒット性のあたりが出たら、アイシャの勝ちと言うのはどうだ」 カウラがそう言った。 「異存ないわよ」 アイシャはカウラの提案に即答する。 誠は少し迷った後、縦に首を振った。 「こっちが有利なんじゃ!軽い気持ちで投げんかい!」 明石はボールを返しながらそう言った。昨日の飲み会ですでにサインは決まっていた。誠はボールを受けるとそのままセットに入った。 明石はミットの下からサインを出す。 初球はいきなりインローにカットボールだ。先ほど見せた球とは違う指示に卑怯だとは思いつつも逆らえずに誠は首を縦に振った。 ボールをグラブの中で転がしながら、誠はアイシャの表情を探った。 ニコニコ笑みを浮かべているばかりで本心はまるで読めない。ただ先ほど投げさせた三球のうちのどれかに山を張っていることは間違いない。 それならと誠は振りかぶって手首を切るようにして球を投げ込んだ。 アイシャはスイングに行ったが中途半端なところでバットを止め球をカットする。打球は右方向のファールグラウンドに転がっていく。 「いきなり卑怯なんじゃないですか?中佐?」 アイシャはマスクをして黙っている明石に向かってそう言った。なじるような調子ではなく挑発するような言葉。誠にはそう言った後、誠を見つめてからいったんバッターボックスを外すというアイシャの一つ一つの動作に余裕が感じられた。 カウラが予備のボールを明石に渡し、明石は間髪おかずそれを誠に投げつける。 ボールを受け取った誠は明石の次のサインを待った。 明石がだしたのは、外角低めのカーブ。 また見せた球と違う要求。誠は頷くと今度は軽く振りかぶり、ゆったりとしたフォームで投げ込もうとした。 しかし、アイシャはすぐにこちらの意図を察したのか完全に見逃しの体勢に入っている。 その明らかに打つ気の無いというアイシャのポーズに誠の左腕に力が入った。ドロンとした大きく落ちる変化球はホームベース上でワンバウンドして明石のミットに収まった。 「いい加減、まともな球、投げてよねー」 軽くスイングを繰り返しながら、アイシャはそう言った。 明らかに誠に心理戦を仕掛けようとしているアイシャを眺めて、明石は誠の意思を確認するように、鋭い視線を向けてきた。 投げ返されたボール。 誠はボールを左手で握り締める。その先に見える明石のミットの下から出るサインはインローのスライダー。間違いなくアイシャが狙っているだろう球とコースだ。 誠はグラブの中でボールの握りを確かめながら、モーションを起こした。 『打たれてたまるか!』 誠は心の底からそう思って自分の考えた通りのフォームで球を投げ込む。 フォロースルーの感じが心地良い。これならいける、そう思った先には内角を待ち構えていたアイシャの左足が大きく内側に踏み込んできた。 でも! 誠はその球にだけは自信があった。 しかし、ボールは素直にアイシャの振るバットの根元に捉えられた。完全に死んだ打球が三塁線を転がっていく。誠はかつての野球部のチームメイトが打球に駆け込んでいく様子を思い出していた。 間違いなく内野安打コースだ。誠は力なく肩を落としてうなだれた。 何度となく同じゴロを見てきたことだろう。さらにはいつでも焦ってファーストに悪送球する三塁手が彼の味方だった。 「これは……アイシャの負けじゃな」 マスクを外した明石がそう言った。 「そんな……あれなら内野安打にはなるんじゃ……」 誠は力なくそう言っていた。しかし、視線を上げた先にはマウンドに向かって歩いてくるアイシャの姿があった。 「馬鹿にしないでよね!三塁守ってるのアタシよ!あんなの猛ダッシュでランニングスローくらい決めれば、すぐにアウトよ。まあ、バッターがカウラやシャムちゃんクラスの足なら別でしょうけど」 アイシャの言葉にマウンドを降りてホームに向けて歩く誠。 「いい勝負だったわ」 そう言うとアイシャは誠の両肩に手を乗せた。 「お礼よ」 そう言ってアイシャが誠の額に口づけする。 誠は何が起きているのかわからなかった。 目の前には嬉しそうに微笑むアイシャの紺色の瞳が見える。すぐに誠はホームのところに立つ二人に目をやった。 両手を握り締めながらカウラはわざと目を逸らしている。明石はマスクを外して頭を掻きながら二人の様子を見守っていた。 そこに突然背後からの気配がして、次の瞬間には後頭部に紙のはじけるような音がした。 「何やってんだ!スカタン!」 要の金切り声が耳を引き裂く。 「テメエもテメエだ!野球の練習やってんじゃねえのか?まったく、真昼間から盛りやがって!」 要は手に持ったハリセンを振り回しながら余裕の表情を浮かべるアイシャに詰め寄る。 「あら、要ちゃんじゃないの。もしかして、ジェラシー?」 そう言うとアイシャは帽子を脱いで長い紺色の髪をわざとらしくなびかせて見せる。 「何わけ分かんねえこと言ってんだよ!新入り!叔父貴がお呼びだ!それとカウラ投げんぞ!」 要がガンベルトとホルスターをカウラに向けて放り投げる。カウラはアイシャの誠へのキスに戸惑っているように一度はガンベルトを受け取ったものの落としてしまった。 「あのー、僕の分は?」 要がハリセンをアイシャに押し付けるのを見ながら誠は尋ねる。 「上官を荷物運びに使うつもりか?早くしろ!それとタコ入道!叔父貴が報告書、書き直せって言うから机に置いといたぜ!」 そう言うと要は誠の左手を握って歩き始める。 誠は仕方なく一塁ベースの後ろで手を振っている吉田にグラブを投げて渡した。 「まったくあのお人は勝手ばっか言いよる」 そう言うと明石はあきらめたような調子でそのまま吉田のところへ歩き始めた。 「遊んでばかりいるからだろ?それと俺からも話があるんだよ」 吉田は誠のグラブに自分の右手を押し込んで遊んでいる。 「射撃訓練がんばってね!」 そう言ってアイシャが誠に手を振る。明石は恨めしそうに要を見つめている。 「タコ!文句はあたしに言っても無駄だぜ。叔父貴に言いな!新入り、カウラ!行くぞ!」 要は妙に張り切って二人を連れてそのままハンガーの裏の雑草が生い茂る間にできた踏み固められた道を歩いて裏手にある射場に向けて歩みを早くした。 本部の建物が尽きた先、そこに射撃用レンジがあった。 射場にはトタンでできた日よけがあり、30mレンジと100mレンジ、それに500mレンジが並んでいるという、それなりに実用的なものだ。 嵯峨は30mレンジでいかにもだるそうな感じでタバコを燻らせていた。 「着たかー」 声にやる気が感じられない。 誠が目をやると荷物置き場に見慣れた04式9mmけん銃と小口径の見慣れない拳銃が置かれているのが分かった。 「さっき勝負してたみたいだけど監督。どっちが勝ったんだ?」 嵯峨が要に向かって空気を読まずにそう尋ねた。 「くっだらねえ!さっさと始めねえか!」 頬を染めて叫ぶ要に頭を掻く嵯峨。 「まああれだ。俺も素振りくらいはしとくかねえ」 そうつぶやく嵯峨に要はタレ目を見開いて挑発するような視線を送る。 「それよりちゃんと守備練習しといてくれ。一試合に必ず一回は送球を落とすファーストなんてしゃれにならないぞ」 要の一言に嵯峨はいじけたように視線を落とした。 「神前の。野球の時は一応俺がファースト守るから、あまり右方向には打たれないように」 視線を落としたまま嵯峨は懇願するように誠に語りかける。 「まあ努力します」 そう言いながら誠はスパイクのまま射撃レンジの日陰に入った。 スパイクの金具がコンクリートの射場に乾いた音を立てた。誠の足元を見ながらカウラはガンベルトを巻く。 「でだ。お前等も知ってると思うが神前は射撃が致命的に下手だ。そこで、今日は教官としてカウラ・ベルガー大尉と西園寺要中尉においでいただいてわざわざご指導を賜ろうと……」 能書きをたれる嵯峨の顔を要が覗き込む。 「叔父貴。つまんねえ話はいいんだ。要するにこいつの前で保安隊標準の射撃をして見せろっつうことだろ?」 要はようやく機嫌を直してカウラのほうを見つめた。 カウラは放心していた。ガンベルトを何度か緩めたり締めたりしながら先ほどのアイシャのとった行動を反芻しているように何も無い中空を見つめている。 「ボケカウラ!聞いてんのか?」 要がそう声をかけたとき、カウラはぼけたようにホルスターから拳銃を抜いた。 「馬鹿!止せ!」 撃たれると思ったのか要がそう叫ぶ。 「何をそんなに驚いているんだ?」 カウラはそう言うと調節するのをあきらめたようにホルスターとガンベルトをレンジの床に投げ捨てた。 「まあ、何があったか知らんが。とりあえず要坊。撃ってみろや」 嵯峨はカウラが動けないことを知ってか、すぐに要にそういって見せた。 「新入り!とりあえず射撃ってのはこうやるんだ!」 言われるまでもないというように要は腰の拳銃を素早く抜き放った。 電光石火とはこのことを言うんだろう。要の動きを見て誠はそう思った。実戦での拳銃の射撃の腕前は先日の人質騒ぎで分かっていたことだが、射場に来るとさらにそれは凄まじいものになる。 3秒間の殆どフルオートではないかという連続した轟音。弾を撃ち尽くしスライドがストップしているが、要は素早く空のマガジンを捨て次のマガジンを装填しようとしていた。 「別にタクティカルリロードの実演なんて必要ないよ」 嵯峨が止めたのでようやく気が済んだとでも言うように要はゆっくりと手にした予備マガジンを銃に入れスライドを閉鎖した。 誠は視線を要からターゲットに移した。三十メートル先の人型のターゲットの首の辺りに横一列に弾痕が残っている。狙わなければこんな芸当は出来ないがそもそも生身の人間に出来る話ではない。 『よしてくださいよ、こんなのと一緒にされても……』 誠は正直、戸惑っていた。 「さすが、『胡州の山犬』の一噛みと言うところか?」 満足げに嵯峨はターゲットを見つめている。 「こんなのただのお座敷芸だぜ。まあ、生身じゃあ出来ない芸当だろうがなあ?」 そう言って要はカウラに視線を向ける。 嵯峨の言った『胡州の山犬』と言う言葉に誠は額の汗が増しているように感じた。誠もその噂としか思えない殺人機械の異名は大学時代に噂で聞いたことがあった。東都戦争でマフィアばかりでなく、裏ルートで動いている大国のエージェントがいたという事実はネットで東和中に広まっていた。 その一つの部隊が胡州帝国陸軍の非正規特殊部隊。その『胡州の山犬』の残忍な手口、すべての対立勢力をたった一人で皆殺しにする手口。東和警察に助けを求めた運んでいた荷物が何かも知らされていない三下でさえ警察官の目の前でなぶり殺しにするという手口は、ゴシップモノの雑誌の電車の吊り広告でも見たことがあった。 『西園寺さんてそんな人物だったのか……』 少しばかり軍の内情を知り、非正規部隊が自国の裏情報・資金ルート確保のために東都戦争を利用していたことが事実だと分かった今、その中の伝説的存在『山犬』が目の前にいると知って誠は恐怖していた。 「新入り、なんか顔色悪いぜ。お前のためにやってるんだ。しっかり見てろ。それじゃあカウラさん。生身でどれだけできるか見せてもらおうじゃねえの」 要は誠の思惑など気にする風でもなく、嘲笑うかのようにカウラにそう言って見せる。 呆けていたカウラもその言葉でスイッチが入ったかのようにエメラルドグリーンの瞳の色に生気が戻った。 銃口をゆっくりと上げ、美しい力の入っていないフォームで二発づつの射撃を8回続けた。銃のマガジンが空になりスライドストップがかかる。 「ダブルタップのお手本だね」 嵯峨がやる気なさげにそう言った。 ターゲットを見る。急所と思われる場所に確実に2発の弾痕を、8つ作っている。 カウラは表情を変えるわけでもなく、静かに空のマガジンを外して銃を台の上に載せた。要はニヤつきながらそんなカウラを見つめている。 「まあ、見本はこれくらいにしてだ。神前!お手本どおりに撃ってみろや」 嵯峨はそう言うと04式9mmけん銃を指し示した。 誠は仕方ないという調子でそれを手に取り、弾が薬室に入っているのを確認すると狙いを定めた。 『とりあえず、ダブルタップで・・・』 などと考えて誠は引き金を引いた。 誠の掌を襲う反動、そして抑えきれずに反射で人差し指は引き金を二回引く。とんでもない方向に弾が飛んでいくのがわかる。 もう一度仕切りなおす。 初弾はとりあえず的の中に入るが、二発目の反動のコントロールが効かない。 養成所での訓練の時も拳銃射撃だけは最低レベルで何度となく居残りをさせられたが、まったく効果がなかったのがいまさらながら思い出された。 「やめろ、やめろ。弾の無駄だ」 呆れたように嵯峨がそう言った。 「9パラで何馬鹿なことやってんだ?アタシのXDー40はS&W40だぞ?それにカウラのSIG226も9パラで反動は同じだってえのに……。まじめにやる気ないだろ?」 要がそういって下卑た笑いを浮かべる。比べるほうが間違っているんだ、卑屈な感情が誠の心の中を支配する。 「そこで、こいつ撃ってみな」 嵯峨はそう言うと、もう一丁置かれていた銀色の小口径の拳銃を誠に手渡した。 「ずいぶんとクラッシックな銃ですね」 誠は手の中で見た目の割には重く感じる銀色の銃をもてあそんだ。 「まあ三百年以上前に作られた銃だからな」 そう言うと嵯峨は感心したように誠の手の中の銃を眺める。 「貫通力重視で小口径なんですか?」 そのまま誠はオープンサイトでターゲットを狙ってみる。 「うんにゃ、それはモグラとか地ねずみとか駆除するための銃だから」 そう言うと嵯峨は銃を構えている誠を眺めて表情の変化を観察する。 「………」 誠は二の句が継げなかった。 銃撃戦、特に室内での犯罪組織への突入作戦と言っても、多くの場合組織犯罪者ならボディーアーマーやヘルメットで身を固めているのが普通だ。その相手にモグラ退治の銃で挑めというのか?誠はそう思うと手の中のステンレス製の銃を眺めてみる。 自殺行為だ。 誠は恨みがましい目で嵯峨のほうを見やる。そんな視線を無視するように嵯峨はタバコに火をつけながら別に気にする風でもなく話を続けた。 「結構手がかかったんだぜ、そいつは。チャンバー周りがガタガタだったから、全部隣の工場に部品発注したんだけど、ボルトのすり合わせがイマイチだったから全部ばらして組みなおして、さっきようやく完成したんだ。さあ、撃ってみろよ」 もう逃げ場は無いらしい。観念すると誠は銃口をターゲットのほうに向けた。 パスン。実に軽い音が響く。反動も銃の重さゆえに殆ど無い。 「伊達にブルバレルで、フロントヘビーになってるわけじゃねえんだよ。続けな」 ダブルタップ、トリプルタップ。そして利き手でない右手での射撃。 どれも正確とはいえないまでも、誠の撃った弾丸はマンターゲットの中には納まった。 「やりましたよ!」 そう言って嬉しそうに振り向く誠を、明らかに冷めた視線の要とカウラが見つめていた。 「やっぱオメエ道場に帰れ」 要がそう言うと、タバコに火をともした。ムッとして誠はそちらのほうを睨み付けた。 「だってそうだろ?22口径ロングライフル弾。幼稚園のガキでも缶コーラの缶に当てるぞ。それが一応とは言え軍人がマンターゲットに当たったからって、いい気になってるのは感心しねえよ。それに……」 要の言葉を聞いて嵯峨が立ち上がった。 「いいじゃん。こいつがピンチの時はオメエ達が何とかすりゃあいい」 別に当然と言うように、嵯峨はタバコをくゆらせ続ける。 「西園寺の言うことにも一理あります。第一、いつも彼をカバーできる自信は正直ありません」 そう言うカウラに嵯峨はため息をついた。そしてそのまま彼女の肩に手をやる。 「でも、やらにゃあなるめえよ。そいつが仕事だ。それに例の乙式の能力を引き出せるのは……」 あきらめたように話す嵯峨。 「乙式って精神感応システムの強化版が乗っている機体でしょ?それのパイロットは本当に僕でいいんですか?」 誠の言葉に要とカウラは嵯峨の顔を覗き込む。精神感応システム。脳の出すわずかな波動をキャッチして増幅した操縦関係装置をオペレーションシステムと同調させてすばやい反応行動を引き出す技術。誠は訓練校ではそう聞かされていた。 「まあお前の考えとは開発コンセプトは違うんだがな。かなり特殊なシステムを積んだ特別製の機体だ。スペック通りの性能を出すとなると、一応、お前くらいのアストラルサイド指数が無いとシステムの発動が難しくてね」 言い訳する嵯峨だがその表情は冴えない。 「叔父貴!精神感応兵器の開発はアメリカでも中止になったはずじゃねえのか?」 嵯峨の言葉をさえぎるように怒鳴る要。 「アメリカにはアメリカの都合があるんだろ?それにあくまで精神感応兵器の開発を中断したと言うのは表向きの発表だ。実際はどうだかわかったもんじゃない。それに前の戦争中から胡州や東和ではかなり研究が進んでてな」 そう言うと嵯峨は誠の手にある拳銃を取り戻した。そしてそのまま視線を床に降ろして言葉を続ける。 「胡州の成果って奴は俺も試験運用に付き合わされてね。菱川と胡州陸軍装備開発局の共同制作の特機の運用についてコメントしたこともあって、その縁で今回乙型がうちに配備される話が来たんだよ。俺は文系だから技術屋の説明聞いてもちんぷんかんぷんだったがな。それにモノがモノだけに研究成果はトップシークレット扱いだ。お前等が知らないのも当然だな」 そう言うと嵯峨はふと隊舎に目を向けた。 「おやっさーん」 グラウンドで球拾いをしていたはずの島田曹長が整備員のつなぎに着替えて駆け寄ってきた。 「おう、ようやくセッティング終わったか?」 嵯峨は島田に向かってそう言うと、タバコを投げ捨てた。 「ええ、吉田少佐のデバックが終わったんで。おかげで乙式はダンビラ装着時のバランス計算もばっちりですよ」 そこまで言うと島田は射撃レンジに座り込んだ。誠は手持ち無沙汰にレンジを眺めていると不自然な草叢を見つけて嵯峨の袖を引いた。 嵯峨は誠の視線の先を一瞥すると要とカウラに声をかける。 「よし!それじゃあ、場を変えようや……って、オメエ等ー何やってんだー?」 誠の見たとおり、嵯峨が声をかけたところを覗き込む。要とカウラは視覚偽装型迷彩で完全擬装した下からアンチマテリアルライフルの銃身が覗いているのを見て唖然とした。 しばらくすると発見されたのに気づいて、双眼鏡と見慣れないバナナマガジンのアサルトライフルを手にした警備班の准尉と、射手であったろうマリア・シュバーキナ大尉が出てきた。 「吉田の真似かー?やめとけよ!あいつは特別製だって言ってるだろ?それにそのゲパードM3の弾代は高えんだから、シンの旦那にどやされるこっちの身にもなってくれよ」 その声が聞こえたのかマリアは後ろで待機していた警備班の連中に擬装とアンチマテリアルライフルの回収を指示している様だった。 「要坊。こいつ擬装中のシュバーキナにすぐ気づいたみたいだぜ?これでも使えねえのか?」 嵯峨はそれだけ言うと島田のあとをついてハンガーへと向かった。 要はいかにも憎たらしいというような表情で誠を一瞥した後、拳銃をホルスターにねじ込んで嵯峨の後に続いた。 「眼は良いみたいだな。戦場ではそれは大事なことだ。悪かったな馬鹿にして」 カウラはそれだけ言うと誠の肩を叩いて、ハンガーへの道を急いだ。彼女について誠は射場を後にした。 夏の日差しが照りつける。カウラの後ろについて歩く誠は汗を拭いながら続いた。 「暑くないですか?」 誠のその言葉にカウラはエメラルドグリーンの髪をなびかせて振り向いた。 「それは気持ちの問題だな」 そう言うカウラの額にも汗が光っているのがわかる。ハンガーの前にできていた人垣はすでに跡形も無くなっていた。 グラウンドではヨハン、技術部装備班長のキム、それに管理部の菰田を加えて明石がグラウンドのランニングを続けているのが誠の目にも見えた。 「ちょいちょい……」 嵯峨が、何気なく半分閉められたハンガーの扉の向こうで手招きするのにあわせて、誠はハンガーに入った。 相変わらず巨人のように聳え立つアサルト・モジュールの一つ、中央のオリーブドラブの東和軍配備の色の機体の前に立つ明華。彼女はシステム担当の下士官と手にした仕様書を見ながら話し込んでいるのが見える。 「じゃあタコがうるさいから行ってくるわ」 そう言った後屈伸を三回ほどして嵯峨はランニングの列に参加するべく走り出した。 カウラと要が見守る中、誠はゆっくりとその機体に向けて歩き始めた。 「ちょっと待って。とりあえずそのスパイク脱いでよ。せっかく整備した新品に傷でもつけられちゃたまんないから」 明華はそう言うと隣に控えていた整備班員に目配せした。彼はすぐさま搭乗用のブーツを差し出した。誠はそのままブーツを受け取ると足を押し込むようにして履いた。 その様子を確認した明華はそのまま隣のシステム担当の技官の差し出す資料の確認をすると誠に向き直った。 ブーツを履き終えた誠が立ち上がる。 「じゃあ早速乗ってみて」 そういうと明華は歩いている誠に、コックピットまでの順路を譲った。 「これ、05式ですよね」 確かめるようにして誠は明華にたずねた。 「そうよ、まあ乙型って言って特定のパイロットのある『特殊な』能力が露骨に戦闘能力に反映する機体だけど……」 明華の誠を見る目はあまり彼女が誠に期待していないことを物語るように冷たかった。 「そうですか」 誠は自分がこの保安隊の実質ナンバーワンといわれる明華に期待されていないことを感じて落胆していた。 05式は開発時には東和も制式採用アサルト・モジュールとして期待されていた機体であり、彼もまたそれに向けての訓練を受けていた。しかし、そのコストと簡易型である09式の開発のスピードもあり、実際に05式を採用したのは保安隊と西モスレム首長国連邦、それに地球のシンガポールだけだった。 そんなコストパフォーマンスを無視した精強部隊用特機に自分が採用されたのは何故か?搭乗通路に上がるエレベータでもそのことを考えていた。 見下ろせば夏季勤務服姿の要の口元にはもうすでにタバコは無く、ただ好奇心の目でコックピットに入ろうとしている誠を見ている。野球部の練習用ユニフォーム姿のカウラは心配そうに誠を見つめていた。 誠はコックピットの前で止まったエレベータから身を乗り出すと、ようやく決心がついたようにコックピットに乗り込んだ。 エンジンの暖気が済んでいると言うことを確認した後、そのままシートに尻を落ち着けた。 新品のコックピット。 調整項目の札が何枚も貼られた計器板。 操縦席の座り心地を何度か確かめ、両手を操縦桿に添えて何度か動かしてみる。 「とりあえずハッチと、前部装甲板、下ろしてみて!」 操縦席の横に置かれていたヘルメットから、明華の金切り声が響く。 誠はヘルメットをかぶると指示通りハッチと前部装甲板を閉鎖した。 静まり返った暗い空間が一瞬にして全周囲モニタに切り替わり、ハンガーの中に固定された05式の周りの風景を映し出した。 足元では、要とカウラがなんとなく不安そうに見上げている。整備員達はそれを取り巻きながら、自分達の整備の成果を見ようと息を呑んで見つめていた。 「とりあえず、ご希望のアサルト・モジュールのコックピットに座った感想はどうよ」 モニタの一隅に開いたウィンドウの中でヘッドギアをつけた明華が笑いながらそう問いかけてくる。 「うれしいですよ。それにこんな機体、本当に僕専用で良いんですか?」 その言葉を誠の謙虚さと受け取ったのか、明華は微笑んで見せる。 「まあ慣らしさえしっかりやってもらえれば、それなりに動く機体だから。それに怖いお姉ちゃん達の訓練が待ってるから、ウチじゃあ一年もすれば立派なパイロットになれるわよ」 『怖いお姉ちゃん』と言う言葉を聴いて誠は下を見下ろした。 この音声は全館放送されているらしく、要がカウラに押さえられながら何か喚いていた。 誠は計器板を見ていた。 養成所でのシュミレーターとは若干違う配置だが意味はすぐに理解できた。 「許大佐。設定見ても良いですか?」 少し興味を引かれて誠は設定変更画面にモニターを切り替える。 「ああ、あんた一応そっちも出来るんだったわね。良いわよ、おかしい所は無いと思うけど」 誠はその言葉を受けると設定公開の操作をする。画面にはオペレーションシステムの設定が並んでいた。 弄り倒してある。そんな印象だった。 全ての項目に設定変更を示す赤い文字が浮かんでおり、特に機体の空中、及び宇宙空間での制御関連はまるっきり変更されていた。 全ての原因は後付けされた右腰につけられた熱反応型サーベルの重量により発生したバランスの狂いを直すものだった。 「許大佐……」 正直ここまでオペレーションシステムの設定をいじってあると不安になる。誠は眼下で誠の機体を見上げている明華に声をかけた。 「言いたいことは分かるわよ。でもあの吉田が本部のメインコンピュータにアクセスして、計算かけて調整した結果だから安心していいわよ。まあ、隊長の指示でダンビラ後付したからそこらへんで設定変更が必要だったわけ。それに、射撃が苦手て言う話しだからそれに合わせていろいろと照準系をいじってもあるから」 あたかもそうなったのが誠のせいであるかのように聞こえて、少しばかりムッとした。誠はそう言いながら今度は深くシートに体を沈めた。訓練校のシミュレータのそれより硬い感触だがすわり心地は決して悪くは無い。 鼓動が高鳴るのを感じていた。最新スペックのアサルト・モジュールを独り占めできるということで、自然と誠の顔には笑みがこぼれていた。 「にやけるのは良いけど、とりあえず個人設定終わらせて頂戴ね」 明華の呆れたような声で、誠はようやく我に返った。 「個人設定は基本的にはそこに座って、パイロット認証システムを起動するだけで後は全部機械がやってくれるから」 明華は投げやりにそう言った。 ハード屋の彼女にとって、そちらのほうは全て吉田とヨハン、そして島田に任せてあるという分野だった。彼女は14歳で遼北人民軍大学校を卒業してから開発・運用・整備畑を歩んできたがそれにしてもこの機体は経験では図れない機体のように感じていた。 『法術システムって何?』 仕様書でその概念の理屈を見たときに有る程度は彼女も理解していた。 簡単に言えば、遼州人の一部には強力な思念波を発生させられる人間がいる。その思念波を増幅し時空間そのものに干渉してしまうという凄まじいシステムを積んだ05式乙型。 だが、その基礎理論をネットで拾おうとすると軍や軍事産業会社、それどころか研究機関や大学に至るまですべての情報にプロテクトがかけられていた。彼女の出身の遼北に於いてすら技術大佐のランクのアクセス権限では役に立つような情報は皆無だった。 その方面での専門家のヨハンもその基礎理論や乙式の法術系兵装やオペレーションシステムのブラックボックスについては口をつぐんでしまうばかりだった。 『しかし、そんな才能があの新兵君にあるのかしら』 明華はそう思って画面の中で嬉しそうに個人設定を行っている誠を眺めた。どう見てもうだつがあがらない新入社員といったところだ。 新入隊員歓迎会で二回とも全裸になろうとして周りの人間に袋叩きにされている姿は、いかにも体育会系の下っ端と言う感じであまり好感を持ってはいなかった。 そんな誠は設定画面が起動したのか、いかにも嬉しそうに作業を続けている。 明華はモニターを続けながら暇つぶしに誠のデータ入力速度を計ってみた。 それなりだ。特に変わったところは無い。 手元に送られてきた脳内各種波動は典型的な遼州人のそれであり、この機体のシステムを動かすには不十分な数値しか出なかった。 『嵯峨隊長は何か隠してるわね』 その数値が逆に明華の探究心を刺激した。 「何見てんのかな?」 突然後ろから声をかけられて、明華は驚いて振り返った。 いつランニングの列から抜けてきたのか、嵯峨がつまらなそうに周りの機材類を見渡している。 「今回は隠し事はしてないよ。少なくともお前さんが不安に思っている情報統制に関しては俺なんか手が出せない上の方の方針だ。俺がどうこうできる話じゃない」 そう言うと嵯峨は誠の作業の様子が映っている明華の携帯端末を覗いた。 「今回はと言うことは、いつもはしているということですね?」 嵯峨に隣に張り付かれて不愉快そうな表情を浮かべながら明華はそう言った。 「絡むねえ。確かに遼南内戦の時は、お前さんにも秘密にしてたことが結構あったけどね。それにまあ情報なら吉田に聞けば良いじゃん。俺は本当に今回は隠し事はしてないんだって」 そう言うと嵯峨は引きつっている明華のまゆ毛を見つけて後ずさりした。 「遼南内戦の時の隊長の愛機のカネミツに関するデータを尋ねた時、同じようなことを聞いた様な気がするんですがね」 そう振ってみたが嵯峨は別に表情を崩すわけでもなく、誠の作業の進捗状況を見ていた。 もうすでにデータ入力は完了して機械のほうが勝手にシステムの再構築を行っていた。 「俺はね、明華よ。皆さんが無事にここを卒業してくれりゃあそれでいいと思ってんだよ。それまで退屈せずに和気藹々とお仕事できる環境を作るのが俺の仕事だ。お前さんは勘ぐるよりまず、目の前の仕事やってくれや」 この人は読めない。 いつもの事ながら明華はもてあそばれている様な気がして視線を落とした。嵯峨はそれを見やると親指で目の前の特機を指した。 「それとこいつ等の運用試験。胡州の海軍演習場でやるから。ヨロシクね」 突然の話に明華は目が点になった。 「何でそんな遠くで……東和の菱川系の実験場とかじゃ……」 うろたえる明華に満面の笑みを浮かべる嵯峨。 「今度は隠し事させてもらうけど、そこじゃなきゃいけないわけがあるんだよ。まあ、そのうち話すから待っててね。それとこの件で吉田に聞いても無駄だよ。明華に一番初めに話したんだ。奴も俺がそっちに手を回していることくらいしか知らんはずだよ」 相変わらず食えない人だ。 明華はそう思いながら再び明石達のランニングに付き合おうと去っていく嵯峨の後姿を見ていた。 誠は入力を終えても興奮が冷めやらずにいる自分を感じていた。 『専用機か……』 感慨深いものがあった。 特機パイロット候補を志願したものの、シミュレーターでの成績がギリギリで、パイロットとしてなら輸送機部隊以外に引き取り手が無いと言われていた。大学の先輩で同じく幹部候補生上がりの佐官には、彼の所属の装備開発研究部門に誘われたこともあった。そんな自分に、最新式アサルト・モジュールのパイロットの役割が回ってくるとは思ってもいなかった。 しかも乗るのは特殊な精神感応システムを搭載していると言う触れ込みの、最新鋭機で自分の専用機。 「神前君。ちょっと顔、ニヤケてるわよ」 明華のそんな声で急に我に返った。各種設定の終了を示すランプがモニター上に点灯していた。 「とりあえず今日はこんな所ね。ご苦労様」 その言葉に押されるようにして、前部装甲とハッチを開いて、カウラと要が言い争っている間に入り込んだ。 「なんだ?新入り。もう終わったのかよ」 要がいかにも不満そうに、カウラの襟首をつかんでいた手を離す。周りでキャットファイトを期待して集まっていた整備員達が一斉に散っていく。 「二人とも何をそんなに揉めていたんですか?」 誠はエレベータから降りるとようやくつかみ合いを止めて離れた二人に話しかける。 「別に良いだろ?」 そう言ってグラウンドに向かおうとする要。 「神前少尉にも関係が有るんだ。実は……」 「カウラは黙ってろ!」 振り返って戻ってくる要。殺伐とした空気が二人の間に流れている。 誠はただ何も出来ずに二人の上官たちが口を開くのを待っていた。 「かなめー!カウラー!」 ハンガーの入り口から大声が響いた。 アイシャが野球部のユニフォーム姿でこちらに手を振っている。 「うっせえな!この腐女子!こっちは取り込んでんだよ!」 今にも食って掛かりそうな調子で要が噛み付いた。 「明石中佐がもう一段落ついたころだろうから、呼んで来いって!」 アイシャは悪びれることなくそう言った。 「分かった!すぐ準備するから待っててくれ!」 カウラはぶつぶつ一人愚痴っている要を無視するように言った。 「喧嘩はとりあえず中断だな」 要はそう言うとハンガーの奥に歩き始めた。 「そう言えば西園寺さんは何をするんですか?」 不思議そうに尋ねる誠に要は呆れたようにたれ目でにらみつける。 「とりあえずアタシは監督だからな。ノックとか連係プレーの指導とかいろいろやることはあるんだ。まあタコ中に言わせるといざ乱闘になった時の要員でアタシがいるんだと」 「それ事実じゃないの」 要の肩に手をかけて笑顔を浮かべるアイシャ。要はその手を振りほどいて頭を掻いた。 「それにピッチングマシンを買う予算が無いから打撃練習ではアタシが投げることもあるんだ。それじゃあアタシも着替えるわ」 そう言って奥の野球部の備品置き場兼ロッカーとなっている物置に向かう要。 「西園寺じゃあ火に油を注ぐようなことしか出来そうにないがな」 カウラはきつい口調で去っていく要にそう言い放った。 「今度の演習じゃあ背中に気をつけろよ」 要が聞きつけて振り返ってカウラを指差す。カウラはそんな要の声を無視するように入り口で立ち止まってアイシャから渡されたスパイクを履いていた。 「新入り!とりあえず後でノック百本やるからな!」 誠を指差していかにも腹立たしげにそういうと要はそのまま階段の奥の通路へと消えた。 「分かりました!」 誠はそれだけ言って急いでブーツを脱ぎ捨ててスパイクを履こうとして、転んだ。
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