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作品名:遼州戦記 保安隊日乗 作者:橋本 直

第3回   今日から僕は 2
 胡州第六艦隊分岐艦隊旗艦『那珂』
 その貴賓室の窓の外には宇宙船の残骸と思われるデブリが浮かんでいた。大戦で胡州攻略を目指す遼北・中国・フランスの同盟軍と胡州軍との激闘が戦われた宙域。
 ここは戦後胡州に返還された後も手が加えられずそのままの状態で胡州海軍の演習場として使用されている。
 深い椅子に腰掛けながら老人は静かに手にしたブランデーグラスを眺めながら、流れる交響曲に身を任せていた。その強い意思を象徴するかのような青い瞳は、彼が幾つもの目の前に広がる光景を幾度と無く見つめてきたことを示していた。そして、その満足げな表情は目の前の破壊の後の光景の中で生きることを決意した意思表示のようにも見えた。
 曲は佳境に入り、ティンパニーの低音がブランデーグラスの中の液体をかすかに震わせている、そう老人は思っていた。
「閣下。近藤です」 
 管楽器の雄叫びが始まろうとしたその瞬間、音楽をさえぎるようにスピーカーから低い声が響いた。老人は眉をしかめながら吐き捨てるようにつぶやいた。
「入りたまえ」
 彼は外の胡州軍の駆逐艦の残骸に眠るヴァルハラにたどり着いたであろ兵士達との語らいを中座させられて、不機嫌になっていた。だが老人はそのことで相手を責めるほど狭量な男ではなかった。
 貴賓室の自動ドアが開くと、胡州海軍中佐の制服を着た近藤と名乗った神経質そうな中年の男が部屋の中に闖入してきた。彼は不愉快そうな老人の様子を気にするわけでもなく言葉を切り出すタイミングを計っていた。ここで無遠慮に実務的な話をしてくるような人間ならば、老人はとっくの昔に近藤に関わることをやめていただろう。
 だが、静かに老人の気持ちの整理がつくのを待つ程度の礼儀を近藤は知っていた。
「近藤君。この曲が何か分かるかね?」 
 高らかな管楽器の雄叫びに合わせるようにバイオリンとビオラがその存在を明らかにするような調子で旋律を奏で始める。老人はこの部分に至る過程に闖入者があったことは残念に思ってはいたが、手にしたグラスを傾けることでそんな気持ちをどうにか落ち着けるすべを心得ていた。そして老人は曲に合わせるように目を閉じる。
「クラッシックですね……私はワーグナーしか聞かないもので……」
 老人は再び目を開き近藤と言う胡州海軍の士官を見つめた。正直であることが美徳であるということは、老人の七十年近い人生で学び取った一つの価値観だった。理論を語るもの、特に軍の参謀を務めるものは、正直であるべきだと老人は経験から理解していた。希望的観測で上官の機嫌を取り繕う理論家が、どれほどの敗北を老人に味合わせたかを数えて語り始めればグラス一杯のブランデーでは尽きないだろう。
 そう思うと老人は静かに口を開いた。 
「リヒャルト・シュトラウスだ。ツァラトストラだよ、憶えておきたまえ。教養は人の大小を左右する重要なファクターだ。君も少しは勉強が必要のようだね」 
 閣下と呼ばれた老人は静かにブランデーグラスに口をつけた。老人の機嫌が直ったことに少し安堵した近藤は、流れる交響曲に耳を傾けた。かつての老人のルーツにも当たるドイツで生まれた一人の哲学者。その思想を音楽にするという試みを行った音楽家に敬意を表するように近藤はしばらく沈黙した。
 そして老人がブランデーグラスを紫檀の組細工をあしらった貴賓室の執務机に置いたのを確認して話を切り出した。
「例の報告書は読んでいただけましたでしょうか?」 
 近藤はそう一言一言確かめるように言った。
 老人の目に生気の炎のようなものを近藤は感じた。遼州系外惑星の大国ゲルパルトの秘密警察の大佐を務めた男、ルドルフ・カーン。アメリカや遼北が血道を上げて探している先の大戦の第一級戦争犯罪者。その屈強な意思はゲルパルトを追われたカーンの同志達を敗戦後二十年にわたり指導している人物ならではの力を持っていた。
「ああ読ませてもらったよ」 
 それだけ言うとカーンは近藤を試すような沈黙を作り出した。
 数多くの危険分子の拷問に立ち会ったことのあるカーンに取って、聞きたいことを尋ねるより、沈黙することの方が人に真実を語らせる鍵になることをわかっていた。
 カーンに黙って見つめられて、近藤は額に汗がにじむのを感じていた。
「ところで、君は敵に対する敬意と言うものを持っているのかね?あの報告書、もしそういうものが君に少しでもあったのならあのようなものを私の目に触れさせる様なことはしなかったと思うが、どうだろうか?」 
 その言葉を聞くと思わず近藤は額の汗を拭っていた。手にした情報の価値を過小評価されたという事実が彼の語気を激しいものとした。
「ですがカーン閣下!現状として我々が表立って我等と同志達が動ける範囲といえば……」
 近藤は机に両手を突いて叫んだ。だが、カーンは表情を一つ変えることもなく、ただ感情的になった近藤をはぐらかすように再びブランデーグラスを手にした。 
「言い訳は生産的とは言えないな。あちらに吉田少佐という切れ者がいる、そのことははじめから分かっていることではないかね?相手のカードは分かっている。ならばこちらも手持ちの札を数えなおして次に切るカードを選択する。カードゲームの基本だよ……そして戦争もまた然りだ」
 そういうとカーンは再びブランデーグラスに口をつけた。近藤はカーンのはぐらかすような調子にいつもと同じ苛立ちを感じていた。
 近藤は自分が今の胡州軍の主流からは外れた立場にあることは十分承知していた。
 西園寺内閣は軍縮を視野に入れた同盟機構との協調路線を選択していた。近藤と同志は西園寺内閣による軍の権威失墜すらも安易に受け入れかねない状況に異を唱えるべく集まった救国の志を自負していた。そして現在の国家の危機的な状況を打破する為に活動していると言う自負も持っていた。
 そして、決起の時は近づいていると言う自覚もあった。
 それにもかかわらず、遼州の秩序の再構築と言う同じ目的を目指しているカーンが彼に助言したのは売国奴と近藤達が呼んでいる嵯峨惟基の『保安隊』の調査だった。
 先の大戦では特務憲兵隊長として叛乱分子摘発に活躍した『人斬り新三』も、今は同盟の司法機関の手先に成り下がったと、近藤は嵯峨を軽蔑していた。
 そんな嵯峨の部下がどんな男であろうが、近藤には関心の無い話だった。
 ようやくそんなあふれ出してくる感情の整理をつけると、言葉を選びながら近藤は話を続けた。
「お言葉ですが先日の報告書に不手際があったとは到底思えませんし、あの金で魂を売る殺戮機械(キリングマシーン)が情報改ざんを行っていないことは裏が取れています。ですので……」
 そんな近藤の言葉にカーンは不快感を示した。交響曲が終わり、再びブランデーグラスに口をつけた後近藤を見る瞳には感情が押し殺されているのがわかり、近藤は思わず口を閉ざした。
「君は本当に海軍大学校を卒業したのかね?彼に注目するあまり大事なこと、手に入れた情報そのものの意味を理解しているとは到底思えないのだが……。他者を理解しようと言う行為に意味を感じていないと言うことは自分の無能を証言しているようなものだよ。君の言葉は私にはそう聞こえて仕方がないんだ。確かに今度、保安隊の実働部隊に入った神前誠少尉候補生。彼の出自に不自然なことは書類上無い。だが、そもそもこんなに不自然なことが無い人物をなぜ嵯峨君が選んだのか?そう考えてみたことは無いのかね?」 
 近藤はそう言われて言葉に詰まった。要するに敵を知るべき太。そのような老人の言葉を聞けば、それは至極当然な話だった。
 納得した顔をした近藤を見て、カーンは満足しながら話を続けた。
「敵であれ尊敬すべき人物だよ嵯峨君は。シオニストにもコミュニストにも彼ほどの人材はいない。敵として当たるに対して彼ほど愉快な人物はいないよ。そんな彼が選んだ人材なんだ。私達を失望させるような凡人では無いと考えるのが当然の帰結だ」 
 そう言うカーンの口元に満足げな笑みが浮かんでいるのに近藤は気付いた。
 そして、その笑みがカーンの踏み越えてきた敵味方を問わない死体の数に裏打ちされていると言う事実にすぐに到達した。
「君も少しは前線の地獄と言うものを味わった方がいいのかもしれないな。本部の怠惰な空気は人間の闘争本能をすり減らすものだ。そしてその闘争本能無しには既存の秩序を変えることは難しい」
 嵯峨と言う名前を口にするたびにカーンは愉快そうに眼を細めた。近藤は黙ったまま静かにカーンを見つめている。その意思と寛容が混ざり合うような落ち着いた言葉とまなざし。近藤はカーンが何故ゲルパルトを追われた同志の支持をこれほどまで集めているのかを再確認した。
 そして自分の意思と経験と洞察力。そのすべてにおいて自分はカーンの足元にも及ばないことを学んだ。
「それでは計画を早める必要があるのでは?表面的にはわからないことでもこちらから動いて見せれば馬脚を現すこともありますから」
 そんな近藤の言葉に、カーンは落胆したようにグラスを机に戻した。
「いや、それについて君が口を挟む必要は無い。下がりたまえ」
 カーンは強い口調でそう言った。その語気に押される様にして近藤は軍人らしく踵を返して部屋を出て行こうとした。
「だが……」 
 再び口を開いたカーンの言葉を聞くべく近藤は振り返る。
「私達の組織と胡州海軍第六艦隊は無関係であると言うことを証明できるのであれば、君達は独自に動いてくれてもかまわないがね」 
 その一言に近藤は嬉しそうに頷くと敬礼をして貴賓室を後にした。
 音楽が終わり、近藤も去って部屋は沈黙に包まれた。
 カーンは再びブランデーグラスを眺めると満足げに頷いた。
「君は君にしてはよくやったよ、近藤君。あくまで君としてだがね」
 カーンはそう言うとブランデーグラスのそこに残った液体を凝視した。楽章が変わって始まった楽曲の盛り上がりにあわせる様にして、カーンはブランデーを飲み干した。


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