重ねられた唇から伝わる暖かさ、彼女の前髪から香る優しい匂いが私の鼻腔をくすぐった。突然の出来事で少し驚いたが、彼女の起こすこう言った突発的な行動は私にとって嫌なことではなかった。いや、むしろこちらの方が彼女らしい、過去の事ではあるものの、あのときの彼女は私自身見るに耐えなかった。高校生のときから私達二人の仲は良かった、その為に彼女と私はある種注目される存在だったかもしれない。
「ちょっと早かったね。」 「うん、最後の講義が早く終わった。」
なんでもない会話にすら幸せを感じているのは、私がただ単に惚気ているだけだろうか。私達の会話はいつも取り留めの無い物だ、勿論、そうそう大事な話ばかりあっても困る。一息ついて私達は喫茶店を後にする。何気ない時間を過ごし、やはりこうして共有する時間は大切だと考える。人通りの多い道を二人並んで歩く途中、すれ違う人達の中には腕を組んで歩く男女達がいた。男と女が二人仲良く並んで歩いていれば、その二人の関係は容易に予想が付く。いったいこのすれ違う何人が、私達の関係に気付くだろう。間違いない、きっと誰も気付くことはない。ふとそう思うと少しの悔しさがこみ上げてきた。茜の腕にそっと自分の腕を通す。隣の「彼女」は驚いて目を丸くするが、決して私の腕を払おうとはしなかった。耳まで赤くしながら歩く茜の姿が妙に愛くるしく、私は先ほどよりも更に自分の体を彼女に近づける、こうなると周りの視線も少し変わりだしていた。異常とみなされるこの同姓の距離に、周囲で歩く人々の視線がチラチラとこちらを見る。茜の横顔を見ると、真っ赤だった耳は元に戻り、いつの間にか視線は下を見ていた。そこに笑顔は無く、ただ悲しそうに地面を見ながら歩を進めている。私は彼女のこの表情を知っている。蝉の鳴き声、窓からの刺さるような日差し、そして黒板に大きく書かれた文字を思い出す。
「岸と今井はレズビアン」
私達二人が高校三年生の頃、二人で朝登校し教室に入ったら、皆の様子が普段とは違っていた。黒板に書かれた文字を見て私は高校生にもなってつまらないことをする馬鹿もいたものだ、と、呆れた気持ちと共にため息を漏らした。私達二人は確かに仲が良かった、それこそ簡単な口論でも「夫婦喧嘩」と茶化された、二人してはしゃいでいると周りの友人からは「さっさと結婚しろ〜」などと友人達から笑いながら言われた。そのどれも友人としてのコミュニケーションの一つで、不快な気持ちなどまったく無かったし、発した友人達どの一人も悪意は無いはずだ。しかし、この黒板の文字は違う、この大きく書かれた文字には明らかな悪意があった。呆れながらも少しの怒りがこみ上げてきた私は乱暴に黒板の文字を消す、私のその背中からは明らかに怒りが見て取れたであろう。その怒りの矛先はこの文字を書いた犯人だけでなく、私達が現れるまで放置し続けた全ての友人達にも向けていた。黒板は普段通りの深い緑色一色に戻っていた、全てを消し終わると私は教壇から教室を見回した。皆が視線を逸らす、その為に生まれ教室に広がった思い空気を無視して私は茜に歩み寄った。彼女は少し俯き、私から彼女の表情を読み取ることが出来なかった。この高校生としての生活の中、私は彼女のことを理解していた。いや、理解していたつもりだった。彼女の性格は竹を割ったような子で、多少男っぽい所がある。小さなことをいちいち気にしない彼女は、その性格からかよく同姓から慕われていた。周りの男子ともよく口喧嘩もし、「男女」などと言われても、「それがどうした!」と一蹴した。今回もきっと直ぐに顔を上げて、あの元気な笑顔と共に
「文句があるなら面と向かって言え!肝っ玉の小さい奴だな!」
と豪快に言い放つのだろうと思った。しかし、彼女と目線が合ったとき、私は息を呑んだ。目尻に溜まった涙、それが次の瞬間彼女の頬を伝う。
「ごめんね。」
彼女が突然私に謝る。茜が体を反転させ教室から飛び出していく、私の体は動かなかった。いつも強気な彼女が泣いていた事、それに何故私に謝ったのか。きびすを返して走り去った彼女を追えず、私はただパニックに陥っていた。
その日の授業は全く見に入らなかった。担任の先生に相談しようかとも考えたのだが、私はどうも今朝のことを他人に話す気になれなかった。高校三年生の夏、受験生として過ごすこの時期に大きな波紋を立てることに抵抗があったのかも知れない。それ以上に、茜のあの表情と言葉が私の思考を幾度と無く止めた。結局この日の教室は異様な空気に包まれたまま終わった、担任の先生もこの異変に気付き、HRで少し皆に聞こうとしていたが、誰も何も答えなかった。あの場に居合わせた数人が私に視線を送るが、私自身も言葉を発することは無かった。帰りの電車、私はいつも降りる駅を乗り過ごし、茜の自宅へと向かった。駅から彼女の家までの道中で、彼女に何を言うべきか考えながら歩いたのだが、結局何一つ思いつくことなく彼女の家の玄関まで付いた。閑静な住宅街、その中に建つ一つの一軒家が彼女の家だ。携帯電話を取り出し、彼女にメールを送る。現地連絡とはなんとも脅迫的なやり方だったが、此処まで来て会わずに帰るわけには行かなかった。待ったのはほんの四〜五分程度だった、目の前の玄関が開いた。
「ゴメン!寝てた!」
朝あった事がまるで無かったことのように、扉から姿を現した茜はいつもの元気な笑顔を私に見せていた。
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