「なあ?」
髭のヒットラーがぶくらぶくら泡の出るドブ川に目をやりながら、俺に話しかける。 あくびをして、背中をねじって曲げて、さらには反ったりしている。 また竿を持っていない片方の腕をうんと伸ばしたり縮めたりして、ぽきぽきと肘を鳴らしてみたりする。
朝日のまだ柔らかいうちに釣りでもしなければ、この不景気飯にもありつけない。 町中では会社を辞めちまったというだけで深くも考えず物盗りになる者もいるそうだ。 もっともそんな見聞もホームレスには関係ない。
いましがた話しかけてきたこの男は、いちおう友人で、鼻の下にちょび髭で、少し目が弱いところがある。 前歯が欠けていて、それが愛嬌を前面に押し出している。 陽が高いときや、めんとう向かって日光が打ってくるときには、びしっと掌をつき伸ばし目を陰る。 「まるでヒットラーみたいだな」仲間内がからかうと「おめえ、ヒットラーじゃねえ。 ヒトラーだ」と毎度々、鼻をふくらます。 それが面白いから皆余計からかって、つい近頃には本人もヒットラーでいいと覚悟を決めたように見える。 近頃はずっとヒットラーに、友人としては一応”敬称”の髭をつけて、そのように他人との話では登場させる。
「今日、神様の力ってやつをよぉ。 見せて回っているヤツがこの街に来るんだとさ」
「お前、聞いてねえだろ。ったく」髭のため息が前歯の隙間から漏れると同時に髭の餌が水面を踊る。
おれは髭の後ろで糸のどうとか、針の先の虫がどうだったかと、面食らいながら小手先八分、耳二分で聞き流す。 どうも釣りは好かない。
「聞いてるさ、はいはい、神様の力ってえあれだろ? お婆やお爺の痛いところさすってさ、何だのかんだの言って、南無南無だか法蓮ソウレンだか言って金取るヤツだろ?すえ坊が騒いでたよ」 ――仕掛けの糸が指先に絡まって虫が親指と人差し指の間を這う。
「うわっ、何だこん畜生!あーあ嫌だねー。 腹が減っても戦をしないといけないのが野宿愛好家の悲しい定めってやつですかねえ」
「野宿愛好家ってえのはまた上手いこと言うなあ。 口と同じくれえにお宅さんの竿が器用になってくれたら、晩の飯もあるんだがねえ」えへへと歯抜けの顔がしわくちゃに笑う。
嫌みも立派だが釣りの腕も立派だ。ぐうの音も出ない。 朝まずめの時間、風が冷たく川岸をまわる。 釣りを始めた頃から幾分か時間が過ぎた。 川の土手からは自転車が砂利を蹴る音がする。 新聞配達の時分だろうか。 また、風に乗って汽船の音がする。 鳥の子が親に餌をねだる声がする。
髭8分に、俺2分。 二人であわせて一人前の釣りに真剣になってからやや時間が過ぎる。 背中を丸めた髭のヒットラーがたばこのシケに火をつけながら口を半分だけ開く。
「なあ?」火は風があって苦労する。
「ああ」先ほどやっと水中に入れた今晩の飯の種をぶらぶら動かして耳だけ髭に傾ける。
「町に来る神様ってやつは、まあどうでもええがよ。 本当の神様にこう聞かれんだ。 この先が見えるほうがええか、それよかよ、昔にもどれるほうがええか?」
髭はヒトラーよろしく掌を使って目の寸前のところで日を避けながら振り向いて質問する。 土手の上から、おおむね中学くらいの子らの声がする。
「そりゃあおめえ……。いや今さらどうもならん。昔、昔ねえ……」おれは糸を引きたぐりながら、川面のような緑のため息を漏らした。 すぐさま問い返す。
「太公望のお髭さんは、どうしますかねえ」出来損ないの竿先で水を遊ぶ。
「わしはきまっちょる。昔にもどるにきまっちょる。昔にもどってな、あいつらとやり直してな。 ……もっとたくさん釣れるところで釣りでもできりゃ……な」
髭に似合わず小さな息を吐いてまた背中を丸めた。
「その時が来るように神様に祈っといてやるわ」丸まった髭に向かって、常日頃の髭の声より大にして言ってやった。
「殺生すると神様も怒るにきまっとるから、魚はやめといてやる」と釣りに負けじと付け足した。
土手はもう学生の行列で、高い声が時々に飛んでくる。 川岸をまわっていた風は止んでいる。 汽笛が重なって響く。 砂利の音はない。 鳥の子もいない。
餌があるか気になるがつけ直すのにあの手間かと、這う虫を思い出す。 髭のためだ。 殺生は良くない。 すえ坊に貰ったシケに火をつけたら、髭の竿先が水に沈んでぽちゃんと響かせた。
日が高くなって髭の笑顔が輝いた。
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