ミドリは慌てていた。 もう家を出ないと待ち合わせに遅れてしまうというのに、どうしてもネックレスが見つからないのだ。いつもしまっている抽斗の中には見あたらなかった。ミドリの記憶では、前にそのネックレスをつけたのは、確か1カ月前の日曜日、友人の結婚式に招待されたときだと思う。久しぶりに短大時代の友達に会い、大いに盛り上がり、調子に乗って二次会、三次会とつき合って、帰宅したときにはかなり酔っていた。着替えをしたときにネックレスも外し、どこかにしまった記憶はあるのだが、それがどこなのか、まるで思い出せないのだった。 仕方がない。今日はネックレスをつけないで行こうか。 ミドリは鏡の前に立った。自然に手が動いて、首の辺りを擦ってしまう。やっぱり、この服にはネックレスをしないと首周りが淋しい。この服に似合うのは、小さなダイヤが3つ連なった、あのネックレスしかない。それが見つからないとなると、いっそ別の服に着替えたほうがいいのかもしれない。 時間がないっていうのに・・・。 ミドリは舌打ちした。初めてのデートなのだから遅れるわけにはいかない。けれど、納得のいかない姿でデートに向かうなんて、女に出来るわけがない。これが、何度かデートを重ねた相手なら、ミドリは平気で遅刻もしただろう。第一、ネックレス一つにこんなに拘ったりはしなかったはずだ。 同じ人といつまでも緊張感を持ってつき合うということが、ミドリは苦手だった。こんなことを言ったら相手は何て思うだろう・・・なんて考えるのは、せいぜい最初のデートのときまでで、二度三度と会う頃にはもう、平気で思ったことを言ってしまう。自分のだらしない部分も、わりと早めに相手に見せてしまうほうだった。それで、相手と合わないと思えば、つき合いはすぐに終わってしまう。いつまでも腹の探り合いをするのは厭なのだ。実にさっぱりとしたものである。 けれど、最初のデートはやはり大切にしたいと思う。最初からデートに遅れるのは、ミドリも厭だった。ましてや、今日のデートの相手である佐々木健一のことを、ミドリはまだ何も知らないのだ。
ミドリがそれを運ばなければならなくなったのは、ミドリ自身の不注意からだった。 ミドリの会社はお酒を扱っていて、それを飲食店や酒屋に卸している。ミドリを含め4人の事務員が発注を受け、伝票を作り、それを配送係が納品する。会社の男たちのほとんどは営業に出てしまうため、日中はミドリたち事務員が会社にいるだけだった。
電話を受けたのはミドリだった。 その酒屋はいつも同じ時間に同じものを注文してくる。だから、特別に頼まれたワイン1ケースのことを聞き流してしまった。メモしたつもりで、伝票には書き込まなかったのだ。 文句の電話がかかってきたのは注文を受けた次の日の午後だった。そのワインはお客から頼まれたもので、どうしても今日中に届けて欲しいと言われた。配送係が全員出払ってしまっている今、ミドリがそれを届けなければならなくなったのだ。 免許は持っているものの、車を持っていないミドリは久しぶりにハンドルを握った。平日の都内の道を走らなければならないのは、考えただけで恐ろしいことだったが、幸いなことに道は混んでおらず、ミドリは何とか約束の時間前にその酒屋に着くことができた。店の前に車を停め、後部座席からワインの6本入ったダンボールを運び出す。これがなかなかの重さだった。ようやく抱えてよろよろと歩き出したとき、いきなり手を貸してくれる人がいた。 一瞬、この店の店員なのかと思ったが、きちんとスーツを着込んだその男性は、どうやらただの通りすがりのようだった。 「あ、大丈夫です」 ミドリは慌ててそう言った。 「手、離していいよ」 「えっ?」 「これ、運べばいいんでしょ?僕一人で大丈夫だから、手、離して」 ミドリは少し躊躇したが、結局、手を離してしまった。すると、男はその場でダンボールを抱え直し、すたすたと店の中へ入って行った。ミドリも急いでその後に続く。 1ケースのワインを運ぶのに二人も出向いてきたことを、店の主人はちょっと驚いたようだった。ミドリはとにかく謝った。自分の不注意で申し訳ありませんと、何度も頭を下げた。すると、横にいた彼も合わせて一緒に頭を下げてくれた。それで、その場はとくに文句を言われることもなく、ご苦労様と言われて無事済んだのである。 外に出ると、ミドリは彼に心からお礼を述べた。もし、ミドリは一人だったら、少しくらいは嫌味を言われたかもしれない。何しろ電話ではかなり怒っていたのだ。けれど、彼がきちんとした格好をしてくれていたお陰で、店の主人は、会社からわざわざ謝罪のために人が出向いて来たと思ったようだった。 本当に助かった。 ミドリは簡単な自己紹介のあと、再び頭を下げた。そして、まずは喉でも潤してもらおうと、近くの喫茶店に誘ったのだ。 彼は少し考えたあと、今日は時間がないので、もし良かったら今度の日曜日に食事に行きませんか、と言ってきた。そして、1枚の名刺をミドリに差し出した。 佐々木健一 ミドリは名刺の名前を確認すると、その誘いを迷いもなく受けた。二人はその場で待ち合わせの時間と場所を決め、都合が悪くなったときはお互いの会社に連絡するということで別れたのだった。
そんな成り行きで、ミドリは佐々木とデートすることになったのである。よく知らない人とこんなに簡単に約束をしてしまうのは、本来ならあまり良いことではないと思う。ミドリだって、普通はもっと警戒する。道で声を掛けられても簡単について行ったりはしないし、名前だって教えたりはしない。けれど、何故か佐々木は大丈夫な気がした。家に帰ってからもう一度考えてみたが、不安になったり後悔するような気分にはならなかった。ちょっと危ないぞと思う人は、大抵理由もなく笑っている。何故、この人はこんなにニコニコと笑っているのだろうと思うと、ミドリはそれだけで、その人を信用できなくなる。けれど、佐々木にはそういう不必要な笑顔はなかった。話をしたのはほんの十分ほどだったが、そのときの彼には、まるで仕事の話でもしているような真面目さがあった。かといって、とっつきにくいわけでもなく、悪い感じはしなかった。佐々木はとても誠実な印象をミドリに与えたのだった。 佐々木の仕事はアクセサリーの企画販売で、今から取引先との打ち合わせがあるのだと、そのとき話してくれた。ということは、アクセサリーには目が肥えているということである。 やっぱり、あのネックレスじゃなくちゃ・・・ ミドリはもう一度抽斗の中を引っ掻き回した。そのとき、一枚のレポート用紙がふと目に留まった。ミドリは何気なくその紙を手に取ると、四つ折りになったものを広げてみた。 それは、1階の住人からきた手紙だった。もう、半年も前のことである。手紙の内容は、2階の音に迷惑しているので静かにして欲しいというものだった。ミドリはこのアパートに住んで四年になるが、こんな風に苦情を言われたのは初めてのことだった。だから、とても驚いた。そして、ちょっと納得ができなかった。相手の言い分に、素直に申し訳ないという気持ちにはならなかったのである。 ミドリはその手紙の返事を書いて、夜中にこっそりと階下のポストに入れに行った。すると暫くして、またしても1階の住人から手紙がきた。しかし、その手紙にも納得できなくて、ミドリはまた返事を出した。そうやって何度となく、1階住人とミドリは手紙のやり取りをしたのだった。 アパートは1階と2階に各四世帯ずつ、どの部屋も独身者向けのワンルームになっている。表向きは女性が好みそうな、白壁に出窓をあしらった可愛らしいデザインで、アパートの名前もルミエールなどと、どこか外国風の名前がついている。周りにも似たようなアパートが多く、こういう場所では珍しくもないだろうが、ミドリは他の部屋にどんな人が住んでいるのかを全く知らなかった。みんなそれぞれ普通に生活しているのだから、何処かで顔を合わせてもよさそうなものだが、何故か今まで誰とも会うことがなかった。出勤時間や帰宅時間でも、アパートはいつもひっそりしている。そして、そんな関係だからこそ、何かを伝えなければならなくなったときには非常に困ることになる。直接その部屋に出向いて行ってインターフォンを押すのは、かなり勇気がいることである。やはり、手紙を書いてこっそりポストにいれるくらいしか方法が見つからないのだった。 ミドリは1階住人からきた手紙を全て捨てたと思っていた。ミドリ自身も、自分がどんな手紙を書いたのか、細かい部分は忘れてしまっていた。けれど、抽斗から出てきた1枚のレポート用紙を見たとき、ミドリの中で厭な記憶が呼び覚まされた。それは、次のような手紙から始まり、続いていったのであった。
二階のかたへ
突然申し訳ございません。
下の階に住んでいる者が、夜中の音に大変困っております。 ときどき、とても大きな音がして酷く天井に響くのです。
こんなことを言うのは失礼かと思いますが、二階に住んでいるということを考えてくださるよう、お願いいたします。 できましたら、絨毯を敷いていただきたいのですが・・・。
一階住人より
一階のかたへ
お手紙拝見いたしました。 おっしゃっていることは理解いたしました。
しかし、私は特別に大きな音をたてている積もりはありません。 ですから、具体的に何に注意したらよいのか、正直よく分からないのです。 つきましては、もう少し音のする状況について詳しく教えていただけないでしょうか。 おそらく、部屋の間取りは同じだと思います。 その、どの辺りが響くのでしょうか。 それは、どのような音でしょうか。 足音ですか?
それらを詳しくお聞きした上で、よく考えたいと思うのです。
確かに大家さんからも以前、厚めの絨毯を敷くよう言われたことがありました。 しかし、はっきり言いましてその絨毯は私には必要ないものです。もし絨毯を買ったとすれば、そのお金はどなたが支払って下さるのでしょうか。 契約の際も、絨毯を敷かなければならないとは言われておりません。 フローリングであること、二階であることを条件に部屋を決め、家賃を払っているのです。
だからといって、文句を言われる覚えはないなどと思っているわけではありません。 注意して何とかなる音ならば、心がけたいと思っております。 勝手をいって申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。
二階住人より
二階のかたへ
音の響き方を詳しく知りたいということで、それについて説明したいと思います。 二階の部屋を拝見したことはないのですが、おそらく一階と同じ間取りでしょう。 そうじゃないと、これからする説明も全く意味がなくなります。ですから、もし読んでいて分からないところがありましたら、それは後で教えて下さい。
まず、音の種類ですが、確かに足音もかなり響きます。 しかしそれよりも問題なのは、どうしたらそのような音が出るのか、全く想像できない音があるということです。 そして、原因の分からないその音は二種類あるのです。
一つは、何か硬いもので床を叩いているような、いや、叩くという表現は少し違うかもしれません。重いものを履いて床を蹴っているような、ガツンガツンガツンという感じの音です。 そしてもう一つは、何か一点に徐々に重さがかかっていくような、ミシミシミシッという、そこから天井が抜けるんじゃないかと思うような音なのです。
いったい、どんなことをすればあんな音がたてられるのでしょう。 多分、それが分からないからこそ不安になり、また、わざとそんな音をたてているのではないかと不快にもなるのだと思います。
しかし、何をやっているかなんて僕が知る必要はありません。 ただ、なるべく静かに生活していただきたいだけなのです。
話を元に戻します。 その二種類の音は、それぞれ違う場所から響いてきます。 玄関を入ると、廊下を挟むように右手に二畳のミニキッチン、左手にはユニットバスがありますね。そして、廊下の奥に八畳の部屋があります。その八畳の部屋に入ってすぐ右側の天井から、ガツンガツンという音がします。僕はここに勉強机を置いています。 ですから、勉強していると突然ガツンガツンと、自分の頭が割れるんじゃないかと思うような音が鳴り響きます。 そしてもう一つの音ですが、それは突き当りの窓の左側の壁の上辺り。僕はそこにベッドを置いています。気持ちよく寝ていると、急にミシミシッと、何かが上から落ちてくるんじゃないかと飛び起きたりするのです。
はっきり言って苦痛です。 もう、耐えられません。 あなたの手紙を読んでいると、一階に住んでいるのだから多少の音は我慢しろと言っているような気がしてなりません。しかし、我慢の限界を超えたからこそお願いしているのです。 確かにあなたは僕よりも高い家賃を払って二階に住んでいます。 でも、だからといって僕だけが一方的に我慢しなければならないというのはおかしいと思います。 二階に住んでいる以上、階下に住む人のことも絶対に考えるべきなのです。
こんな言い方は本当に失礼だと思うのですが、社会人として、ぜひ考えていただきたいと思います。
一階住人より
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