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作品名:泣かないキツネ 作者:スチン

第9回   9



 あれから1週間、僕はずっと予備校を休んでいる。
 秋生に会いたくなかった。
 会えなかった。

 僕はずっと考えていた。あのとき、何が起こったのかを。
 結衣子は最初、何の抵抗もしなかった。だから、僕を受け入れてくれていると思っていた。それが、突然人が変わったように拒絶した。僕は決して乱暴なことはしなかったと思う。では、何か傷つけることを言ってしまっただろうか。あのとき、僕はどんな失敗をおかしたのだろう。
 いや、そもそも結衣子を抱こうとしたことが、僕の間違いなのだろう。秋生に負けたくない思いと、結衣子を奪いたい思いが、あのときの僕には確かにあった。僕は自分が結衣子のことをどう思っているのか、分からなかった。強く惹かれていることは分かるが、それは、好きということなのだろうか。
 僕はベッドに寝転がりながら、同じことを何度も思い出していた。ベッドを背もたれにして、和美が洗濯ものを畳んでくれている。僕の家には洗濯機がないので、さっきコインランドリーに行って洗濯をしてきてくれたのだ。
「集中して勉強してきたから、少し疲れがでたのよ」
 和美はそう言って僕を心配してくれる。最近の僕の不機嫌や食欲のなさは、全て勉強のしすぎだと思っているようだった。僕は和美に結衣子とのことを言えないでいた。話さなければとは思っても、何て切り出していいのか分からなかった。僕は和美を嫌いになったわけではない。だからこそ、傷つけることが辛かった。だからといって何も言わずに、前と同じようにはつき合えなかった。僕は結衣子のことが好きなのかどうかが分からないのだ。それは、和美のことを好きなのかどうかが分からないのと同じことだった。
 突然インターフォンが鳴り、僕は反射的に起き上がった。立ち上がった和美を制して軽く返事をすると、僕は玄関に立ちドアノブを回した。
「秋生、どうしたんだよ」
 そこに立っていたのは秋生だった。僕はその途端、酷く動揺してしまった。それを無理に落ち着かせるためにも、僕は何か話しかけなければと焦った。
「よく、うちが分かったな」
「岡崎くんだっけ。彼に教えてもらったんだ。ずっと予備校休んでるね」
 岡崎のことを忘れていた。予備校に結衣子が来たことを、あいつは秋生に話しただろうか。僕は不安に思いながらも、何でもないように答えた。
「ああ、ちょっと体調が悪くて。それで来てくれたの?」
「うん、それもあるけど・・・実は、結衣子がいなくなったんだ」
「いなくなったって、どういうこと?」
 僕は自分の心臓がすごい速さで動きだすのが分かった。ドクンドクンという音が、耳の中で響き渡っている。
「最近、顔を見せないから、叔父さんに訊いてアパートに行ってみたんだ。そうしたら、もう引っ越したあとだった」
 僕は言葉が出なかった。やっぱり、あの日のことが原因なんだろうか。
「一樹、彼女と何かあった?」
 秋生が僕を見つめている。こんな風に真っ直ぐ見つめられることなど今まで一度もなかった。秋生の目は、いつも眩しそうに伏せられる、あの優しい目ではなかった。僕は秋生の存在というものを、今初めてしっかりと感じたような気がした。
「僕は結衣子の名前を一度も口にしたことがなかった。でも、一樹は知っていたね」
 もう隠せないと僕は思った。秋生は、僕と結衣子の間に何かあったことを知っている。
「ごめん、秋生。彼女と会った。ここに来たんだ。それで、話を聞いた。でも、それだけだよ。結局は何もなかったんだ。それ以上は何もなかったんだ」
 話すうちに、僕はどんどん焦ってきた。何もなかったと、何度も繰り返していた。そんな僕を、秋生は黙って見つめている。その茶色の目は、どこか遠くを見ているようだった。
「秋生とのことも聞いたよ。でも、もう引きずるのは止めたほうがいいと思った。秋生のことも解放してあげろって言った。それで、何となく、本当に何となく、キスしちゃったんだよ。そのときは、彼女も別に厭がってなかった。でも、よく分からないんだけど、何故か手を握ったら、そうしたら、すごく興奮して、それで出ていったんだ。うん、今思い出すと、そんな感じだった。僕にもよく分からないんだよ」
 僕は自分自身でも整理するように、思い出したことを話した。結衣子はいつも突然で、突拍子もなくて、何を考えているのか分からない。そうだ、そうなんだ。
「何もないなんてこと、ないじゃない」
 秋生がぽつりと言った。
「一樹、本当に何もなかったと思っているの?本当に、何も分からない?感じない?」
 そう言われて、僕は少しずつ何かを感じ始めていた。彼女は単に思い出話を聞かせてくれていたわけではなかったのだ。彼女はもう一度、死ぬ機会を探していたのではなかったか。それを、僕はあっさり断った。そして、断ったにもかかわらず彼女を抱こうとした。僕が手を握ったとき、彼女はどう感じたのだろう。
「秋生がいるから生きていけるって、彼女は言っていた。それって、どういうことなんだろう」
 僕はふと、疑問に思っていたことを口にした。
 その途端、秋生の表情が変わった。それは、結衣子を好きなのかと僕が聞いたときの、あの挑むような顔だった。
「一樹には、分からないよ」
 そう言って、秋生は背中を向けた。その後ろ姿を見つめながら、僕は玄関に立ちつくしていた。もう、追いかけることもできない。秋生の言う通り、僕には人の気持ちなど分からないのだ。
 そして背後に気配を感じた。
 気がつくと、後ろに和美が立っている。和美は靴を履くと僕の横を通り過ぎ、ドアを大きく開いて表に出た。それから振り返ると、僕に鍵を投げつけた。投げつけられて当然だ。今の今まで、僕は和美の存在を忘れていた。本当なら、誰よりもまず先に、和美に話して謝るべきなのだ。それを、こんな風に聞かせてしまうなんて、僕は何て無神経なのだろう。そして、彼女もまた、秋生と同じ方向へと歩き出していた。僕の元から大切なものが次々と遠くに去っていく。それを、僕は止めることもできずに、ただ見つめるだけだった。
 部屋に戻ると、ベッドの足もとに畳まれた洗濯ものが目に留まった。それを見たとき、和美を酷く傷つけたということに、改めて気がついた。洗濯ものを仕舞おうと持ち上げたとき、そこから何かがぽろりと落ちた。床から拾い上げると、それは銀の指輪だった。僕は掌の上の指輪を暫く見つめていた。それから、勉強机の抽斗にそっと仕舞い込んだ。もう、この指輪が持ち主に返ることはないのだ。それだけは、はっきりと分かった。


 僕が予備校に戻ったのは、結局、それから1カ月も経った頃だった。
 そして、そのときにはもう秋生の姿は見えなくなっていた。
 窓際のいつもの席には知らない誰かが座っていた。岡崎も、他の誰に訊いても、秋生のことを知っている者はいなかった。
 僕は予備校の事務局に行って訊ねてみた。秋生は2週間前に予備校を辞めていた。小樽に帰ったのかと尋ねると、中年の女事務員は僕を胡散臭そうに見て言った。
「緊急連絡先は東京になってますから、ご両親は東京じゃないんですか。確かに本籍は小樽になってますけどね。今はそちらには誰もいないんじゃないかしら」
 それ以上のことは何も分からなかった。僕は秋生のアパートにも行ってみた。思った通り鍵はしまっていて、そこには人が住んでいる気配がなかった。居ないことは分かっていたが、僕は念のためアパートの裏側に廻ってみた。二階の物干しには形の歪んだハンガーがぶら下がったままだった。けれど、あのときの真白いタオルはもう掛かっていなかった。僕はそれを確認すると、そのまま家に帰った。

 予備校を休んだ1カ月の間、僕はずっと考え続けていた。
 もしも、もしもの話だが、仮に結衣子が中学生のとき以来、誰とも肉体関係を結んでいなかったとしたら、どうだろう。
 その場合、僕は二人目の男になるところだった。
 しかも、以前は死ぬ覚悟をしてからの行為だった。だから、彼女はどうでもいいことなのだと言っていた。けれど、今回は違う。僕は彼女を殺すことを拒否したのだ。だから、そのあとの行為はどうでもいいことにはならないだろう。いうなれば、彼女にとっては初めての行為と同じ意味があるのではないか。その相手が僕でいいはずがない。
 そして、あのとき手を握ろうとした僕を激しく拒絶したことも、何となくだが分かるような気がした。彼女は長い間、喘息のお母さんの手を握ってきた。その手を貸せないままお母さんが死んでしまったことに、彼女はやはり後悔があるのではないだろうか。彼女は父親のことを恨んではいないと言った。では、自分のことはどうなのだろう。自分のことは許せていたのだろうか。僕はそんなことにも気づかないまま、彼女の手を握ろうとしていた。手を握るという行為もまた、彼女にとっては特別のことなのだ。そして、手を握る相手は、やはり僕ではない。
 結衣子の悲しみをずっと傍で見てきたのは、秋生なのだ。結衣子の悲しみも悔しさも、秋生は秋生なりに受け止めてきたのだろう。それは、僕なんかには到底分かるはずがない。結衣子に洋服を買わされたり、勝手に家にあがっていたりするのは、あの二人だけの愛の確認なのではないか。結衣子は秋生を奴隷と言っていたが、そんな筈はない。秋生の家の玄関で膝を抱えて寝ていた彼女は、もっと優しく純粋だったのだ。

 僕はまた、登場人物の気持ちを読み間違えてしまった。
 いや、そうではないか。
 僕はいつも自分のことにしか興味がなかった。秋生の話を聞いているときも、結衣子の話を聞いているときも、僕は自分の気持ちばかりを優先して聞いていた。秋生の気持ちも、結衣子の気持ちも、分からなかったんじゃない。一度も分かろうとしなかったのだ。だから今も、こうして空想で思い返すしかない。結衣子が本当はどう思っていたのかを、僕はもう訊くことができない。もう二度と、理解できない。僕はその大切な時間を逃してしまったのだ。
 今の僕に分かるのはただ一つ。秋生にも、結衣子にも、そして和美にも、もう会うことはないのだろうということだけだった。



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アクセス: 2013