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作品名:泣かないキツネ 作者:スチン

第8回   8

 僕らは黙ったままだった。
 けれどもう、結衣子が僕の前を歩くことはなかった。僕らは初めて、肩を並べて歩いている。そう思うと、何だか結衣子との距離がグッと縮まったような気がした。
 結衣子の髪が揺れる度に、微かにシャンプーの香りがする。甘い、花の香り。さっきのライラックは、この香りが呼び起こしたのかもしれない。そんなことを考えながら、僕は結衣子のサンダルの音を気持ちの良いリズムとして聞いていた。僕に連れ添って歩くその音は、甘い音でありながら、僕にすごい力を与えてくれるような気がした。

 家に着くと、僕は直ぐにお湯を沸かしてコーヒーを淹れた。その間、結衣子は黙ってベッドに座り、部屋の中を見まわしていた。コーヒーカップを手渡すと、僕はガラステーブルを挟んで結衣子の向かいに座った。結衣子はカップを両手で包みこむように持ち、しばらくそのままでいた。それから一口飲むと、深く息をついた。今になって気づいたが、結衣子の服装は今の時刻には寒すぎる。僕は羽織るものを貸そうかと考えたが、適当なものが見つからなくて、結局そのままにしてしまった。そのかわり、暫く温まる時間を取るために、僕は黙ってコーヒーを味わうことにした。

 こんな風に、よく知らない女の子と二人きりでいることに、僕は不思議な気がしていた。
 今までの僕なら、恥ずかしくて何も喋れなくなってしまうところだった。誰かが間に入って調整役になってくれなければ、僕は自分から話しかけることなどできなかっただろう。けれど、何故か結衣子には平気で話しかけることができる。結衣子の存在はあまりに強烈で、僕は自分を意識することを忘れてしまう。結衣子のペースに巻き込まれるうちに、自分というものが分からなくなっていく。それが、何故だか心地よかった。
「秋生とはよく会ってるの?」
 ずっと訊きたかったことを、僕は訊いてみた。
「気が向いたときにはね。ねえ、この部屋は禁煙なの?」
「そんなことないけど、灰皿がないんだよ。待ってて、何か探してみるよ」
 僕は立ち上がった。
「いい、そんなに吸いたくもないから」
 結衣子はカップをテーブルに置くと立ち上がり、勉強机に向かうように椅子に座った。机の上の問題集をパラパラと捲り、何となく目を通すと、また元に戻した。そんな結衣子の様子を見ながら、僕はもう一度腰を下ろした。灰皿くらい用意しておけばよかったと思った。
「あたし、本当は死にたかったの」
 突然、結衣子がそんなことを言った。僕は驚いて彼女を見たが、彼女は僕のほうを見てはいなかった。結衣子は机にきちんと向かい、まるで今から勉強を始めようとするかのように、机に両手を乗せていた。思い切って、僕は訊ねた。
「秋生に、殺してくれって頼んだときのこと?」
 結衣子は一度、大きく肯いた。
「そう。死に方に拘らなければ、自分で死んじゃうこともできたんだけど、あたしね、お母さんがどれくらい苦しかったのか、どうしても知りたかったの。それにはどうしても、誰かに手伝ってもらわないと駄目なのよ。だから秋生を呼び出したの」
「それは、いつ頃のこと?」
「あたしが中学二年のとき」
「秋生は、手伝うって言ったの?」
「最初から殺してなんて言ったら、それは誰だって断るでしょ?だから、最初は言わなかった。最初にね、あたしの身体を好きなようにしていいから、後であたしのお願いを聞いて欲しいって言ったの」
 僕は驚いていた。それは、僕の顔にも出ていたと思う。好きなようにしていいとは、どういうことだ。つまり、そういうことだろう。
「秋生は、あたしを抱きたかっただけなのよ。それは、その年頃の男の子なら普通のことだもの。全然、不思議じゃないでしょ?だから、秋生は分かったって言ったの。あたしのお願いが何なのか知りたがったけど、それは終わったら教えるって言った。秋生は何も知らないまま、あたしを抱いたのよ」
「君は、そういう経験があったの?」
「ない。だけど、その後で死んじゃうんだから、もう怖いことなんてないでしょ?死ぬことだって怖いと思わなかったんだから、別に、どうってことないのよ」
 僕は、中学生の男子が、一つ年上の女の子を抱いている姿を想像してみた。その二人の顔が、徐々に秋生と結衣子に重なっていった。それは、すごく厭な気分だった。
「秋生が終わったら、今度はあたしのお願いを聞いてもらう番。あたしは裸のまま、秋生をお風呂場まで連れて行ったの。それから、湯船に水をいっぱい溜めて、秋生に言ったの。あたしがここに顔をつけるから、そうしたら頭を押さえつけてって。どんなに苦しがっても、絶対に手を離さないでって」
「秋生は、やるって言ったの?」
「嫌がったけど、でも、あたしのお願いは絶対に聞くって言ったんだもん。だから、無理やりやらせたの。だって、約束なんだから」
 結衣子は何故、秋生を選んだのだろう。秋生だったら、自分の思う通りになると思ったのだろうか。秋生しか、頼める人がいなかったのだろうか。結衣子は、秋生をどう思っているのだろうか。結衣子の話を聞きながら、僕はそんなことを考えていた。
「それから、あたしは顔を浸けたの。秋生の手が頭を押さえるのが分かって、あたしは安心した。それからどれくらい経ったか分からないけれど、あたしはだんだん苦しくなってきて、思わず顔を上げそうになった。でも、秋生の手が押えてて、右にも左にも顔を向けられなくて、バタバタしているうちに随分水を飲んじゃった。そうしたら、急に身体から力が抜けていって、身体の中が全部水で満たされたような気がした。あっ、ここからなんだって思った。今、あたしは死に向かってる。もっと苦しんだら、お母さんの気持ちが分かる。もっともっと苦しんだら、お母さんに近づける。そう思ったときに、秋生が手を離しちゃったのよ」
 結衣子は、参っちゃったわというように肩をすぼめた。
「あたしはそれから暫く咳き込んでた。水もだいぶ吐いたりした。それから、秋生を怒ったの。なんで離したのって、突き飛ばしてやった。でも、秋生は泣いていたの。泣きながら、できないよって。好きだから、できないって。そう言って、泣いてた。あのときの秋生の肩、すごく細かったな」
 結衣子は机に肘をついて、組んだ手の上に顎を乗せていた。そのときのことを思い出すように、視線は何処か遠くを見つめていた。僕は胸が苦しくて仕方がなかった。苦しみの原因は分かっている。僕は、秋生に嫉妬している。結衣子に選ばれた秋生に、嫉妬しているのだ。
「人に好かれるのって煩わしいなって思ったのは、そのときよ。だって、秋生があたしを好きじゃなければ、あたしはもう少しで死ぬときのお母さんを知ることができたはずだもの。誰の手も握れずに、お母さんは一人で死んじゃった。それがどんな感じなのか、あたしは知りたかった。お母さんがそのとき何を思っていたのか、本当に知りたかったのに・・・」
 結衣子は僕を見て少し微笑んだ。
「それから秋生はあたしの奴隷になったの。何でも言うことを聞いてくれるようになった。あたしを殺すこと以外はね」
 冗談でも言うように、結衣子はくすりと笑った。
「今でも君は、お母さんの最後の気持ち、知りたいと思う?」
「そりゃあ、分かるなら知りたいけど。でも、無理でしょ?あたしは喘息でもないし、娘がいるわけでもない。お母さんとは違う人間なんだもの、気持ちを知ることなんてできない。例え、あたしが死んでも、やっぱりお母さんの気持ちは分からないと思う。でもね、中学生のあたしは、分かると思ってた。そう、信じてた。だから、あのときなら、知ることができたかもしれない。理屈じゃないの。頭で考えることじゃないの。信じて、感じるものなの。今はもう駄目。頭の何処かで、分かるわけないって思ってるから。あのときが、最後のチャンスだったの。あたしは、最後のチャンスに失敗してしまったのよ」
 結衣子の肩が微かに震えていた。泣いているのかと思ったが、そうではなかった。何か、強い衝動を必死で抑え込もうとするように、結衣子は耐えている。僕はまた心が痛くなった。目の前にいる彼女は、僕の知っている結衣子ではない。僕の前を歩き、挑発するような言葉を吐く今までの結衣子とは違う。何だか、弱くて悲しい・・・。
 僕は結衣子の背中に立ち、その細い肩を後ろからそっと抱いた。そして、椅子ごと身体を回転させると、僕は結衣子に口づけた。結衣子は少し不思議そうな表情を浮かべた。その頬に、口に、眉に、僕は何度も口づけた。
「だから秋生を許せないの?」
 僕は問いかけた。
「そんなんじゃない」
 結衣子は僕を真っ直ぐ見つめた。
「秋生がいるから、あたしは生きていられるの」
 その言葉で、僕の中に急激に怒りがわいてきた。結衣子の気持ちが理解できない。結局、何だというのだろう。秋生と結衣子。二人で僕を振りまわし、からかっているのだろうか。
 僕は立ち上がると、結衣子の腕を掴んでベッドに押し倒した。その上に馬乗りになり、結衣子の顔を上から見つめた。結衣子は声も出さず、僕を見上げている。
「秋生がいなくても、君は生きていけるだろ。お母さんだって、そう生きて欲しいはずだよ。これから先、もっともっと楽しいことがあるんだから、いつまでも引きずるなよ!秋生のことも、もう解放してやれよ!」
 僕は自分の着ていたシャツを脱ぎ捨てると、結衣子に覆いかぶさっていった。その唇に触れるため、結衣子の小さな顔をしっかりと押さえた。結衣子は僕にされるがまま、ただじっとしていた。僕の唇が離れたとき、結衣子はぽつりと言った。
「あたしを、殺してくれるの?」
 僕は一瞬、言葉を飲み込んだ。けれど、すぐに答えた。
「殺さない。でも、奴隷にもならない」
 僕は秋生のようにはならない。そう思っていた。秋生よりも、結衣子と近くなりたい。秋生から結衣子を奪いたい。僕は結衣子の細い首に口を這わせながら、結衣子の手を掴んだ。指を絡めようとしっかり掴んだとき、結衣子が突然大きな声をだした。
「やめて!離して!」
 僕は驚いて身体を起こし、結衣子の顔を覗き込んだ。結衣子は口を半分開いたまま、驚いたように目を見開いている。その右目から一筋の涙が流れ落ちた。僕は慌ててそれを拭おうとした。それを払いのけるように、結衣子がすごい力で僕を押しのける。それからゆっくり立ち上がると、結衣子は乱れた服を直し、そのまま玄関から出ていった。僕は何が起こったのか分からないまま、ただぼんやりと、ベッドに残る結衣子の温もりを感じていた。そうしているうちに、何故だかとても悲しくなってきた。僕は自分では思いもしなかったほどの大きなものを、今夜、失くしてしまったようだった。布団から、微かに結衣子のシャンプーの香りがしていた。けれど、それはもう、甘いライラックの香りなんかではなくなっていた。



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アクセス: 2013