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作品名:泣かないキツネ 作者:スチン

第7回   7

 八月も後半になると、すっかり涼しくなっていた。
 夏は何処かの箪笥の中に仕舞い込まれ、これからほんの少しだけ秋の出番となる。

 あれから、結衣子は姿を見せなかった。
 それは、僕をとても安心させた。秋生には結局、喫茶店でのことは話さなかった。それを話したら、その前に秋生の家で結衣子と話したことも言わなければならない。それは何だかすごく大変なことのような気がしていた。僕はもう、結衣子とは関わらないようにしようと思った。そうすれば、これ以上秋生に隠し事をすることもないだろう。
 和美はあの後、暫く冷たかった。僕が結衣子に好意を持っているんじゃないかと和美は疑った。僕がそれなりの好意を見せなければ、結衣子が自分を好きなんじゃないかと僕に尋ねるようなことにはならないというのが、和美の意見だった。けれど、僕は結衣子に対して思わせぶりな態度を取ったことなどない。好きだと誤解されるようなことを言った積もりもない。全くない。態度や言葉に出さなかっただけではなく、僕には結衣子を好きだという気持ちがない。それは本当だ。
 それは、言ってみれば好奇心だ。僕は秋生と結衣子の関係に興味を持っただけなのだ。だから、そう和美にも説明した。それが本心だったので、言い訳をしている気にはならなかった。和美も分かってくれたようで、何日か経つと、僕らの関係は元に戻った。
 僕はもう、二度と和美とこんな風に気まずくなるのはご免だった。だって、僕も和美も何も悪いことはしていない。全部、結衣子のせいなのだ。だから、もう二度と結衣子とは関わらないことにしよう。僕はそう決めて、このことはもう考えないことにした。
 
 午後の講義が終わっても、僕は暫く一人で教室に残っていた。この後、この教室を使う講義はないはずだから、少し勉強するのに使わせて貰おうと思っていた。しかし、どうしてか集中できずにいた。気づくと窓の外をぼんやり見ていたり、意味のない図形を何個もノートに書き連ねたりしている。実を言うと、講義を受けているときからこんな感じだった。不味いな、と僕は焦った。
 僕は、今度は意識的に窓の外に目をやった。
 秋生は午前の講義が終わると、いつも通りに帰ってしまった。秋生がいなくなると、僕は何故だかほっとした。僕は秋生と一緒にいる間、ずっと落ち着かなかった。秋生に、結衣子のことを何度も訊きそうになるのだ。あれから秋生は結衣子に会っただろうか。おそらく、会っているだろう。結衣子は、僕のことを何か言ってなかっただろうか。
 僕は結衣子と関わらないようにしようと決めたはずなのに、その半面、結衣子のことを知りたがっている自分が怖くなった。結衣子を知りたいと思うことは、出口のない、ぐちゃぐちゃした迷路の中に足を踏み入れるような感じがした。けれど、僕にはそんなところに足を踏み入れる勇気はない。だから、僕は結衣子のことなど考えてはいけないのだ。僕は2,3度頭を振ると、何も考えないよう軽く目を閉じた。それから目を開くと、勉強することも諦めて、力なく荷物を纏めると立ち上がった。

 教室を出て階段までやって来ると、その手摺りに寄りかかるようにして下を覗き込む数人の男たちが目に留まった。そのうちの一人が僕に声をかけてきた。同じ高校だった岡崎という男だ。僕は彼らのほうへ近づいていった。
「三村、ここから下を見てみろよ。ブラが丸見え。胸の形も分かるぞ」
 そう言って、岡崎は手摺りに上半身を乗せると、下を覗き込んだ。それで、僕もその横に立ち、同じように前屈みで見下ろしてみた。確かに、最上階のこの手摺りから見下ろすと、1階から2階へ、2階から3階へと、上がって来る女の子の胸元が少しだけ見える。女の子の着ている服によっては、胸の谷間がしっかり覗けるときもあった。
 彼らはそれを独自に採点しながら、ああだこうだと騒いでいた。胸の大きさと同時に美人度も採点しているようで、胸のほうはAよりCが、顔のほうはCよりAが高得点らしく、僕はそんなやりとりを聞きながら、何だか分かりにくいなと、ぼんやり考えていた。僕はずっと下に目線をやってはいたが、女の子の下着が見えるということを、それほど嬉しいとは思っていなかった。そして、それは岡崎たちも同じだろうと思った。彼らも本気でこんなことを楽しんでいるわけではない。ただ、受験生らしからぬことで、今の自分を忘れたいだけなのだ。少しの気分転換である。それがよく分かるので、僕は彼らを否定することもなく、ただぼんやりと1階を見下ろしていた。丁度、一人の子が階段を上って来た。白地に紺の水玉のノースリーブのワンピースの隙間から、真白な胸の谷間が見える。その山を隠すように、白いレースが覆っているのがしっかりと見えた。彼女が踊り場を曲がり、こちらを正面にして上ってきたとき、それが結衣子だということに僕は気がついた。僕は咄嗟に手摺りを離れると、階段を駆け降りた。上がって来た結衣子の腕を掴むと、そのまま1階へと引きずるように降りていった。上のほうから、僕らを冷やかす声が聞こえた。
「スペシャルA!」と誰かが言ったようだった。その声を断ち切るように、僕は立ち止まることなく、結衣子を予備校の外へと連れ出した。

 表に出たところで、僕はようやく結衣子の腕を離した。
「何なのよ、いったい」
 結衣子は僕が掴んでいた場所を擦りながら、とがった声を出した。そこは真っ赤になっていて、僕は自分がかなり力を入れていたことに気がついた。けれど、それを謝ることもなく、僕は強い口調で言った。
「どうしてそんな格好でこんなところに来るんだよ。自分がどんな風に見られているのか、分かってるのか?」
「分からない。教えてよ」
 結衣子はそう言って、少し微笑んだ。その顔は、確かにスペシャルAだった。
「秋生なら、もう帰ったよ」
 僕は結衣子を可愛いと思ったことを打ち消すように、わざと冷たくそう言った。結衣子はほんの少し考えるような素振りを見せたが、直ぐに何かを決めたように僕を見た。
「あたし、ビールが飲みたいのよ」
 宣言するようにそう言うと、くるりと背を向けて歩き出した。僕は慌ててその後を追った。心の何処かでは、「着いて行くな!」と警笛が鳴っていた。でも、着いて行かずにはいられなかった。僕は結衣子の後を追いながら、自分が今、幾らぐらいお金を持っているか考えていた。そして、結衣子に奢ってやる気になっている自分が、ちょっと信じられなかった。

 結衣子はどんどん歩いていく。何処に向かっているのかは分からないが、相変わらず一度も僕を振り返ることはなかった。すすきのの辺りまで来ても、結衣子は脇道に入ることもなく、ひたすら駅前通りを真っ直ぐ南に向かって歩いていった。何処に行くつもりだろう。そう思ったときには、僕らはとうとう中島公園まで来ていた。結衣子はそこで歩調を緩めると、そのまま公園に入って行った。
 中島公園は地下鉄南北線の駅名にもなっている。札幌−大通り−すすきの−中島公園と続いていて、街中からも近いうえに敷地も広く、最古のホテルといわれる豊平館がこの場所に移転されていたりもする。六月の北海道神宮祭にはたくさんの露天が並び、夜遅くまで多くの人で賑わう。デートをするには最適の公園であるが、その公園の周りにはカップル目当てのホテルも多く、清々しさといかがわしさが共生する、何だか妙に落ち着かない場所でもある。まあ、そんな風にドギマギするのは、もしかしたら僕だけかもしれないが。

 夕方になろうかという時刻、公園にはほとんど人影がなかった。結衣子はベンチに腰掛けると、黙って目の前の大きな池を眺めていた。池の近くにはボート乗り場があり、日曜日などはカップルや親子連れのボートがあちこちに浮かんでいる。だが、今は全く見当たらず、この公園には僕たち以外いないのでは、と思うほどの淋しさだった。
「ここで飲むつもり?」
 僕が声を掛けても、結衣子は黙ったままだった。
「ちょっと待ってて」
 僕は大急ぎで今来た道を戻り、公園を出ると、近所をやみくもに走り回った。少し行った所に自販機が並んでいるのを見つけ、そこにビールがあるのを確認すると、僕はそれを2本買い、帰りは缶を振らないよう注意しながらすり足で走った。もしかしたら彼女はもういないかもしれない。それならそれでいいじゃないか。そう思いながらも、勝手に足が急いだ。どこかでこの状況を楽しんでいる自分がいることに、僕は不思議な感じがしていた。
 僕が戻ったとき、彼女はまだそこに座っていた。僕は彼女に缶ビールを渡すと、自分も彼女の横に腰を下ろし、プルトップを引き上げた。飲み口に泡が溢れてくるのを慌てて吸い上げて、僕はようやく喉を潤した。
「そんなに慌てなくてもよかったのに」
 結衣子がやっと口を開いた。「ありがとう」という言葉を期待した僕は、大バカ者だ。
「君は、急にいなくなるのがよっぽど好きみたいだからね」
 僕は悔し紛れにそう言った。まだ少し息が切れている。自分が酷く汗をかいていることに気づき、それが臭わないかと気になった。ハンカチで急いで拭う。
「この前一緒にいた子、あんたの彼女?」
 結衣子は池を見つめたままだ。
「そうだよ」
 素直にそう言えた。
「あの子、あたしのこと嫌いでしょ?」
 僕は結衣子のほうを見た。彼女は落ち着いていた。何だか、微笑んでいるようにも見える。優しい顔だった。
「あたし、人から好かれるやり方、知ってるのよ、本当は」
「今の君は、人から好かれないってこと?」
「当たり前じゃない」
 彼女は今度は本当に微笑んだ。
「そう思うなら、好かれるようにすればいいじゃないか。そのやり方は難しいの?」
「ううん、簡単よ」
「だったら、やればいいじゃないか。誰だって嫌われるよりは好かれたほうがいいだろ?」
「そうかな」
「そりゃそうだよ」
「人に好かれるのって、煩わしいもんじゃない?」
 そんなことを言う結衣子の気持ちが、僕には分からなかった。
「小さい頃は、あたし、みんなから好かれていたと思う。友達もたくさんいたし、人から嫌いって言われたことなんてなかった。もちろん、それは表面的なことで、内心はみんながどう思っていたか分からないけど、でも、結局はその表面的な部分だけで毎日が過ぎていくわけでしょ?」
 そうかもしれないな、と僕は思った。けれど、口には出さなかった。
「その頃のあたしは上手くやっていたと思う。新しいお父さんが出来たときも、そのやり方で上手くいった。簡単なことよ。ただ、相手に少しだけ興味を持つの。明日もまた、明後日もまた、少し興味を持つの。それだけのこと。自分に興味を持つ人のことを、人は無視できない。それが本当の好意になるかどうかは、まあ、少し難しいけど、でも、本当のことなんて誰にも分からないんだから、表向きはそれだけでいいのよ。そうすることで、お父さんとあたしはちゃんと仲良くなれた。本当に、とても仲良く暮らしていたのよ。でも・・・、もう仲良くするのは止めたの」
「それは、君のお母さんが死んじゃったことと、何か関係があるの?」
 僕は言ってしまってから、「しまった!」と思った。聞いてはいけないことを言ってしまったような気がしたのだ。けれど、結衣子は気にした風もなく淡々と話し続けた。
「あたしのお母さんはね、酷い喘息持ちだったの。発作が起きるとね、いつも大変だった。それでも昼間は、薬があれば落ち着くことがほとんどだったから、何とか仕事もしていたけど、夜中のお母さんは本当に辛そうだった。布団の中で身体を起こして、枕を抱くようにしたまま、胸から苦しそうな音をさせていた。肩を大きく動かして、背中いっぱいで息をしているのに、全然空気が入っていかないみたいで、このまま死んじゃうんじゃないかって、怖くなってお母さんにすがりついた。お母さんを殺さないでって、何度も思った。お母さんは苦しそうにしながら、大丈夫だからって、あたしの手をしっかり握ってくれた。こうやって結衣子の手を握っていると、安心して発作が治まるのよって、いつもそう言ってた。お母さんが再婚してからは、手を握る人がもう一人増えた。それが、あたしは嬉しかったの。お母さんが安心できて、発作が落ち着くためには、新しいお父さんはとても必要だったから」
 結衣子はビールに口をつけた。滑々とした喉の辺りが小刻みに上下している。それにつられるように、僕もビールを飲む。暫くの間は、お互い黙って喉を潤した。夕方は遠く過ぎ去り、辺りは薄い闇に包まれていた。山のほうから下りてくる冷たい空気が、昼間の熱を抑え込み、地中深くへ押し込めようとしていた。
「お母さんが死んじゃったとき、あたしは修学旅行に行ってたの。お父さんがいるから大丈夫だと思ってたんだけど、あたしが出かけた後で、急に出張することになって、お父さんも東京に行ってたんだって。誰もいないときに発作が起きて、それがいつも以上に酷かったのね。お母さんは救急車も呼ぶことができずに、そのまま死んじゃった。苦しかったでしょうね、息ができなくなるなんて」
 結衣子の話し方はとてもあっさりしていて、何だか悲しみというものが感じられなかった。
「旅行先に連絡があって、帰ってみたらお母さんは死んでいた。お父さんは、あたしに何度も謝ったの。泣きながら何度も、すまないって、頭を下げた。だけど、お父さんが悪いわけじゃない。仕方がないことだったのよ」
「君は、お父さんのこと嫌いになったりしなかったの?」
「全然。だけど、それからお父さんは変わっちゃった。あんなに明るい人だったのに、気がつくといつも悲しい顔をしてた。あたしに気を遣うようになって、一緒にいるのが辛そうだった。だから、大学生になったときに家を出たの。本当の親子じゃないから、そもそも縁を切ってもいいんだけど、それだけは出来ないってお父さんが言うから、学費や生活費は出して貰ってるの。多分、罪滅ぼしのつもりなのよね」
「さっき、人に好かれるのは煩わしいって言ったのは、お父さんのこと?」
「違う。でも・・・、それも少しあるかな」
 結衣子はビールを飲み干すと、近くのゴミ箱に空き缶を放り投げた。僕も残りのビールに口をつけたが、一気に飲み干すことはしなかった。これを飲んでしまったら、結衣子は帰ってしまうのではないか。結衣子に帰って欲しくなかった。もう少しだけ、一緒にいたかった。だから、温くなった缶を、僕はいつまでも掌で玩んでいた。
「俺の家に来ない?」
 ふと、そう言ってしまった。薄闇の中で、僕は慌てて結衣子の表情を探した。
「そうね」
 素っ気なく言う結衣子の顔は、暗がりに浮かぶ白いライラックの花を僕に思い起こさせた。すると、何処かから甘い香りがするような気がした。けれど本当は、ライラックの季節はとっくに終わってしまっている。札幌のライラック祭りは、確か五月。その頃、僕は何をしていただろうか。何故だか、それはもうずっと昔のことのような気がした。



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