結衣子に会ったことを、僕は秋生にも和美にも話さなかった。 「知らないうちに帰っちゃうから、起きてびっくりしたよ」 次の日、秋生はそう言った。 僕はご免と謝りながら、着替えてから予備校に行きたかったので家に帰ったんだと説明した。秋生はそれ以上何も訊かなかった。多分、僕が帰ったあとで、結衣子が来たと思っているのだろう。結衣子が何も話していなければ、だけれど・・・。
八月を1週間ほど過ぎた頃だった。 あと10日もすれば空気はすっかり涼しくなり、あっという間に冬がくる。のんびりしている暇はなかったが、その日、僕は和美と映画を観に行く約束をしていた。僕が誘ったのだ。 僕らは大通り公園のテレビ塔の下で待ち合わせをしていた。高校生のときから、待ち合わせはいつもその場所だった。約束の5分前に僕がそこに着くと、和美は先に着ていて小走りに駆け寄ってきた。 僕らはそこから映画館までゆっくりと歩いた。何を観るかは決まっていて、それは最近話題になっている恋愛映画だった。もちろん、和美の希望である。 平日の昼時だったので、あちこちのビルからサラリーマンやOLが、次々と表に流れ出てきていた。そんな中を歩く僕たちは、表向きはいかにも暢気な学生カップルだった。横を歩く和美は、何だか楽しそうだ。時々僕の腕を引っ張りながら、ショウウインドウへ駆け寄ったりする。こんな風に二人で街を歩くのは、随分と久しぶりだった。デートって、こんな感じだったっけ。ふと、僕は違和感を持った。何だか以前とは、少し違うような気がしたのだ。けれど、どこがどう違うのかは、僕には分からなかった。 夏休みのせいか、映画館はすごく混んでいた。僕らは空いている席を見つけ出し、何とか座ることができた。恋愛映画のせいか、やっぱりカップルが多かった。 「前に映画館に来たのって、いつだったっけ」 和美はそう言いながら、バッグからハンカチを取り出した。 「確か、受験が終わって気晴らしにって来たんだよ。だから、2月だな」 僕もポケットからハンカチを出すと、額の汗を拭った。あの頃はまだ、全部の大学に落ちるとは思っていなかった。実に暢気なもんだったのだ。 「じゃあ、半年ぶりだね」 和美は顔をハンカチで扇ぎながら、そう言った。それを聞いて、和美もずっと映画館には来ていなかったんだなと、僕は思った。そう思うと、何だか和美にすまない気持ちでいっぱいになった。映画館だけではない。もし僕が大学生になっていたら、和美をもっといろいろな所に連れて行ってあげただろう。それなのに、そのことで和美は一度も文句を言ったことがない。何だか和美をとても愛しく感じた。やっぱり、僕は和美のことが好きなのだ。本当にそう思った。それなのに、映画が始まって30分もすると、僕は我慢ができないほど眠くなってきた。そして、気がついたときには最後のテロップが流れていた。結局、それがどんな映画だったのか、僕は全く分からなかった。
和美は僕が寝てしまったことを、信じられないと言って怒った。けれどもそれは最初だけで、眠ってしまった僕のために、映画の大まかなあらすじを話して聞かせてくれた。 僕らは映画館の近くの喫茶店にいた。そこは窓際の1階席で、外を歩く人たちが、まるで自分たちの直ぐ横を通り過ぎるようによく見えた。あまり落ち着ける場所ではなかったが、和美は全く気にせずに喋り続けていた。最後がハッピーエンドにならなかったことが、彼女は気に入らないらしかった。 和美が突然、テーブルの下で僕の足をつついた。僕は少しぼんやりしていたので、そのことで和美が怒ったのだと思い、謝ろうとした。 「知ってる人?」 和美はちらっと窓の外に視線をやり、僕に合図をおくった。何だろうと、僕も外に視線を向けた。そこに、結衣子が立っていた。じっと、僕を見ている。僕は驚きのあまり、固まってしまった。実際、笑いかけるのも変だし、手を振るのも違うだろう。 「誰?」 不審そうに和美が訊いてくる。僕は慌てて和美のほうに向きなおった。 「お、幼馴染だよ、秋生の」 和美は、ああ、彼女が・・・という顔をした。それで僕も大きく肯いた。何故自分がこんなに焦っているのか、自分でもよく分からなかった。 ずっと立ち止まっていた結衣子が歩き出した。その姿を目で追うと、彼女は店の自動ドアをくぐり、驚くことに、こちらに向かって歩いてきた。そして、僕らの席に来ると、何も言わずに僕の隣にストンと腰かけた。水を持って現れたウエイトレスにアイスコーヒーを注文すると、結衣子は黙ってタバコに火をつけ、それから小さな煙を一つ吐いた。 「この前は、あんな時間に帰ることになって、悪かったわね」 結衣子が横に居る僕にそう言った。和美の視線が真っ直ぐ僕に向けられる。その目は、どういうこと?と問いかけていた。けれど、僕はそれに気づかなかったふりをした。やっぱりこの前のことは和美に話しておくべきだった。そう後悔しながらも、僕は何てことないように答えた。 「気にしなくていいよ」 さらっと言ったつもりだったが、硬い口調になってしまった。 「秋生くんの幼馴染なんだってね」 和美が明るい声で結衣子に話しかけた。それは、ちょっと驚くほど優しい声だった。こんなときに、そんな声が出せる和美に僕は少し驚いた。けれどもっと驚いたのは、結衣子が完全に和美を無視して話し始めたときだった。 「あんたって、汗っかきね。秋生が寝たあとは、いつも臭いなんて全然しないのに、あんたのせいで服に臭いがついちゃった。やんなっちゃう」 驚いていた僕も、これにはムカッときた。 「自分で買った服じゃないだろ?あの洋服代、ちゃんと秋生に返したのかよ」 「あたしは、払ってくれなんて頼んだ覚えはないわよ」 「だって、あのままだったら万引きだぞ」 「だったら、それでいいじゃない。秋生が勝手にやったことで、どうしてあたしが責められるのよ」 「あんなことして、何とも思わないのか?秋生の気持ち、考えたことあるのかよ」 「じゃあ、あんたは秋生の気持ちが分かるの?」 そう言われて、僕は黙ってしまった。確かに、僕には秋生の気持ちが分からない。 ウエイトレスが追加のアイスコーヒーを持って来た。伝票を置くときに、チラッと僕の顔を見た。三角関係のもつれ話だとでも思っているんじゃないだろうか。 しかし、そんなことにはお構いなしに、結衣子は一気に半分ほどまでアイスコーヒーを吸い上げた。それからタバコの煙を一息吐くと、それを灰皿でもみ消した。 「なんであんたがそんなにムキになるのよ。秋生に頼まれたわけでもないのにさ。そんなにあたしが気になる?あんた、あたしのこと、好きなんじゃないの?」 「な、何言ってんだよ!」 僕はただただ驚いていた。和美も半分口を開けて結衣子を見ている。結衣子はそんな僕らを無視して、残りのアイスコーヒーを飲みほした。それから急に席を立つと、トイレのある奥へと歩いて行ってしまった。僕らは黙ったまま、その姿を目で追うだけだった。
最初に口を開いたのは和美だった。 「説明してよ」 低く冷たいその声は、僕が今まで聞いたこともない声だった。僕が知らない声を、和美がたくさん持っていることに今日僕は気がついた。何だか、僕が知っている和美ではないような気がした。 和美は怒っていた。 それは、結衣子に対してだけじゃなく、僕に対してもだった。 僕が結衣子と一緒になって、自分を無視していたと和美は言った。 僕は焦って、この前秋生の家に行ったときのことを簡単に説明した。そのときは僕も結衣子から全く無視されていたこと、僕が寝ていた布団で結衣子が寝ることになったので帰ってきたことなどを、かなり慌てて説明した。けれど、秋生が結衣子を殺そうとしたという話はしなかった。それだけは、どう話していいのか分からなかった。 「どうしてそのとき、話してくれなかったの?」 「何となく、話しそびれちゃったんだよ」 和美はしばらく黙っていた。それから、ぽつりとつぶやいた。 「一樹、あの子にあたしのこと、紹介してくれなかったね」 そう言って、和美は立ち上がった。僕は和美が怒って帰るつもりなのかと、焦って腰を上げた。 「トイレよ」 和美もまた、奥の通路へと歩いて行ってしまった。
一人残された僕は、やっとその場の空気が緩むのを感じた。暫く呼吸をするのを忘れていたような気がして、肩の力を抜くと大きく息を吸い込んでみた。身体の緊張が解けると、やっと頭が働き始めたようだ。それで、考えてみた。 僕はどうして和美のことを、結衣子に紹介しなかったのだろう。 結衣子が和美のことを無視していたことも、紹介するタイミングを見つけられなかった理由の一つかもしれない。けれど、それだけではない気がする。僕は結衣子に、和美を彼女だと言えなかった。それは、何故なのだろう。 さっきの結衣子の言葉が蘇ってくる。 (あたしのこと、好きなんじゃないの?) 思い出しただけで顔が赤くなるようだった。 あのとき、僕はどんな顔をしていただろうか。 ふと、秋生に「彼女を好きなのか」と言ったときのことを思い出した。僕もあのときの秋生と同じような顔をしていたのだろうか。あのとき、秋生はどう感じていたのだろう。 ぼんやり考えていた僕の元に、和美が駆け戻って来た。その顔が酷く強張っている。 「どうした?」 僕は心配して声をかけた。 「いないのよ、あの子、どこにも・・・」
結局、結衣子のコーヒー代は僕が払った。 そのことが、また和美を怒らせた。だけど、和美に払わせるわけにはいかないのだから仕方ない。僕らのデートはいつも割り勘だった。けれど、今日は僕が全部払うと言った。それなのに、和美は自分の分は自分で払うと言って譲らなかった。そして、喫茶店を出ると、和美は怒ったまま帰ってしまった。僕にはもう、和美の機嫌を直すことはできなかった。僕は、謝らなければならなかったのかもしれない。けれど、何がどう悪かったのかが分からないままだった。そうして家にたどり着いたときには、僕はもうくたくたに疲れ切っていた。
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