テーブルを半分ずつ占領するように、僕らは向かい合ってテキストを広げていた。 秋生の「泊っていきなよ」という言葉に、一度は帰ると言ったのだが、何だかこのまま帰るのも心にモヤモヤしたものを残すようで、結局、勉強するという名目で残ることにした。それで二人で、明日の予習をしているところだった。 僕はさっきから同じ問題を何度も読み返していた。 何度問題を読んでも、それが何を問うているのかまるで頭に入ってこないのだ。 秋生は、何故あんな顔をしたのだろう。 あるいは、本当に彼女のことが好きなのかもしれない。それを、僕に言われて初めて気がついて、それで驚いたのではないか。でも、人を好きになることが、それほど驚くことだろうか。僕らの年頃ならそれは当り前のことだし、それしか考えていない奴だっているくらいだ。 僕はそんなことばかり考えていたので、ちっとも勉強が手につかなかった。そろそろ寝ようかと秋生が言ったときには、もう深夜1時を過ぎていた。
僕がシャワーで汗を流す間に、秋生はテーブルを移動させ、そこに布団を二組敷いてくれていた。敷き布団に敷かれたシーツは丈が足りなく、足元は地の布団の柄が見えていた。枕は座布団で、その横にブルーのタオルケットが畳んで置いてあった。 秋生が「消すよ」と言って、蛍光灯の紐に手を伸ばした。僕は暗がりの中、タオルケットを広げて布団に潜り込んだ。暗がりに目が慣れてくると、窓の辺りから青白い光が射し込んでいるのが気になった。窓のカーテンが半分ほど開いている。その窓枠の外に、ハンガーに掛けられた白いタオルが風に揺れていた。僕は何となく、そのタオルがゆらゆら揺れるのをじっと見ていた。タオルの白さが、あの女の子の白い顔を思い出させた。 「一樹」 「ん?」 「人を殺そうとしたこと、ある?」 突然そんなことを訊かれて、僕は驚いた。 「ない・・・と思う」 そう答えたが、秋生の返事はなかった。 「秋生は、あるの?」 秋生は黙ったままだ。もしかしたら、眠ってしまったんじゃないだろうか。僕は秋生のほうに顔を向けた。窓からの光で、秋生の顔は青白く光っていた。秋生は眠っていなかった。じっと天井を見上げ、何かを思い出しているようだった。 「秋生?」 僕は小さく呼びかけた。 「僕は、彼女を殺そうとしたんだ」 秋生は天井を見詰めたままそう言った。それは独り言のようだった。天井に何か書いてあるかのように、秋生はそこから目を離さない。僕も天井に目を向けてみた。けれど、もちろんそこには何も書かれてはいなかった。 僕はもう一度、自分が人を殺そうとしたことがあったかどうか考えてみた。嫌いな奴は確かにいた。死んでしまえと思ったことも、あったかもしれない。けれど、思うことと実行することとは別だ。やっぱり僕が人を殺そうとしたことは、ない。 秋生は何故、彼女を殺そうとしたのだろう。 そんなこと、いくら考えても分かるわけがない。秋生に訊いてみようと思ったが、正直、それを聞いたところで、僕にはそれを理解する自信がなかった。それは、聞いてみなければ分からないことかもしれない。けれど、聞いてはいけないことのような気もした。 僕は天井から目を逸らし、もう一度秋生を見た。秋生は相変わらず天井を向いたままだった。けれど、その目は瞑っていた。それを見ているうちに、僕の瞼もゆっくりと閉じていった。
目が覚めたとき、一瞬自分がどこにいるのか分からなかった。 横で寝ている秋生を見て、ああ、そうだと思った。 秋生は僕がさっき見たときと同じように、天井を向いたまま目を閉じていた。まるで1ミリたりとも動いていないように、その姿には寝乱れたところがなかった。 まるで死んでるみたいだな、と僕は思った。 窓の外は深い闇だった。僕は、何故目が覚めてしまったのか考えてみた。そうだ、何か物音がしたのだ。 そう気がついて、慌てて部屋の中をぐるりと見まわしてみる。けれど、部屋の中に不審なものは見当たらなかった。首を持ち上げ台所のほうまで見てみたが、そこは静かな暗闇だった。ほっと安心するのと同時に、僕は何だか喉が渇いていることに気がついた。それで、起き上がると台所まで静かに歩いていった。 台所の床はひんやりと冷たかった。それがとても気持ちよく、僕は自分がかなり汗をかいていることに気がついた。グラスを取り、水道の蛇口を捻ろうとしたとき、僕は声を上げそうになった。玄関に何かいる。誰かが・・・。 それが彼女だと分かって、僕は自分の声を飲み込んだ。彼女は靴を履いたまま、玄関先に座り込んでいた。体育座りの格好で、膝の上に組んだ両腕の中に、頭を埋めるようにしてしゃがみ込んでいた。 「何してるの?」 僕が声を掛けると、彼女はゆっくりと顔を上げ僕のほうを見た。そのまま答えない彼女に、僕は問いかけた。 「家に帰ったんじゃなかったの?いつからそこに居たの?」 「1時間くらい前から」 彼女の足元にコーヒーの缶が倒れていた。僕が聞いた物音は、これが倒れた音だったのかもしれない。 「それまで、どこにいたの?」 「お墓」 「お墓?何しに?」 「別に。お墓って、何かをしにいくところなの?」 彼女はそう言った。 僕は和美とキスをするためにお墓にいった。何も目的がなくお墓に行く人なんて、いるだろうか。 「こんな時間に一人でお墓に行くなんて、怖くないの?」 「怖くなんかないわよ」 彼女はちょっと笑った。その笑顔が、僕を安心させた。なんだ、普通の女の子じゃないか・・・。 秋生に訊けないことも、あるいは彼女になら訊けるかもしれないと僕は思った。彼女は僕の言ったことなんかでは傷つかないような気がする。勝手な見方かもしれないが、彼女は些細なことには拘らないような気がした。もっと、大きなルールで生きているような、そんな気がした。僕は思いきって訊ねてみた。 「秋生は、本当に君のことを殺そうとしたの?」 彼女は自分の靴の先を見ていた。それからリズミカルに、つま先を上下に動かした。 「本当よ」 つま先を動かしながら、彼女はあっさりと言った。 「どうして、そんなことをしたんだろう」 僕は彼女に訊くというよりは、自分に問いかけるようにつぶやいた。彼女はつま先の運動を止めると、僕のほうに顔を向けた。それで、僕も彼女を見つめた。けれど、何だか僕のほうだけが一方的に見られているような気分だった。 「あたしが頼んだからよ」 「えっ?」 「あたしを殺して、って・・・あたしが秋生に頼んだの」 それが冗談なのか本気なのか、僕には分からなかった。彼女はふざけているようには見えなかったが、だからといって、すぐに理解できる話でもなかった。僕はまた頭が混乱してくるようだった。それを遮断するように、彼女が話しかけてきた。 「あんたさぁ、もう眠くないの?」 「えっ?ああ、何だか、目が覚めちゃって」 「だったら、あたし、寝てもいい?」 彼女は奥の部屋を顎で指した。そして、僕の返事も待たずに靴を脱ぎ、僕が寝ていた布団まで這っていくと、服のまま横になってしまった。 そんな彼女の姿を、僕はしばらく見ていた。それから、自分がTシャツにパンツ姿だったことに気づき、慌てて部屋に戻るとジーパンを履いた。僕は急に恥ずかしくなっていた。さっき、僕はだいぶ汗をかいたのだ。だから、布団には僕の汗の臭いが残っていると思う。そこに平気で寝ている彼女を思うと、何だか息苦しくなる。恥ずかしいはずなのに、何だか嬉しくもあり、くすぐったいような、妙な気分だった。すると、急に胸がどきどきとし始めた。その鼓動が抑えきれなくなりそうで、僕は音をたてないよう鞄を持つと、そのまま急いで玄関に向かった。 「あんたさぁ、名前、何て言うの?」 彼女の声がした。 「三村 一樹・・・君は?」 返事はなかった。僕は靴を履いて、静かにドアを開けた。 「結衣子」 小さな声が、僕の耳に届いた。
タクシーは直ぐに捕まり、家に着いたのは午前4時だった。 今からまた寝てしまっては起きられないと思い、僕はお湯を沸かしてコーヒーを飲んだ。そうして、熱いコーヒーを飲みながら、僕の布団で寝ているであろう彼女のことを思った。 何だか、耳が熱くなるようだった。 「結衣子・・・」 声に出して言ってみた。 途端に、やましいことをしているような気分になった。そして、何故だろう、彼女の隣に寝ているはずの秋生の顔が、一瞬、頭の中を横切っていったような気がした。
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