北海道の夏は短い。 八月になると太陽は徐々に陽射しを弱め、ふとした時に、その終わりを感じさせる。夏が思ったよりも早く終わってしまうことに、淋しくなる。夏のうちにやり残したことが、まだたくさんあるような気がする。そして、僕らは慌てて夏を満喫しようと動き出す。太陽の暑い陽射しは、そうやって僕らを何かに駆り立てる。漠然とした何かに向かって、夏は僕らを走らせる。
高校生は夏休みに入り、その期間だけ予備校の講義に参加する者もいて、予備校には見慣れない顔が増えていた。その中には女の子も多く、僕の友達の中にはそんな女子高生に目をつけて、交際を申し込んだりする不埒な奴もいた。 結局、あれから僕は秋生に何も言わなかった。時間が経つにつれ、何だか些細なことのような気がしてきた。良いペースで勉強してきたのに、一瞬でも他のことに振りまわされた自分が、何だか情けなかった。集中して勉強することに閉塞感を感じていたにも関わらず、いざ違うことで頭がいっぱいになると、やはり焦りが先に立った。大学生にならない限り、僕らが何かにうつつを抜かすことは許されない。だから、次こそ合格しなければならないのだ。
僕と秋生はその日、午後から図書館で勉強していた。僕らの家にはクーラーがなかったので、最近では勉強できる涼しい場所を求めて彷徨っていた。とはいえ、喫茶店では長く居ると嫌がられるし、そうなると予備校の自習室か図書館ぐらいしかない。自習室はいつも席の取り合いになるほど混んでいたので、結局、少し離れた場所の図書館で勉強するのが、この頃の僕らの習慣だった。 2時間ほど勉強したあとで、休憩をとることにした。僕らは一階の自販機で買ったアイスコーヒーを、表の階段に座って飲んでいた。冷房ですっかり身体が冷えてしまったので、太陽にあたって温めるつもりだった。けれど、午後の熱気は一瞬で僕らの肌を突き刺した。缶コーヒーを飲み終わる頃には、僕らはじっとりと汗ばんでいた。 「今日、バイト休みなんだ。一樹、これから家に来ないか」 「えっ、今からか?」 僕は少し驚いた。今まで、僕の部屋に秋生が来たことはなかったし、僕も秋生の家は知らなかった。 「実は、昨日バイト先から、おでんをたくさん貰ってきたんだ。一緒に食べようよ」 この暑いのにか、と思ったが、それもいいかと思い直した。冷たいビールと一緒に食べたら旨そうだ。それに今日は、和美が来る日でもない。僕は行くことにした。僕らは早速荷物をまとめると、夏の陽射しの中を地下鉄の駅に向かって歩き出した。
秋生のアパートは地下鉄南北線、澄川駅の近くだった。 僕らは改札を出ると、駅前のスーパーに入った。秋生はあまり飲めるほうじゃないと言ったし、僕も強くはなかったので、500mlの缶ビールを2本だけ買った。それから秋生の案内で駅前通りを歩き始めた。 僕は秋生について歩きながら、懐かしい気分に浸っていた。僕が通っていた高校は、この澄川駅から長い坂道を上って行った山の上にあった。だから、つい半年前までは毎日通っていた場所だった。それなのに、何だかここはもう、知らない場所のような気がした。 ビデオ屋で突然友達に声を掛けられることも、駅の改札で後輩の女の子に手紙を貰うことも、もうないんだな・・・。 何だか少し淋しく感じた。 山の上には墓地があり、その所々には屋根のついた小さな東屋があった。その場所で、和美と初めてキスをした。あそこは僕らの秘密の場所だった。今もあそこは、誰かの秘密の場所になっているのだろうか。 秋生が立ち止まったので、僕は目の前の建物を見上げた。それは、かなり古そうな木造のアパートだった。秋生は何故か立ち止まったまま、しばらく2階のほうを見上げている。僕は「どうした?」と声をかけたが、秋生は「いや」と言って階段を上り始めた。 2階には四世帯分の扉があり、秋生は奥から二番目のドアを開けた。鍵は閉まっていなかった。玄関を上がったところは四畳くらいの台所だった。右手に流しと冷蔵庫、左手にはかなり古そうな洗濯機、その横に扉が二つあるのはトイレと風呂場だろう。台所から続いて、奥に六畳ほどの和室があった。その部屋の明かりが点いている。そこからテレビの音が聞こえていた。そこに、あのときの女の子が背中を向けて座っていた。 秋生は靴を脱ぐと、流しの前に立ち手を洗った。僕も部屋に上がったが、そのまま身動きがとれず、突っ立っていた。 「今すぐ用意するから、ちょっと座っててよ」 冷蔵庫から大きなタッパーを取り出しながら、秋生はあごで奥の部屋を指した。でも、そこには彼女がいるわけだし、何だか入っていくのは躊躇われた。 「何か手伝うことないか?」 僕は流しに立つ秋生に訊ねた。 「平気、平気。温めるだけだから」 仕方なく、僕は奥の部屋と台所の継ぎ目の辺りに腰を下ろした。秋生の動きに目をやりながらも、視界の隅では彼女の後姿をしっかり捉えていた。彼女はテレビ画面に顔を向けたまま、こちらを見ようともしない。それは、タレントがたくさん出ている賑やかなバラエティー番組だった。彼女はテーブルに寄りかかるようにしてタバコを吸っていた。その指の爪は綺麗なピンク色だった。そして、彼女が着ている服は、あのとき試着していたピンクのスーツだった。秋生に視線を向けながら、僕の意識は彼女の細い首と小さな右耳を見つめていた。長い髪は、今日は片側に一本で纏められていた。 「出来たよ」 秋生が鍋を持って部屋に入って来た。炬燵のテーブルの上に鍋を置くと、皿とグラスを持ってきて座った。それは三人分だった。僕はテーブルまで腰をずらすと、スーパーの袋から缶ビールを取り出し、3つのグラスにビールを注いだ。冷蔵庫に入れておくのを忘れていたが、グラスに注がれたビールは旨そうに泡を立てた。グラスは直ぐに白く曇った。 「食べようよ」 鍋の中には形の崩れた大根や千切れた竹輪が山盛りになっていて、汁がほとんど無かった。そこに、三人分の箸が刺さっていた。秋生がその一つを取り、竹輪を掴む。僕も箸を取り、大根に手を伸ばした。大根は見た目よりも意外としっかりしていた。彼女は僕らを無視するように足元の灰皿を引き寄せ、タバコの火をもみ消した。それからくるりと振り向くと箸を取り、小皿に大根を2切れ乗せると、何だか面倒くさそうにそれに口をつけた。
そうやって、僕らはおでんを食べ始めた。 秋生はバイト先からおでんを持って帰ってくるのに苦労した話や、バイト先の人々の話を聞かせてくれた。それは、僕だけに話しているような感じだった。彼女には一言も話しかけなかったし、彼女も喋らなかった。 僕は秋生の話に相槌を打ったり、たまに何かを言ったりしたが、彼女のことを無視しているこの感じが、何だかすごく居心地を悪くしていた。 いったい、こいつらはどういう関係なんだろう。 幼馴染ということは聞いている。けれど、昔から慣れ親しんだ間柄だからといって、こんなふうに口を利かずにいたりするだろうか。そもそも、幼馴染というのが、どの程度の間柄なのか分からない。それに、一緒に食事をしているのだから、まずきちんと紹介するのが普通じゃないだろうか。知らない子と鍋をつつく僕の居心地の悪さを、秋生は気がつかないのだろうか。食べた竹輪が喉に詰まるようで、僕はそれをビールで流しこんだ。いつもより随分早いペースで飲んでいるのに、何故だか全然酔う気がしなかった。 ふと、本当は二人がつきあっているのではないかという気がした。それを僕に知られたくなくて、こんなふうに無視しあっているのではないか。一度、幼馴染と言ってしまった手前、それがばれることを避けるため、わざと話しかけないのではないだろうか。 しかし、つきあっていることを人に知られたくない理由というのが、僕には思いつかなかった。僕が和美のことを人に隠さなければならないときとは、どんなときだろう。 「わりとお腹いっぱいになるね」 秋生が箸を置いた。 僕は、自分がお腹いっぱいなのかどうかがよく分からなかった。何だかこの状況ではいっぱい食べられなかったし、だからといって、もっと食べたいという気にもならなかった。だから、少し前から箸を置いたままだった。そうしてビールばかりを飲んでいた。 彼女はすでにタバコに火をつけている。テレビから聞こえてくる笑い声と、彼女が煙を吐き出す小さな音だけが、煙と一緒にその部屋の中を満たしていった。
その空気を変えるように、秋生が鍋を持って立ち上がった。それで、僕はテーブルを片づけるため使った皿を重ねていった。彼女の皿を重ねるときにチラッと彼女の顔を見たが、何も気にしていないようだった。 本当に、何を思ってこの場にいるのだろう。あるいは彼女もここで暮らしているのだろうか。しかし、部屋の様子を見ても、女の子が一緒に暮らしているような感じはなかった。 何だかだんだん、無視されているのは彼女ではなく、実は僕なんじゃないかという気がしてきた。普通、知らない人とこんなふうにいたら、気まずさを避けるために話しかけたくなるだろう。けれど、彼女は話しかけることも、話しかけられることも望んでいないようだった。それで、僕は話しかけることもできず、仕方なく立ち上がった。 僕が皿と箸を持っていくと、秋生は「ありがとう」と言ってそれを受け取った。 そのとき、テレビの音が唐突に消えた。 彼女が立ち上がり、こちらに歩いてきた。そして、僕らの後ろを通りぬけると、玄関から外へ出ていってしまった。それでも秋生は気がつかなかったように皿を洗っている。 「おい秋生、彼女出ていったけど、どこ行ったの?」 「さあ、帰ったんじゃないかな」 そう言って、秋生は水道の蛇口を閉めるとタオルで手を拭った。
僕と秋生は座って残りのビールを飲んでいた。それはもう、かなり温くなっていた。 僕は彼女がいなくなったこのときとばかりに、やっと訊きたいことを口にした。 「彼女とは、どういう関係なの?幼馴染って、小樽のときの?」 「そうだよ。彼女も小樽の出身なんだ」 秋生はそう言って、ビールを舐めるように口に含んだ。僕は秋生が続けて何か話し出すのを待ったが、秋生はそのまま黙っていた。僕はもう、訊かずにはいられなくなっていた。だって、どう考えても二人は変だ。二人が不自然だというんじゃなく、二人の間ではそれが自然なことのようなのが、何だかとても不自然だった。 「どこに住んでるの、あの子」 「中央区の何処かだと思う」 「何処かって、秋生は知らないの?」 「うん、訊いたことないから」 「彼女、年上?」 「一つ、上かな」 「それで、一人暮らししてるの?」 「うん。彼女のほうが先に札幌に来たんだよ」 「まさか、その家賃も秋生が払ってるなんてこと、ないよな」 「まさか。それは、彼女の親が出してるよ」 「学生なのか」 「うん。あんまり行ってないらしいけどね」 「どこの大学?」 秋生は少し口籠ったが、「北大だよ」とぼそりと言った。それで秋生も北大を志望しているんだと、僕は思った。やっぱり、二人の仲には何かある。僕は先日のあのことを訊いてみようと思った。 「あのさ、秋生。この前のことだけど、何で秋生が彼女の洋服代を払うのか、それは俺には分からないけど、でも、もし、あの子に何か弱みを握られているんだとしたら、それは誰かに相談したほうがいいんじゃないか?俺に言えとは言わないよ。彼女の親でいいじゃないか。幼馴染なら、親だって知らない人じゃないだろ?」 秋生は黙って僕の話を聞いていた。けれど、何か違うことを考えているようにも見えて、何だか少し腹がたった。僕は徹底的に言ってやるつもりだった。 「秋生があの子の面倒をみる必要ないだろ?あんなふうに払ってやる必要ないだろ?大体、俺たち浪人生なんだぜ。そんなときに、よくないよ」 「彼女の親は、もういないんだよ」 「えっ、だって、どういうこと?家賃は親が払ってるんだろ?」 「そうだけど。確かに、生活費は父親が払っているんだけど。本当の父親じゃないんだ」 「母親は?」 「彼女が中学二年生のときに亡くなった。病気でね。母親は小樽で小さな輸入雑貨のお店をやっていて、そのときに今の父親と知り合って再婚したんだ。彼女の本当の父親は、彼女が5歳のころに交通事故で亡くなってる」 「秋生はその頃から知ってるの?」 「うん。家が近所だったんだ。だから、事故で父親が亡くなったあとは、彼女はよくうちで留守番をしていた。それまでは家にいた母親が仕事を始めたからね。父親の事故は、相手のわき見運転が原因だったらしい。その慰謝料で、母親はお店を始めたんだ」 「それで、今度は母親が亡くなったわけだ。気の毒だな、それは。それから今まで、義理の父親と二人だけってことか。その父親と、上手くいってないのか?」 「いや、そんなことはないよ。最初から本当の娘のように可愛がっていたし、それは今も変わらないと思う。彼女も懐いていた。仲のいい親子だったよ」 「何だかよく分からないなぁ。今の話が、秋生が彼女に服を買ってやる理由になるのか?彼女に同情しているとか、そういうこと?」 「違うよ。同情なんかじゃない。今の話は僕と彼女とのことには関係ないし、何の理由でもない。でも、・・・どこかで関係があるのかな、やっぱり」 僕には秋生の言っていることが全く分からなかった。お願いだから、もっと分かるように説明して欲しい。何と何がつながって、この前のようなことになるのか。今の話がどう関わってくるのか。これでは全く分からないままだ。お願いだから、もっと簡単に分かりやすく言って欲しい。例えば、ただ彼女のことが好きだから、とか。 「秋生、彼女のことが好きなのか?」 言ってしまってから、僕は驚いた。秋生が酷い顔をして僕を見ている。何か残酷な宣告を受けたあとのように、秋生の頬は固く強張っている。力のこもった眼が、まるで僕に挑むように赤く潤んでいた。何か、言ってはいけないことを言ってしまったことに僕は気がついた。僕は、何か酷いことを言ってしまったのだ。何か、無神経なことを。 「違う、よ」 秋生がぽつりとそう言った。 僕はもう、何も訊かなかった。 何か言ったら、また秋生を傷つけてしまうようで怖かった。 しかし、何が悪かったのかは、いくら考えても僕には全く分からなかった。
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