三階の教室に入ると、いつもの場所に秋生が座っていた。 教室は最上階のスペースをたっぷり使った大きな部屋で、席は窓際、中央、廊下側と3ブロックに分かれている。その、窓際の後ろから3列目の席に、いつも僕らは座っていた。窓際は外が気になって気が散るので厭だという奴もいたが、僕らは何となくそこが気にいっていた。ただ、座り慣れたというだけかもしれないが・・・。 しかし、席が決まっているわけじゃないので、僕と秋生はどちらか早く着いたほうが席を取っておく約束になっていた。だが、今までに僕が席を取っておいたことはない。僕が着く頃にはほとんどの席が埋まっていて、約束の場所にはいつも秋生が座っていた。 「おはよう」 僕が声をかけると秋生は顔を上げ、横の座席に置いてある荷物をどかして床に置いた。僕は席に着くとテキストとノートを取り出し、予習してきた部分をもう一度確認するようザッと目を通した。ちらりと横に目をやると、秋生は英語の問題集を解いていた。長文問題を訳しているので何度も辞書を引く。その辞書には黒いマジックで「由良 秋生」と書いてあった。
秋生と知り合ったのは、この辞書を借りたのがきっかけだった。 それは四月の終わり頃で、ちょうどゴールデンウイークに入ったばかりの、街全体が浮足立っているような、そんな頃だった。とはいえ、受験生にそんな陽気は関係ない。僕は午前中に英語の講義を受け、そのまま昼食も取らずに自習室に向かった。その頃はまだ講義についていけず、焦っていた。だから、講義が終わると直ぐに復習するようにしていた。 ちょうど昼時だったので、自習室にはほとんど人がいなかった。席に着き、テキストを開いて最初の長文を訳そうとしたとき、僕は辞書を家に忘れてきたことに気がついた。授業中は先生が言っていることをノートに書き取るだけで精いっぱいだった。だから、辞書を引く暇もなく、忘れたことに気づかなかった。家に帰ろうにも、午後からは古文の講義がある。どうしようかと思っていたら、近くに座っている奴の辞書が目についた。僕はそっと、そいつの横の席に移動した。 「ちょっと、借りてもいいかな」 僕が声をかけると、彼はビクッと驚くように顔を上げた。よほど集中して勉強していたらしい。けれど、直ぐに「いいよ」と辞書を貸してくれた。僕はお礼を言って、それを貸してもらった。すぐに返そうと思っていたが、次々と分からない単語が出てくるのでなかなか返せなかった。途中、気になって横を見ると、彼は数学の問題を解いていた。それで結局、最後まで辞書を使わせてもらった。 そのお礼に、僕はコーヒーを奢らせて欲しいと頼み、二人は食堂に行ってアイスコーヒーを注文した。テーブルに向かい合って座ると、僕は初めて彼の顔を真正面からちゃんと見た。女の子みたいだな、と思った。 彼は一見目立たないようだが、一度その姿を捉えると、なかなか目が離せなくなるような魅力があった。全体が華奢で色がとても白いので、女の子のように形容したくなるが、女っぽいとか、なよなよしているわけではなく、もっとスッキリした雰囲気だった。小学生のときに、こんな感じの女の子がいた。足が速く、いつもリレーのアンカーに選ばれていた。彼女が走ると、風が彼女の後ろをついていくように見えた。その姿にはいつも、透明感があり颯爽としていた。そう、目の前にいる彼も、そんな感じだった。 「辞書に名前が書いてあったね。何て読むの?」 僕は、彼の茶色い瞳に向かって問いかけた。 「ゆら。ゆら あきおっていうんだ」 「俺、みむら かずき。ほんと、助かったよ。長文読解で辞書がなかったら、終わってるもんなぁ」 僕がそう言うと、秋生は眩しそうに目を細めた。けれど、実際には食堂は地下にあり、眩しいほどの光はどこからも入ってきてはいなかった。どうやらこれは、彼の癖らしかった。 それから僕たちは、志望校や落ちた大学のこと、受講している科目のことなどを話した。 秋生は北大に落ちて、来年もそこを受験するということだった。国立だから受験科目も多いのに、英語と数学の2教科しか講義を取っておらず、残りの教科は自分で勉強していると言った。そして何よりも僕を驚かせたのは、秋生は夜、居酒屋でアルバイトをしていた。彼は小樽の出身で、やはり札幌で一人暮らしをしているのだが、親が送ってくれる生活費だけではちょっと足りないんだと言った。 その話を聞いたとき、僕は自分の恵まれた生活が後ろめたいような気分になった。けれど、秋生の口ぶりにはみじめさなど全く見当たらず、その柔らかい話し方には潔さがあった。その秋生の雰囲気が、何だか僕には心地良かった。僕には他にも同じ高校からの顔見知りがいたけれど、彼らはみんな、自分は駄目だといいながら相手の様子を伺うようなところがあり、話していて焦ったり、イライラさせられたりした。しかし、秋生にはそういうところが全くなかった。彼はそれほど口数が多いわけではない。だから、僕らの会話が盛り上がったというわけではないのだが、それがかえって僕を安心させた。そんなことから、僕らは何となく馬が合い、よく話をするようになり、共通の英語の講義だけは一緒に受けるようになったのだった。
午前の講義が終わると、僕と秋生は食堂で簡単に昼食を済ませた。 今日は午後からの講義がなく、そういう日は真っ直ぐ帰って勉強する。けれど、その日の僕は突然、映画が観たくなった。いや、正確には、久しぶりに映画館に行きたくなった。 ここのところ、ずっと集中して勉強してきた。それはそれで充実感もあり、何よりきちんと結果になって表れていた。だから、苦痛ではないのだが、でも、やはり閉塞感がある。人と関わることがないので、常に自分自身と一体だ。ヘンな言い方かもしれないが、24時間自分の中から逃れられない気がする。自分のためだけに時間を使うというのは、常に自分のことを考え、自分を感じ、自分と離れられない状態である。 この密着感から逃れたかった。映画館で、大勢の中の一人になって、自分とは関係ない人の物語を見る。自分を忘れて、関係のない世界に浸ってみたかった。だから、僕は秋生を誘ってみた。秋生は夕方からバイトなので、それに間に合うようならいいと言った。それで二人で、映画を観ることになった。僕はとくに観たいものがあるわけではなかった。秋生も、何の映画を観るのか訊ねなかった。そういうところが、僕は好きだった。 僕らは映画館まで歩くことにした。実際、予備校からなら、地下鉄に乗るより歩いたほうが早かった。 息苦しくなるほどの暑さだった。日陰をつくるものが何もないので、僕らは無防備だった。昼の陽射しを避けるため、僕らは俯いて歩いていた。もう少し歩けば札幌の街中だというのに、そこだけ取り残されたような静けさだ。少し遠くに見えるビルやホテルが、この場所を外から隔離する高い壁のようだった。暫く歩くと函館本線の線路があり、踏切が見える。電車どころか、人影すら見られない拓けた場所で、僕らはお互い黙ったまま、ただ自分の足元を見つめて歩いていた。踏切にかかり、錆びついた線路を越えると、熱が線路に跳ね返り、それが僕らの体温をいっそう上げるようだった。 「どうした?」 秋生が突然、立ち止まった。 僕は2,3歩行きかけた足を止め、振り返った。だが、秋生は答えずに真っ直ぐ前を見つめている。それで僕も、同じ方向に顔を向けてみる。僕らの行くてから、女の子がこちらに向かって歩いてくる。その子以外に、僕らの前を遮るものはなかった。女の子といったが、もしかすると年上かもしれない。スリムな身体に真白いノースリーブのワンピースを着て、ヒールのあるサンダルを履いている。線路を越える足元が、少し歩きにくそうだ。けれど、彼女は気にする風もなく、まるで当たり前のように秋生の前で立ち止まった。 「あたし、洋服が見たいの。つき合ってくれる」 彼女は何の迷いもなく、秋生に向かってそう言った。お願いするというより、どこか決めつけるような言い方に、僕は驚いて秋生を見た。けれど、秋生は驚いた様子もなく、最初に彼女を見つけたときと変わらない表情で女の子を見ている。僕は戸惑いながら、そんな二人をちらちらと伺っていた。 「ちょっとだけ、つき合ってあげてもいいかな」 秋生がやっと僕のほうを向くと、そう言った。 僕は声を出さずに肯いた。そうするしかないような雰囲気だった。そんな僕には目もくれず、女の子はくるりと背を向けるとどんどん歩き始めた。それで僕らも、何となく後を追うように慌てて彼女について歩いた。
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