その年の暮と正月を、僕は東京で過ごした。 東京を訪れるのは、僕にとって二度目である。 初めて行ったのは、そう昔のことではない。それは高校二年の修学旅行で、京都・奈良・東京と、1週間かけて周ったのだ。東京は1泊だけだったが自由時間があって、そのとき僕は初めて原宿という場所に行った。 原宿はとにかく人が多かった。竹下通りは人にぶつからないように歩くのが精一杯で、ちょっとでもぶつかったら田舎者だと思われそうで、そればかりに気を使っていたのでくたくたに疲れてしまった。帰りの山手線も、僕らは逆方向に乗ってしまい、えらく遠回りをしてやっとホテルに辿り着いた。そういう失敗というのは、大人が考えるほど良い思い出にはならない。自意識の強いその年頃には、そういうことは耐えられないのだ。何だか東京というところに居ると、自分が酷い失敗をしたり、恥をかいたりしそうだぞ。そんな恐怖心を僕らに植え付けただけだった。
正月の二日間はずっと家にいた。こんなにテレビを観たのは久しぶりだなと思うくらい、テレビの前でごろごろとしていた。ようやく三日目に、僕は弟と新宿に行った。弟はすっかり東京の人になっていた。高校生だから、友達と遊びに出ることも多いのだろう。電車の乗り方が上手くなっていた。 東京という場所は、とにかく電車の乗り換えが多いところだ。札幌の地下鉄のように、乗ってしまえば街まで出られるということはない。どの街に行くかによって、次々と乗り換えなければならない。そして、それがスムーズにできるようになったら、やっと東京の人になれるのだろう。
僕はただ弟にくっついたまま、新宿にやって来た。正月の新宿はすごい人で、家族連れや若者たちが次々と駅から吐き出されてくるようだった。その波に流されるように、僕らは近くの本屋に入った。 とても大きな本屋だった。 僕は本を読まないで生きてきた人間だ。だから、受験のために問題集や参考書を買うようになって初めて、本屋という場所に行くようになった。そして、その度に驚いた。世の中には本を読みたがる人がこんなにたくさんいるのだ。しかし、この本屋は本当にすごかった。本を探しにきているのか、人にぶつかりに来ているのか分からないくらい混みあっている。それに、何処にどんな本が置いてあるのか、まるで分からなかった。広い店内で、みんなが目的の本を探し当てることが不思議で仕方なかった。きっと、ここにはここのルールがあるのだろう。僕には分からないルールが・・・。 弟が雑誌を立ち読みしている間に、僕は人並みにもまれ、流されながら、ただあちこちをウロウロしていた。別に探しているものがあるわけじゃない。人の足を踏まないように、ぶつからないように、それだけを気にして歩きまわった。そうやって何も考えずにそこに居られることが、何だかとても楽だった。僕はふと、東京の大学を受けてみようかと思った。それで、大学案内でも置いていないかと、周りを見回してみた。すると、何故か手元近くに置いてある本に目が留まった。それは、「花言葉」という本だった。 僕はその本を手に取ると、何となくパラパラと捲っていった。そして、あるところで手が止まった。 ライラック。 その花言葉は、純潔・初恋・大切な友達、などと書かれていた。
その次の日、僕は札幌に帰ってきた。 真白い雪を見ると、何だかとてもほっとした。東京で人の足を踏まないようにと緊張していた僕の両足は、しっかりと雪道を踏みしめ、やっと自由に踏み出すことが出来るようだった。 家に着くと直ぐに暖房をつけ、お湯を沸かした。 冷え切った部屋の中が暖まるまで、僕はじっとベッドに腰掛け、足の先をこすり合わせていた。そうしてお湯が沸くとコーヒーを淹れ、身体を温めるためにゆっくりと飲んだ。それから外のポストを見に行った。年賀状が届いているだろうと思ったからだ。 僕は今年、誰にも年賀状を出さなかった。だいたい出すとしても、毎年5枚くらいのものだった。年賀状の届く枚数というのは、出した枚数に比例する。だから、僕に届く年賀状も、毎年5枚くらいしかなかった。 ポストには4枚のはがきが入っていた。 僕はそれを持って部屋に戻ると、ベッドに横になり、1枚ずつ目を通していった。 1枚目は高校時代の友人からだった。すでに大学生である彼は、勉強で大変だろうが大学生になったら遊ぼうと書いてきていた。2枚目は予備校からだった。赤い文字で、「必勝・合格」と印刷されていた。それは間違って届けられたもののように、何だか僕には馴染まなかった。3枚目は岡崎からだった。これにも、頑張って合格しようと書いてあった。僕の目標は合格して大学生になることなんだなと、まるで人ごとのように感じていた。 4枚目は、秋生からだった。表に僕の名前と住所が書かれ、その下には由良秋生とだけ書かれていて住所はなかった。裏に返すと、それは何処かの風景写真だった。何の言葉も添えられてはいないので、秋生が何を思ってこの年賀状をくれたのか、僕には全く分からなかった。僕はそのハガキを机の抽斗に仕舞うと、問題集を出して、それに取りかかった。 秋生はまた北大を受験するのだろうか。 今頃は、結衣子と一緒だろうか。 僕が秋生に嫉妬することは、もうなかった。それどころか、二人が一緒にいてくれることを願っていた。できることなら、暖かい部屋の中で、二人が何となく寄り添っていてくれればいい。そう思っていた。 僕はもう一度、秋生からのハガキを取りだした。うらの写真を隅々まで眺めてみる。冬の雪山。凍りついた森の中にキタキツネが1匹、座って横を向いている。キタキツネの耳も、口も、身体も、吹雪で凍りついている。けれど、目だけは光輝いている。茶色い目。秋生の目だと思った。
ずっと前にキタキツネを見たことがあった。 和美と藻岩山にナイタースキーに行ったときのことだ。 僕らはそこに行くと、いつも南斜面で滑っていた。ナイタースキーでは、その場所はいつも人が少なくて、僕らはまるで貸し切りのように、滑っては登り、滑っては登りを繰り返していた。僕らはリフトを使わずに登っていくのが好きだった。それは酷く面倒なことなのだが、ハアハア言いながら登り、それを一気に滑り降りるというのが、それまでの努力を一瞬で無にするようで気持ちよかった。一歩一歩、斜面を登る。そして、一気に滑り降りる。それを何度も飽きずに繰り返すうちに、汗びっしょりになっている。僕らは時々、スキー板をはずして、ただゴロゴロと下まで転げ落ちるようなこともした。他の斜面でそんなことをしたら、怒られるか、他のスキ―客とぶつかって大怪我をしていただろう。けれど、その南斜面でなら、そんなことも許された。だから僕らは、いつもそこでしか滑らないのだった。
雪山を登っているとき、後ろから着いてきていた和美が小さな声で僕を呼んだ。振り返ると、和美はグローブを嵌めて太くなった左手の人差し指を口にあて、右手で森のほうを指差した。僕は和美の横まで降りていくと、和美が指差す方向を見た。キタキツネが1匹、そこに座っていた。キツネは僕らがいることには気づかないように、じっと麓のほうを見ている。それは、山の上から街の夜景でも眺めているような感じだった。それを見ていたら、僕は手袋を買いに行ったキツネの話を思い出した。片手を人間の手に変えて、お金を払うときはこちらの手を出しなさいとお母さんキツネに言われたのに、間違ってキツネの手を出してしまうという話だった。そこにいるキツネは、今から街に出て手袋を買いに行くつもりなんじゃないかと思うほど、じっと麓を見つめていた。そのとき、奥の森からもう1匹のキツネが出てきた。こちらは先のキツネとは対照的に、そこらをぴょんぴょん跳ねまわっている。まったく落ち着きがなかった。そして、どんなに飛び回っても、もう1匹は動かずに街を見つめている。何だかお互いがお互いを無視しているようだった。そして突然、2匹は揃って森に消えてしまった。何の合図もないのに、まるで合わせたようにいなくなってしまった。 「行っちゃった・・・」 和美が淋しそうにつぶやいた。
キツネは本当に、コーンと鳴くのだろうか。 僕はキツネの鳴き声を聞いたことがない。ただ、昔話か何かで、そう鳴くんだと聞いただけだった。 あの2匹のキツネも、コーンとは鳴かなかった。お互いに鳴き合うことはなかった。和美はあの2匹を見て、自分たちみたいだと言った。ぼうっとして寝てばかりいる僕がじっと動かなかったほうで、飛び回っていたほうが自分だと言った。けれど、僕と和美はいつも声を掛け合っていた。何でも話してきた。そして、相手に言えないことができたとき、僕らは別れることになった。あの2匹のキツネは僕と和美ではない。あれは、秋生と結衣子だ。秋生と結衣子も、ほとんど口を利くことがなかった。でも、どこかで通じ合っていた。分かりあっていた。鳴かないキツネ。何だか雪山の中に、二人が消えていったような気がした。
僕は抽斗の中から3枚の年賀状を取りだすと、それを破り捨て、秋生のハガキだけを仕舞い込んだ。そのハガキの上に銀の指輪を乗せてから、そっと抽斗の戸を閉めた。 静かだった。 雪が、全ての音を吸い取っている。 すっかり暖かくなった部屋で、僕はやっと、悲しいなと思った。
終わり
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