すっかり熱が下がったのは五日目の朝だった。 朝といっても、多絵が目覚めたのはすでに昼近かった。暫くの間、布団の中でぼんやりとしながら何度となく寝返りを打つ。その都度、自分の身体の状態や頭の重み具合を確かめたあと、多絵はサイドテーブルに手を伸ばし、体温計の紐を掴んだ。 しかし、すぐに熱を測る気にはなれなかった。測らなくても分かっている。熱は下がったのだ。布団の重みを邪魔に思いながらも、多絵の身体にだるさはなかった。ほんの少し鈍いところはあったが、何日か前に感じたような筋肉の痛みは、もうすっかり消えていた。 頭の中の重りもなくなり、それはもしかしたら、熱をだす以前よりも軽くなったんじゃないかという気さえした。それは嬉しいことであるはずなのに、でも何故か、多絵の心は困惑していた。 アパートに戻れると思った途端、多絵は何だかこの場を動けなくなってしまっていた。熱があったときはあれほど帰りたいと思っていたのに、今になると何故だか動き出せずにぐずぐずとしていた。 仕事のことを考えれば、すぐにでも帰って出社するべきだった。多絵がいない分、その皺寄せが誰かにいっているはずだ。納品書を作り、各店舗を回りながら商品チェックをし、企画や買い付けの準備など、下働きに近い多絵の仕事は山のようにある。それを億劫がる気持ちがないわけではないが、でも、そんな怠け心から動けないでいるわけではない。それが以前の生活であり、まるっきりその生活に戻れるのなら、多絵だって文句はないのである。けれど、そうはいかないのだ。もう、前の生活には戻れない。今の多絵には、失くしてしまったものがある。一人で生活していくための大きな拠りどころを、多絵はもう、持ってはいないのである。 それは何か・・・。 秋生といいたいところであるが、そうではない。 多絵が今まで一人で生活してこられたのは秋生がいたからではない。確かに秋生の存在は大きかったが、でも、秋生のために一人暮らしを始めたわけではない。誰のためでもない、自分のためだ。多絵は自分のために一人暮らしを始めたのだ。今でもはっきりと覚えている。自分が家を出る決心をしたときのことを、あのときの母の顔を、多絵は忘れたことがなかった。忘れられなかった。それを思い出す度に、これでいいんだ、これでよかったんだと、多絵は強く思った。あたしは悪くない。悪いのはあの人たちだ。あの人たちが、あたしをこんなふうにしたんだ。だから、傷つけばいい。あたしが傷ついたように、みんなも、もっと傷つけばいいんだ・・・。 それは復讐だった。小さな小さな仕返しだった。そのときの多絵にできる、精一杯のことだった。そして、その出来事は多絵が家を出るきっかけにもなり、また、その後の多絵を支える大きな柱にもなった。その支えがあったからこそ、多絵は今まで淋しさも感じずに、それどころかのびのびと、一人暮らしを続けることができたのである。
その支えがなくなってしまったのは、明らかに自分のせいだった。 あれほど嫌っていた家族の元に、今こうして、自分があっさりと帰ってきてしまったことが、多絵の中から何かを奪っていた。結局、一人ではいられなかった。家族を頼ってしまった。秋生の前であれだけ強いことを言っておいて、あっさりと帰ってきてしまうなんて、何だか秋生の声が聞こえるようである。自分勝手だよ。多絵は自分勝手だよ。秋生はあのとき、そう言った。その通りかもしれない。あたしは、自分勝手なのかもしれない。でも、じゃあ、どうすればいいというのだろう。 無意識のうちに、多絵は力いっぱい体温計の紐を振りまわしていた。その紐が指に絡みつき、指を真っ赤に締め上げている。その刺激が、ぐずぐずと布団の中で考え込む多絵の心をふっ切らせた。こんなことをしていても仕方がない。多絵は思いきって身体を起こすと、絡まった紐を指から解き、体温計を取り出すと脇の下に挟み込んだ。その状態で、多絵は立ち上がった。おそるおそるという感じで足を動かしてみる。多絵の心配などお構いなしに、多絵の身体は軽く、思った以上によく動いた。その身軽さに気を取られていると、体温計がずれて、危うくパジャマの裾から落ちそうになった。多絵は慌てて身体をよじると片手でそれを受け止め、もう一度挟み込もうとしたのを止めて、その温度を確かめた。 青い線が六度二分のところまで伸びているのを見ると、多絵は体温計をそのまま容器にしまい、ぽんとベッドの上に放り投げた。そして、扉に近づくとゆっくりノブを回し、そっと外の様子を伺った。
家の中に人の気配は感じられなかった。多絵は音をたてないように階段を降りると、台所に行き、冷蔵庫から牛乳を取り出してコップに注いだ。食卓の椅子に腰かけると、多絵は牛乳に口をつけた。それは久しぶりの味だった。小さい頃、母に無理やり飲まされていたものと同じ飲み物だとは思えないほど美味しかった。ゴクゴク喉を動かすと、それは最初さらさらと流れ、最後に喉に絡まったものがドロリと流れ落ちていった。そういえば、ずっと歯を磨いていなかった。そう気づくと、途端に口の中がモヤモヤとし始めた。多絵はコップを置くと、歯を磨くために洗面所に向かった。 洗面所の鏡に映った自分の姿は酷いものだった。カサカサに乾燥した白い顔の中に、クマで窪んだ眼だけが異様にはっきりとしている。唇の色も悪く、変色した肉のようだった。自分はこんな顔だったのかと思った。けれど、がっかりしたわけでもなかった。頭皮に張り付いた髪の毛の間に指を入れ、そこに空気を入れると、多絵は歯ブラシを取った。チューブから押し出された歯磨き粉をブラシに乗せたとき、多絵ははっとした。自分が握っているのは、自分の歯ブラシだった。一年前と同じ、ピンク色の歯ブラシだった。誰かが同じ色のものを使っているのかと、多絵は慌てて他の歯ブラシの数を数えてみた。ブルー、グリーン、ホワイト。そこにはちゃんと三本の歯ブラシが立っている。やっぱりそうだった。自分が無意識に握っているものは、やっぱり自分の歯ブラシだった。 なぜ捨てなかったのだろう。また、あたしが使うと思ったのだろうか。また、あたしが帰ってくると思っていたのだろうか。あんな思いをして出ていったのに、そんなことは大したことではなかったのだろうか。この家は、何も変わっていないのだろうか。 多絵は歯ブラシを戻した。歯磨き粉を流すこともせず、そのまま二階の部屋に駆け戻った。丸まった布団を蹴り上げるようにして足を突っ込むと、多絵は布団の中にすっぽりと潜り込んだ。それだけではまだ足りないような気がして、両腕で自分の足を抱え込むと、その隙間深くに頭を埋め込んだ。自分が何をこんなに怖がっているのか、何から逃げようとしているのか分からなかった。ただ、自分が壊れていくような気がした。もう厭だ。何もかもが厭だ。堪え切れない怒りが多絵を襲った。それが、誰に対しての怒りなのかは分からなかった。 多絵はただ、頭の中を空にしようと努力した。何も考えない。何も聞こえない。そうやって、怒りが引いていくのを待っていた。 そのとき、多絵の耳が音を捉えた。誰かが帰ってきた。玄関の鍵穴を回す音が、多絵の耳にはっきりと聞こえる。多絵は瞬間的に起き上がると、丸まった布団を慌てて直し、急いで横になった。扉に背を向けるように体勢を整えると、その状態でしっかりと目を瞑り、耳だけは大きくすましていた。心臓がドクドクと血液を送り出すのがよく分かる。まるで、来て欲しくないものが来てしまうのを、防ぐこともできずにただ待っているような、そんな感じだった。そうだ、こんな夢を見たことがある。幼かったとき、確かにこんな夢を見た気がした。 けれど、そんな緊張も長くは続かなかった。いくら耳をすましてみても、誰も多絵の部屋に近づく気配はなかった。それは多絵を安心させたが、同じくらい不愉快にもさせた。こんなに気を使って、こんなに芝居染みたふりをして、あたしは何をやっているのだろう。馬鹿馬鹿しい。こんなこと、無意味すぎる。もう、帰ろう。自分の家に帰ろう。そうなのだ、ここは自分の家じゃない。以前住んでいたというだけで、ここはもう、あたしの家ではないのだ。 勢いよく起き上がると、多絵はパジャマを脱ぎすてた。汗臭い胸に下着をつけ、その上にシャツを羽織った。ジーンズに足を通し、それを引き上げたとき、多絵は自分が穿いている下着に名前が書いてあるのに気がついた。開かれたジッパーの間から肌色の下着が見える。それは、実を言うと生理用の下着だった。替えの下着など持ってこられるはずもなかった多絵は、汗で下着が汚れる度に、以前に自分が穿いていて今では使っていないものを、箪笥の奥から引っ張り出して着ていた。ゴムが伸びてしまったようなものを、それでも仕方なく穿いているうちに、とうとう下着は底をつき、残っているのは生理用の下着だけになってしまった。だからといって何も穿かないでいるわけにもいかなかったので、多絵は我慢してそれを穿いた。母に言えば洗濯したものを用意してくれたのだろうが、それが何だか厭で、多絵は汚れたものを全部一纏めにして捨てるつもりでいた。姉にも、パジャマだけ貸して欲しいと言った。だから、自分が今穿いているものは、最後の一枚だった。その下着に名前が書いてある。「たえ」と、ひらがなで書かれたその文字は間違いなく、母の書いたものだった。
それを母が用意してくれたときのことを、多絵ははっきりと覚えている。中学生になってすぐに生理が始まり、そのことを母にこっそり話した。母は驚くこともなく、以前から用意してあったのか一揃いの生理用品を多絵の前に置くと、分からないことがあったらお姉ちゃんに聞きなさいと言った。その無神経さが多絵には理解できなかった。こんなこと、誰にも言えるわけないじゃないか。それに、使い方ぐらい分かっている。小学校で習ったし、友達のほとんどが既にそれを使っていた。誰に聞かなくたって分かっているけれど、でも、多絵は母に聞きたいと思っていた。そして、母と自分だけの秘密にしたいと思った。 けれど、多絵にとっては重大なことが、母には大した問題ではなかった。自分の部屋で、初めて生理用品を肌に当てた多絵は、大人になった感覚というものを悲しみとして感じた。自分の中から赤いものが流れ落ちてくるのが、まるで傷つけられた痕のようだった。同じことが母や姉にもあるのだとは、何だか思えなかった。
その下着のことで姉が怒りだしたのは、それからすぐのことだった。 下着に名前を書かれるのが恥ずかしいと、母に文句を言ったのである。確かに、子供じゃあるまいし、そんなものに名前を書かれるのは気分のいいものではない。だから、姉が怒るのも仕方がないかと思った。 これからは絶対に名前は書かないでと、姉は母に抗議した。そして、今までの下着はもう穿かないと言った。事実、姉は二度とそれを穿かなかった。どうやら捨ててしまったようだった。そこまですることはないんじゃないかと多絵は思った。何の意味のなく母がそうしたわけではない。洗濯をして、その後どっちがどっちのものか分からなくならないようにと、母なりに考えてのことなのだ。人のものを穿くのは気持ちが悪いだろうという、母なりの配慮だったのである。それを捨ててしまうのはあんまりのような気がして、多絵はそれを穿き続けた。考えてみれば誰に見せるわけでもないし、自分さえ気に掛けなければどうだっていいことである。むしろ、そこまでする姉のほうが少しおかしいんじゃないかという気がした。けれど暫く経ってから、母が多絵に言ったのはこんなことだった。 「あんたはお姉ちゃんと違って、細かいことに気を使わないから楽でいいわ・・・」 下着の文字をぼんやり見つめていた多絵は、そんなことを思い出していた。それは、多絵の心を決めさせるのには十分の思い出だった。どうせ、あたしは気を使わない人間なのだ。気を使っていたって、そうは思われない人間なのだ。だったら都合が良い。このまま知らぬ振りをして出ていったって、ああ、そういう奴だったと、そう思われるだけだろう。あの子は気遣いのない子だから、人に構わず自分勝手に帰っていったと、そう思うのだろう。だったらそれでいいと、多絵は思った。
着替え終わると、保険証と財布の入った鞄を持って多絵は部屋を出た。階段を降りながら、このまま誰にも会わずに家を出られることを願っていた。さっき帰って来たのが誰なのか、そのことが酷く多絵を緊張させていた。お母さんには会いたくない。お姉ちゃんであって欲しい。多絵はそう願った。 階段を降り切ると、すぐ横の玄関先に腰を下ろして多絵は靴を履いた。焦る気持ちを落ち着かせるように、わざとノロノロと動いた。ここで誰かに声をかけられても、きっぱり帰ると告げるつもりだ。踵が靴に納まると、多絵はゆっくり立ち上がり、玄関のノブを回した。大きく扉が開かれると、扉についた鈴がチリンチリンと鳴り、それと同時に誰かが奥から走ってきた。 「ちょっと待って!」 それが姉の声だと分かって、多絵は安心して振り向いた。姉は玄関の三和土に片足を下ろし、驚いた顔で立っている。そんな姿を見ても、多絵は慌てなかった。開けた扉を一度閉めると、多絵は真っ直ぐ姉の前に立った。姉は何かを言いかけたがそれを飲み込み、三和土から足を上げるとその裏を払った。それからゆっくり顔を上げ、言葉を選ぶように言った。 「帰っても、大丈夫なの?」 思っていた通りのことを聞かれて、多絵は安心した。 「平気だよ。熱も下がったし・・・」 もっと何か言おうと思ったが、そこで途切れてしまった。久しぶりに出した声は、何だか自分の声じゃないみたいだった。きっぱりと強い口調で言うつもりが、出てきたものは弱々しかった。どこか取り繕うようなその声が、何ともいえず多絵の心を萎えさせた。 「もうすぐお母さん、帰ってくるから・・・」 多絵の心が弱った隙を、姉が突いてくる。母が帰ってくるから、何だというのだろう。帰ってくるからもう少しここにいろというのか。それとも、帰ってくるから早く行けというのか。姉はどっちの意味で言っているのだろうと、多絵は考えた。 「もう一日くらい、泊っていけばいいのに・・・」 そう言われて、ここにいろという意味なのだと多絵は理解した。 「でも、そんなに仕事、休めないから・・・」 「うちから通えばいいじゃない」 「いつまでも、悪いよ」 「何言ってるの・・・、そんな、何言ってるのよ!」 姉が怒ったような声でそう言った。多絵は一瞬身構えたが、それ以上、姉の言葉は続かなかった。その代わり、姉は多絵にちょっと待っててと言うと、階段を駆け上がっていった。何だか分からなかったが多絵は待った。こんなことをしているうちに、母が帰ってくるのではないかと焦ったが、姉はそれほど待たせずに降りてきた。そして、再び戻ってきた姉が手にしているものを見たとき、多絵は心の底から驚いた。なぜならば、それはカーテンだったのだ。以前、多絵の部屋にあった、あのカーテンだったからだ。 そう気づくと、多絵は瞬間的にそれから目を逸らした。その途端、もう一度見ておきたいという気にもなった。何となく、どこかが違うような気がした。もしかしたら、あのカーテンじゃないんじゃないだろうか。 「ずっと、あたしが使ってたんだよ」 姉はそう言いながら、なぜか焦るようにカーテンを白い紙袋にしまい、その袋を多絵の前に差し出した。 「これ、多絵のだから。多絵が持っているのが一番だから」 やっぱり、あたしのだったんだ。そう思うと、多絵は困惑する気分でいっぱいだった。どこか言い訳でもするように、多絵はあたふたと答えた。 「あたし、捨てたんだと思ってた・・・だって、こんなもの、もう使えないよ」 「使えるよ。ちゃんと使える。あたし、使ってたもん。ちゃんと使えるように、お母さんが直したもん。だから、持っていって。多絵のなんだから」 姉は無理やりそれを多絵に持たせた。それが、とても重く感じられる。自分のものだと言われても、今更これをどうしたらいいのか、多絵には分からなかった。 「あたし、捨てるかもしれないよ?」 姉が何を期待しているのか分からないまま、多絵はそう言ってみた。 「それでもいいよ」 「えっ・・・」 「捨てたっていいよ。多絵がそうしたいなら、捨てたっていい。もう、我慢することないんだから。好きなことしていいんだから。お父さんも、お母さんも、そう言ってたよ。それから、少しやせたんじゃないかって、お父さんが心配してた。だから、これで何か栄養のつくもの食べて」 スカートのポケットから、姉は青い封筒を取り出した。 「何?それ」 「三万円、入ってるから」 「どうして?」 「あたし、借りてたでしょ?」 「貸してないよ。あたしが貸したわけじゃない」 「多絵が貸してくれたんだよ。あれは、やっぱり多絵にもらったのと同じことだよ。だから、はい」 そう言われても、多絵は受け取ることができなかった。 「そんなに考えこまないでよ」 姉はまたしても三和土に下り、多絵の鞄の中に封筒を捻じ込んだ。それから慌ててサンダルを履くと、多絵の先に立って大きく扉を開けた。 「また、いつでも帰ってきなよね」 鈴の音が気持ちよく玄関に響くと、姉は笑顔でそう言った。少しおどけてVサインをする姉は、多絵のよく知っている、ちょっとお調子者のいつもの姉だった。
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