「あれは小学校に入学する前だったから、僕にはあまり夏休みという感覚がなかった。仙台のお祖父ちゃんやお祖母ちゃんも、僕には知らない人という感じがして、何だか怖かった。そうじゃなくても、その頃の僕はいつもビクビクしていて、自分がどこに居ていいのか分からず酷く不安だったんだ。お兄ちゃんにくっついていることも考えたけど、直ぐにあっちに行けと言われて、それもできなかった。親戚中が集まって、僕より年上の子たちはみんな夏休みという雰囲気にはしゃいでいたけど、僕は人に話しかけることも、話しかけられることも怖くて、一人でじっとしていたんだ」 秋生の声はとても柔らかく、聞いている者を気持ちよくさせるような声だった。何だか寝る前に聞く昔話のようだ。多絵はふと、そんなことを思った。それが伝わったのか、秋生は少しだけ目を細め、語りかけるように話始めた。 「夜、子供たちはみんな大広間で寝ることになった。横一列にずらっと並べられた布団を前にして、僕はどうしようかと思った。みんなが好き勝手に寝る場所を決めていくのに、僕だけ、どうしていいか分からずに、ただ突っ立っていたんだ。多絵、覚えてる?そのとき真っ先に壁際の場所を選んだのは、多絵だったんだよ」 秋生にそう言われて、多絵は自分の記憶を辿った。 確かにそんな気もするが、はっきりとは覚えていない。 それでも、仙台の家のことは記憶にある。あのときは確か、自分や秋生たち兄弟のほかに、父の妹の美津子伯母さんと、その子供のゆかりちゃんと晃くんもいた。その二人がとても意地悪だったことを、多絵は今でも覚えている。とくに、姉のゆかりちゃんのほうは、多絵にやたらと張り合ってきた。人形をいくつ持っているだとか、自分の長い髪をいつもお母さんが編んでくれることだとか、そんなことを自慢げに話していたのを多絵は忘れていなかった。けれど、なぜか秋生の記憶はない。秋生がどんな感じの子供だったのか、自分とどんなことをして遊んだのか、それとも全く関わらなかったのか、何も思い出せなかった。 それを思い出そうとして、多絵は秋生の顔を見つめた。視線が合うと秋生は一端目を伏せたが、すぐに顔を上げ、こちらがハッとするほど真っ直ぐな視線を向けてきた。 「みんなが布団に入った頃、僕はまだパジャマにも着替えずに立っていた。もう泣きたいような気分だった。そのとき、僕を呼んでくれた人がいた。それが、綾ちゃんだったんだ」 そうだろうと、多絵は思った。姉のやりそうなことだ。みんなが楽しくいられるかどうか、煩わしいほど気にするタイプなのだ。秋生のようにぼんやりしている子がいれば、姉が放っておくはずがない。けれど、そんなことで姉を好きになるのは単純すぎるのではないだろうか。多絵はそう思ったが、何も言わなかった。これ以上、ひがんでいると思われたくない。多絵は黙ったまま、自分の膝にくっきりと残っている爪の痕を眺めた。それはなぜか、随分と昔につけられた痕のように多絵には思えた。 「次の日のこと、覚えてる?」 多絵は慌てて顔を上げた。 こんなに喋る秋生も珍しい。話の続きが気になるよりも、そんな秋生がいつもとは別人のようで、多絵は興味を惹かれた。秋生はすぐには話し出さずに一呼吸おくと、ゆっくりと多絵から視線を外した。何か言いにくそうな感じだったが、しばらくすると秋生は口を開いた。 「多絵、覚えてないかな。次の日の朝、綾ちゃんが叔母さんに怒られて、それでみんなにからかわれたこと・・・」 多絵は考えてみた。そういえば、二日目の朝、姉がみんなの前で叱られていた。あれは、そうだ、確か、おねしょだ。姉がおねしょをしてしまって、それで怒られたのだ。怒られたというよりは、呆れられたという感じだった。二年生にもなって、ちょっと場所が変わったからってトイレにも行けないなんて情けないと、母がぶつぶつ言っていた。どうして今頃になっておねしょなんてしたんだろうと、多絵も少し不思議だった。前の晩に、親たちの会話に混ざって、一緒にガブガブお茶など飲んでいたから、それでそんなことになったんだろうと思った。そう思うと、少しだけいい気味だった。調子に乗って大人に混ざったりするからだと、多絵も他の従兄弟たちと一緒になって姉を冷やかした。それまではやたらと姉にべったりだったゆかりちゃんも、掌を返したように姉を馬鹿にしていた。そんなことがあったのを、多絵は今、はっきりと思い出していた。 「ほんとは、僕なんだ」 「えっ・・・」 「おねしょ、僕なんだよ」 秋生は恥じるどころか、酷く真剣で、まるで怒っているような言い方だった。自分を庇ってくれた姉を、今度は自分が庇うかのように、その声はきっぱりとしていた。 多絵は少しずつ分かりかけていた。あのとき、みんなにからかわれながら、姉は恥ずかしそうに照れていた。姉の評価は、あのとき確実に下がったと思う。それでも、姉は一言も言い訳めいたことは言わなかった。そんな姉の姿を、秋生はどんな思いで見ていたのか。 「おねしょに気づいたのは明け方だった。どうしようと思った。知らない家で、知らない人たちの中で、どうしたらいいんだろうって。お母さんを起こしに行く勇気もなかった。そのまま家に帰ってしまいたかった。でも、できるわけないよね。できるわけないんだよ。もちろん帰り方が分からないってことじゃない。そんなのは何処かで誰かに聞けば分かるし、お金もこっそり持ち出そうと思った。でも、できなかった。子供が勝手に、そんなことをしちゃいけないって思った。お父さんやお母さんが許していないことを、勝手にしちゃいけないって、ただ、それだけを思ってた。いい子でいたかったわけじゃない。怖かったんだ、こんな子はいらないって言われることが。そんな勝手なことをして、その後もし、みんなで家に帰るようなことになったら、そのときこそ本当に、僕の居る場所がなくなっちゃうようで、とても怖かったんだ」 それは、胸が締め付けられるような話だった。多絵には秋生の言っていることがよく分かる。自分にも、どこか覚えのあることだった。自分も、ずっと居場所を探していた。多絵は知らず知らずのうち、身を乗り出すように耳を傾けていた。 「僕は泣いてしまったんだ。それも、なるべく声を出さないように、人に聞かれないように。そのときの僕は大声で泣くこともできない、そんな子供だったんだ。でも、綾ちゃんに気づかれた。隣に寝ていたから、すぐに事情も知られてしまった。綾ちゃんはぱっと起き上がると、僕を立たせてパジャマを脱がしたんだ。それで、裸の僕をいったん自分の布団に寝かせると、どこからか僕の服を持ってきて、僕に着せてくれた。それから僕に大丈夫だよと言うと、自分は僕が寝ていた布団の中に潜り込んだ。綾ちゃんはニコニコしながら僕に囁いたんだ。あたしも、この中でおしっこしてみようって。それで、ちょっとの間クスクス笑ってた。それから、綾ちゃんが布団を捲って、自分のパジャマのズボンをピンと張ったら、そこがびっしょり濡れていた。そこから、確かにおしっこの臭いがしていたんだよ」 秘密を打ち明けるような口ぶりで、秋生は話してくれた。 何だか、柔らかいものに包まれているような不思議な時間だった。くすぐったいような、甘ったるいような、そんな時間の感覚に、多絵は口を利くのが厭になっていた。このまま、秋生の話をずっと聞いていたい。温かいものが、多絵の心に広がるようだった。 「そのことがあってから、僕は強くなったんだ。綾ちゃんのように、自分の思いひとつで行動することができるようになった。子供でも、そういうことができるんだってこと、綾ちゃんが目の前で証明してくれたから、僕にも何かできるんだって、すごくワクワクした。その頃の僕は、よく綾ちゃんのことを考えていた。人を好きになるっていうことを、僕は綾ちゃんから教えてもらったんだよ」 秋生はさっぱりと、そう言った。それは、清々しいくらいだった。 何故だか、多絵の心から姉に対する嫉妬は消えていた。それどころか、よくやったという気がしてならなかった。小さい頃、確かに自分も姉には随分庇ってもらった。けれど、その頃の姉の作戦はいつも上手くいかなかった。もしかしたら、姉の作戦が初めて成功したのは、おねしょのときかもしれない。けれど、それでよかったと多絵は思う。そのときに成功してくれて本当によかったと、多絵は心から思っていた。やっぱり、本当に感謝してくれる人のときにだけ成功するのかもしれない。今までに一度も姉に感謝などしなかったことを、多絵は初めて申し訳なく思っていた。
その晩、多絵はなかなか眠れなかった。目を閉じると、いろいろなことが頭をよぎっていく。小さい頃のことや、秋生と行った美術館のこと、これからのことが一緒くたになって、多絵の頭の中をぐちゃぐちゃに掻きまわしていた。 秋生が帰ってしまうと、多絵の気持ちはガラリと変わってしまった。あれほど柔らかい気分でいたはずなのに、一人っきりになると、心の中で消化しきれなかったものが芽を出し、枝を広げ、どんどん大きくなって多絵を不安にさせるのだった。 その気分を一言で言えば、何だか化かされたような感じだった。秋生を好きだという自分の気持ちは、不格好なまま宙に浮いている。もう一度大切にしまっておくべきか、それとも捨ててしまうべきなのか、多絵には分からなかった。秋生が初恋の姉を今も思い続けているのか、肝心なところが謎のままなのだから仕方がない。自分の思いをどう処理するべきか、この先、秋生とどう附き合っていけばよいか、そのことを考えなければならないはずだった。 しかし、それとは別に、多絵の頭には違うことが引っ掛かっていた。何故か姉の顔が、父や母の顔が浮かんでくるのだった。そして、彼らはとても温かだった。多絵は、優しい気分で家族のことを考えている自分がいたことに酷く驚いた。しかし、何だかすっきりしなかった。あたしは、あの人たちを許したのだろうか・・・。そう思うと、多絵はたまらなく不安になった。今までの自分を支えてきたものがなくなるようで、どうしてよいのか分からなくなった。さっき別れたばかりだというのに、多絵は秋生に会いたかった。今になって初めて、自分は一人きりだという実感が沸いてきた。淋しさは恐怖に似ていた。そんな思いを抱えたまま、多絵は知らず知らず、眠りに落ちていった。
目が覚めたのは、ほんの二、三時間後のことである。しきりに喉が渇いて、多絵は水を飲もうと起き上がろうとした。けれど、身体に力が入らない。一瞬、これは夢なのかと錯覚したが、やはり夢ではなかった。もう一度両腕に力を入れると、多絵は何とか起き上がることができた。ゆっくりと頭を持ち上げたその途端、まるで、頭の中身がどちらか片方にグラリと傾くような、酷い頭痛がした。ゾッとするような寒気がして、多絵は思わず布団を握り絞めた。それ以外、どうすることもできなかった。自分の身体が普通じゃないことは十分にわかった。それがどのくらい普通じゃないのかを知るために、多絵は手を伸ばすと、何とか届いた抽斗から体温計を取り出し、脇に挟み込んだ。吐きたくなるような感触だったが、多絵はそれを我慢した。そして、目の前に翳した体温計は冗談ではなく、四十度に届こうかというところだった。
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