「ねえ、どうしても駄目なの?」 「うん」 「どうして、いいじゃない」 「厭だよ」 「ほんのちょっとだけだから、すぐ終わるからさ」 「時間の問題じゃないよ、そうじゃなくて、そういうの、厭なんだ」 「そういうのって?」 「だから、あとに残るだろ」 「わかった。じゃあ、直ぐに捨てるから」 「嘘だよ、いつも捨てないじゃないか。多絵、今まで描いたやつ、全部取っておいてるんだろ」 「だから、今度は捨てるから」 「それでも厭だよ。他のもの描けばいいじゃないか」 「だって、一度、秋生を描いてみたかったんだもん。ね、お願いだから」 「悪いけど、厭なものは厭だ」 「じゃあいい。あたし、勝手に描くから」 「いい加減にしてよ!」 多絵の掌から秋生が鉛筆を奪い取った。 その意外な力強さに、多絵はとても驚いた。秋生がこんなふうに怒るなんて初めてだ。 確かに、多絵はしつこかったかもしれない。でも、ほんのちょっと絵のモデルになって欲しかっただけなのだ。何も、大作を手掛けようというのでもない。ほんのスケッチのつもりだった。ここまで厭がることはないのではないだろうか。 「厭なんだよ、ほんとに。多絵だって、人にやられて厭なことってあるだろ?」 気持ちを落ち着かせるように、秋生は柔らかい声でそう言った。そっと、鉛筆を多絵の手に戻す。多絵はそれを受け取りながら、何だか悔しくて仕方がなかった。 秋生の言っていることは正しい。 これだけ厭がっているのだから、多絵だって諦めればいいのだ。 でも、出来なかった。多絵が秋生にお願いするのは、これが初めてなのだ。いや、初めてのお願いだから聞いて欲しいというのではない。初めてとか、初めてじゃないとか、そんなこと関係なく聞いて欲しかった。多絵の望んでいることを、ただ、聞いて欲しかっただけなのだ。 そういう関係になったって、そろそろいいんじゃないだろうか。秋生と二人だけの時間を持つようになって七年になる。他の人だったら厭なことでも、あたしのお願いなら聞いてくれたっていいんじゃないだろうかと、多絵は思うのだ。
しかし、多絵がそう思うほど、二人の関係は何も進んではいなかった。 それは、ある意味悲しいことかもしれないが、言い方を変えれば、ずっと同じように附き合ってこられたということでもある。一人の人と、ずっと変わらずに附き合っていくことは、口で言うほど簡単なことではない。それが分かっているから、多絵だってしつこくなるのだ。 多絵は、渡された鉛筆をじっと見つめながら小さくつぶやいた。 「あたし、一生懸命描くつもりだよ。あんまり上手じゃないかもしれないけど、でも、一生懸命描くよ。だって、ずっと描きたかったんだもん。秋生のこと、ずっと描きたかったんだもん・・・」 言ってるうちに、目頭が熱くなってきた。これって、好きだって言ってるようなもんじゃないだろうか。ずっと・・・、秋生のことずっと・・・、その後に続くのは、描きたかったじゃない。本当に言いたかったのは、好きだってことだ。そうなのだ。多絵はずっと、そう言いたかったのだ。でも、言えなかった。そんなこと、いつ言ったらいいのか分からない。秋生の重荷にならないように、秋生の迷惑にならないようになんて、そんなことを考えていたら七年も経ってしまった。以前、あれほど多絵を夢中にさせた未来への思いは、時が経つにつれ、どんどん不安に変わっていった。 多絵は少しばかり焦っていた。いつまで経っても秋生の気持ちが分からない。秋生の心の中には誰かいるのだろうか。それは、多絵だろうか。分からない。ちっとも分からないのである。
本当のことをいえば、多絵はこんなふうに秋生と言い争うときを待っていた。モデルになって欲しかったのは本当だが、これほど絡むつもりはなかった。多絵が知りたいのは、なぜモデルになってくれないのかということじゃない。自分のことをどう思っているのか、多絵のことを、特別に思ってくれているのだろうか、そのことだった。 「多絵は、どうして僕を描きたいの?」 すっかり落ち着きを取り戻した秋生が聞く。多絵は言葉に詰まってしまった。秋生は言わせたいのだろうか。多絵の口から、好きだという言葉を、言わせたいのだろうか。 「秋生は、あたしにして欲しいことって、ないの?」 自分の声が酷く情けなく聞こえる。今の自分は、秋生に好かれようと必死だ。自分の気持ちに気がついて欲しいと必死だ。ずっと昔、同じような気持ちになったことがある。父に好かれようと、母に好かれようと、多絵は必死だった。あの頃と、何も変わっていない。 「僕は、誰にも何もして欲しくない。したいことは自分でするよ。何かをして欲しいから、してあげる。してあげたから、して欲しい。そういうの、すごく厭だ」 「もういいよ!」 多絵は秋生の言葉を遮るように言った。 「結局、あたしのためになんて、何もしたくないんでしょ?秋生は自分一人で平気なんだよね。いいよ、それなら。あたしだって平気だもん。今までだって、ずっと一人だったんだから、もう慣れてるもん。だから、もういいよ」 「一人だったって、どういうこと?多絵、一人なんかじゃなかったじゃないか。綾ちゃんだって、叔父さんたちだって、みんないるじゃないか、どうしてそんなこと言うんだよ」 「分かってるくせに、今さらそんなこと言わないでよ」 「何を分かってるって言うの?多絵は何を期待してるの?僕には、何も分からないよ」 「じゃあ、尚更じゃない。何も分かってないなら、どうして一人じゃないなんて言えるの?あたしが今まで、どんな思いをしてきたか、秋生には分からないんでしょ。だったら余計なこと言わないでよ。放っておいてよ!」 いつの間にか、熱いものが多絵の頬を流れ落ちた。こんな姿を、秋生にだけは見られたくなかった。こんな筈じゃなかった。多絵が言いたかったのはこんなことじゃない。いつもそうなのだ。本当に言いたいことを言う前に、遮られてしまう。多絵の望んでいたものとは違う方向に、どんどん流れていってしまう。だから、言いたくないのだ。何も言いたくないのだ。ずっと、そうしてきたのに。今までだって、我慢してきたのに。なぜ、今日に限って・・・。 多絵は後悔する気持ちでいっぱいだった。あたしは、馬鹿なんじゃないだろうか。どうして分からないのだろう。あたしは好かれない人間なのだ。本当に愛して欲しいと思う人からは、好かれない人間なのだ。それが、なぜ分からないのだろう。 秋生は黙って多絵を見ている。べつに困っているふうでもなく、相変わらず掴みどころのない表情で、ただ、多絵が泣き止むのを待っているようだった。何だか、お預けをくってる犬みたいだ。そんなことを思いながら、多絵は秋生の視線を避けるように立ち上がり、そのまま洗面所へ向かった。
顔を洗うと幾分すっきりして、多絵は部屋に戻った。部屋の中が随分と明るく感じられる。多絵は少し恥ずかしくなった。さっきまでの自分は、まるで子供のようだった。あんなふうに突っかかったって、秋生は困るだけだろう。分かっているのに、ムキになってしまった。なんとなく言い訳するように、多絵は秋生に話しかけた。 「あたしね、初めて秋生に会っとき、っていっても、秋生が小樽から引っ越してきたときなんだけど、・・・そのとき、この人、あたしと似ているなって思った・・・」 秋生は何も言わず、ただ、小さく瞬きをした。それが、話していいよという合図のようで、多絵は秋生の前に座り込むと、静かに話し始めた。 「秋生ならあたしの気持ち、分かってくれるんじゃないかって勝手に思ってた。だから、秋生と仲良くなりたかった。だって、秋生は親のことなんて全然気にしないでしょ?親に好かれてなくても、平気でいられるでしょ?あたし、駄目なんだよね。平気なふりしながらも、心のどこかでは、お姉ちゃんみたいに好かれたいって、すぐ思っちゃう。それで空回りして、自滅しちゃうんだ。馬鹿みたいに、何度やっても懲りないの。だから、平気でいられる秋生が羨ましかった。ほんと、いいなって思った。でも、やっぱりあたしには無理だったんだよね」 そう言ってしまうと、多絵は首をすくめて笑顔を見せた。そして、仲直りを求めるように秋生に視線を向けた。 だが、秋生は何だかぼんやりしていた。熱でもあるんじゃないだろうか。珍しく、目の周りが赤く、潤んでいるように見える。 「多絵、僕のことそんなふうに思ってたの?」 それがどういう意味なのか、多絵には分からなかった。そんなふうって、どんなふうだろう。何か気に障るようなことを言っただろうか。つい、夢中になって喋ってしまった。思えば、こんなふうに自分の思いを話したことなどなかった。多絵はつい、今までの思いを考えなしに喋ってしまった。 「僕は今まで、自分が親に好かれてないなんて、思ったことがなかったよ」 それは、多絵が予想もしていなかった言葉だった。多絵は何だか寒気がした。 「僕は、嫌われているの?」 問い掛けるような言い方だったが、それは独り言のようだった。頭の中から何かを探り出そうとするように、秋生の目はぼんやりとしていた。多絵はそのとき初めて、秋生が自分とは違う感覚で家族と過ごしてきたということを知った。自分が酷いことを言ってしまったことに、多絵は今になってやっと気がついた。あたしは何てことを言ったのだろう。嫌われているよ・・・。あなたは親から嫌われているよ・・・。そんなことを言われて平気な人がいるわけないじゃないか。あたし、何てことを言ってしまったんだろう。 「ごめん、ごめんね、秋生・・・あたし・・・」 「同情してたの?」 「えっ・・・」 「多絵は僕を可哀そうだと思ってたの?だから仲良くしてくれてたの?」 「違う!そんなんじゃないよ」 「多絵、言ったよね。僕と会ったとき、自分と似ていると思ったって。何が似ていると思ったの?」 「それは・・・」 「勝手に理解しないでよ!僕のことも、僕の家族のことも、勝手に決め付けないでよ!」 「聞いてよ!秋生が親から嫌われてるって言ったのは、あたしの勝手な思い込みなの。ほんとじゃないの。だから、そのことは本気にしないで。秋生がそう思っていないなら、それが正しいの。あたしが意地悪なこと言っちゃっただけなの」 「違うよ。そんなことじゃないよ。多絵が言ったからって、僕は嫌われてたなんて思わない。そんなことじゃない。そうじゃなくて、多絵がそう思って、だから僕と仲良くしてくれてたことが、そのことが、すごく悲しいよ」 悲しいよと言った秋生の顔は、ちっとも悲しそうではなかった。 多絵はもう、何が何だか分からなくなっていた。一体どうしてこんな話になったのだろう。自分は何が言いたかったのだろう。あたしはただ、秋生に好きだと言いたかっただけなのだ。それなのに、思ってもみなかった方向に話が進んでしまった。そして、分からなくなった。秋生の言う通り、自分はそんなつもりで秋生と附き合ってきたのだろうか。だから秋生を好きになったのだろうか。だとしたら、どうなのだろう。それは間違っているのだろうか。そんなことで人を好きになっちゃ駄目なのだろうか。じゃあ、どんな理由ならいいというのだろう。どんな理由があれば、秋生は多絵の気持ちに気がついてくれるのだろう。
多絵は何だか疲れきってしまった。自分が全力で投げたものは、結局どこにも辿りつかなかった。それが行きつく先は、きっと一人ぼっちの自分なのだろう。それは寂しくも怖くもなかった。そんなふうに自分に帰りつくことには、もう慣れていると多絵は思った。 「秋生、もう忘れて。あたしの言ったこと、気にしないで忘れていいから。秋生の言う通りだよ。あたし、自分と同じように、秋生が親から嫌われていればいいと思ってた。あたしと一緒で、家族の中で居心地悪い思いをしてるんだろうって勝手に想像してた。だから、秋生となら分かり合えるって、そう思ってた。もしかしたら、秋生じゃなくてもよかったのかもしれない。ただ、同じような人を探していただけなのかもしれない」 そう言ってしまうと、多絵は何だかすごくすっきりした気分になった。そうか、そういうことだったのかと、今更ながら自分の気持ちに気がついたようだった。 「勝手だな、多絵は・・・」 「えっ?」 「多絵は自分勝手だよ」 「あたしの、どこが勝手なの?」 「だってそうだろ?相手を勝手に判断して、自分は気を使っているような気になってる。相手を理解しているような気になってる。けれど、相手が自分の思ったような反応じゃないと気に入らなくて、それどころか、嫌われているなんて、そんなふうに決め付けるの、勝手すぎるよ。どうして嫌われているなんて思うんだよ。それが分からないよ」 「秋生に分かるわけないよ。そんなこと、あたしにしか分かるわけない。説明したって、誰にも分かるわけないよ」 「誰にも分からないことが、多絵には分かるの?」 「だって、自分のことだから・・・」 「そうなのかな。自分のことだからこそ、分からないんじゃないかな」 「分かるよ、そんなの。あたしの立場になれば、すぐに気がつくよ。お姉ちゃんとあたしじゃ、親の態度が全然違うんだよ?あれだけ差別されたら、誰だって気づくよ」 「それは差別じゃないよ。多絵と綾ちゃんは違う人間なんだから、まったく同じに扱うわけないじゃないか。親は機械じゃないんだよ。システムで動いてるわけじゃないんだ。だから時には、気分のままに言われることもあるよ。だけど、それを許してあげなきゃ。そういうことができなくちゃ、家族じゃないじゃないか」 「気分のままに言われることが、どれだけ辛いことか、秋生に分かるの?お姉ちゃんはいつもいい思いをして、あたしだけが怒られて、厭な気分になって。それなのに、何も感じないでいられるわけがないじゃない」 「感じるなって言ってるわけじゃないよ。ただ、綾ちゃんだって厭な思いをしたこともあるはずだよ。だけど、そのことで恨んだりなんかしていないはずだよ」 「あんなの、機嫌取ってるだけじゃない」 「やめてよ!多絵、それってひがみだろ」 その場を切るように、秋生がぴしゃりと言った。
多絵は言葉に詰まってしまった。 秋生の言う通りだった。自分はずっと、ひがんできた。そんなこと、ずっと前からとっくに気がついていたのだ。それでも、自分を責める気にはなれない。どうしても、自分が悪いとは思えない。何か言い返したい。秋生が驚くようなことを、言ってやりたい。 「やっぱり秋生も同じだね。あたしなんかよりも、やっぱりお姉ちゃんのほうがいいんだ。結局、秋生もお姉ちゃんのほうが好きなんでしょ?」 落ち着いた声でそう言うと、多絵はクスリと声に出して笑ってみた。それが、どれほど厭らしい顔つきだったか、多絵にはよく分かっていた。自分が酷く意地の悪い人間になっていくのが分かった。多絵は、秋生を傷つけたくて仕方がなかった。 「綾ちゃんは、初恋の人なんだよ」 「へっ?」 思いがけない言葉に、多絵は酷く間抜けな声を出してしまった。何か言おうとしたが、言葉が続かなかった。心臓がドクドクと脈打っている。時計のネジをぐりぐりと回されたように、何かが胸の中心にめり込んだ。 「仙台の夏休みのこと、多絵は覚えている?」 秋生の声が耳鳴りのように多絵には聞こえていた。それを邪魔するものが、自分の膝小僧から伝わってくるジンジンという音だと気づいて、多絵はそっと膝から手を離した。随分と強く握っていたようで、そこにはくっきりと爪の痕が残っていた。何か、大切な話が始まるのだということを、多絵は予感した。そして、それは自分が聞きたい話ではないということも・・・。 膝を擦りながら顔をあげると、自分に向かってくる真っ直ぐな視線にぶつかった。ああ、もう駄目なんだなと、多絵は覚悟した。
そして、秋生は話始めた。
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