ベッドにごろりと横になって、多絵は本を読んでいた。 それは、学校の図書館から借りたもので、「ながいながいペンギンのはなし」というものだった。確かに小学校二年生には、その本は随分と分厚く感じられる。けれど、それはかえって多絵をわくわくさせた。それだけ長い間、誰にも文句を言われずに、一人っきりになることができるからだった。 お母さんは、本を読んでいるときは何も言わない。そうじゃないときは、漢字ドリルをやれとか、ピアノの練習をしろとか、皿洗いを手伝えとか、いろいろやらせようとする。 多絵は絵を描くのが大好きだったから、新聞に挟まってくるチラシの裏によく落書きをした。似顔絵だったり、動物の絵だったり、とにかく思いついたものを描いていく。大きな家を描いて、その周りに花をいっぱい咲かせる。青い空の下、多絵が自転車に乗っている。自転車のカゴにはウサギが乗っていて、長い耳の片方をカクンと折り曲げている。木の枝からカエルが顔を出して、そこから多絵に手を振っている。家の中ではお母さんがフライパンを持ちあげ、朝ごはんの目玉焼きを作っている。オレンジ色のエプロンが、大きな窓の中にはっきりと見える。その奥では、お姉ちゃんがテレビを観ている。テレビにはトムとジェリーが映っている。そして、もう一つの小さな窓の中では、お父さんがみどり色のネクタイを締めている。会社に行くところなのだ。
「あんた、なにダラダラしてんの、早く宿題やっちゃいなさい」 床に足を投げ出して絵を描いていた多絵の腰の辺りを、お母さんが軽くはたく。 「宿題なんて、もおやっちゃったよぉ」 多絵は面倒くさそうに顔をあげた。 「だったらお風呂に入って、早く寝なさい」 「だって、まだ八時だよ?」 「じゃあ、何か他のことしなさいよ。もうすぐお父さん帰ってくるんだから、そんなところで寝っ転がってたら、また怒られるわよ」 「じゃあ、起きて描く」 「あっ、ほら!クレヨン触った手でそこらを触らないで頂戴。もう、油がつくじゃないの」 多絵は慌ててクレヨンをしまう。 「早く手を洗ってきなさい」 「お母さん、ドラマ、始まっちゃうよー」 お姉ちゃんが大きな声を出したので、お母さんはテレビのあるほうに顔を向けた。多絵は渋々立ち上がり、洗面所に行って手を洗った。タオルで手を拭うと、居間に戻ってお姉ちゃんの隣に座る。テレビではちっとも面白いと思えないドラマを流していて、それなのに、お母さんもお姉ちゃんも、それを楽しみにしているようだった。
多絵は何だか退屈だった。せっかくいい絵が描けていたのに、どうして邪魔するんだろう。お母さんは多絵が絵を描いていると、落書きばかりするんじゃないと言う。けれど、多絵の絵が学校で選ばれると、嬉しそうな顔をする。学校で描くのも家で描くのも、どちらも同じじゃないかと多絵は思うのだが、お母さんの中では違うみたいだ。学校で描くのは勉強で、家で描くのは遊びだと思っている。そんなことないのになと、多絵はいつも思うのだった。
「厭ね、この子、子供のくせに溜め息なんかついて」 それが自分に向けられた言葉だと知って、多絵は驚いた。あたし、溜め息なんてついただろうか。それは多絵には覚えのないことだった。しかし、そんなことよりも、お母さんが自分のことを厭な子だと言った。そのことのほうがショックだった。お母さんは多絵のことなど気にせず、またテレビに顔を戻した。けれど、多絵にはテレビ画面が目に入らない。多絵の頭の中ではぐるぐると、同じ言葉が回っている。 厭な子・・・厭な子・・・厭な子・・・ 多絵は立ち上がった。 「あら、やだ。なに泣いてるのよ」 驚いた顔で、お母さんとお姉ちゃんが多絵を見る。 多絵は何も言わずに駆け出した。お母さんが何か言っているようだったが、多絵の耳には聞こえなかった。そのままベッドに入ると、思いきり目をつぶった。しっかり目を閉じているはずなのに、どうしてだろう、涙が流れた。
そういうことがあるから、多絵はあまり居間にいたくないのだ。 だからといって自分の部屋に籠っていると、お母さんが様子を見に来る。そして、絵を描いていたりするとまた、あれこれと言うのだ。 けれど、本を読んでいるのを見ても何も言わない。お母さんの中では、本を読むのと勉強は同じらしい。多絵も本を読むのは嫌いじゃないので、ゆっくりと一人になるには、これが一番よい方法なのだ。 ながいながいペンギンのはなしは、一昨日借りてきたものだった。寝るまでの間、それをゆっくりと読んでいく。2羽のペンギンの冒険の話はとても面白く、多絵は夢中になって読んだ。途中、お父さんが帰ってきて、それを出迎えるお姉ちゃんの声が聞こえたが、多絵は無視して読み続けた。流氷に乗って流されてしまったところなのだ、これからどうなるのか心配で、とても目が離せない。ドキドキしながら、多絵はページを捲っていった。 そのとき、扉をたたく音がした。多絵は面倒臭いと思いながら、仕方なく本から目を離し、なあにと返事をした。 「何やってるの?」 そう言って、お姉ちゃんが入ってきた。 何か用事があるのかと、お姉ちゃんがそれを言い出すのを多絵は待っていた。けれど、お姉ちゃんは何も言わず、部屋の中をウロウロしている。べつに用事はなさそうだった。 「本、読んでるの」 そう言って挟んでいた指を抜き取ると、多絵はもう一度本に目を落とした。 「ふうん・・」 お姉ちゃんは本棚からマンガ雑誌を取り出すと、そのまま絨毯に寝転がり、それを見始める。自分の部屋で読めばいいのに、と多絵は思った。けれど、そんなことよりも多絵は早く続きが読みたかった。さっきまでの氷の世界に早く戻ろうと、多絵は頭の中に真白いものを思い浮かべた。そして、目に入って来る文字を一つずつ、その白い中で形にしていった。だけど、何だか上手くいかない。気になる音がするのだ。
その音の正体はお姉ちゃんだった。マンガをパラパラ捲る音と一緒に、パリパリ、カリカリと音がする。一体何だろうと、多絵は本をふせてお姉ちゃんのほうを振りかえった。 「何食べてるの?」 お姉ちゃんの口が動いている。そこから、パリパリという音がする。もうとっくに夕ご飯は終わったのに、お姉ちゃんは何か食べている。 「へへ、タクアンだよ」 マンガから目を離さずに、お姉ちゃんはそう言った。床に投げ出した足をときどき上下に動かしながら、相変わらずカリカリと、いい音をさせる。その暢気な態度が、なんだか多絵を厭な気持にさせた。 「ご飯のあと、勝手に何か食べたらお母さんに怒られるよ?」 「怒られないよ。だってこれ、お父さんにもらったんだもん」 「ほんと?」 「うん。今行けば貰えるよ。お父さん、ご飯食べてるから」 多絵の心は大きく動いた。 べつにタクワンが大好きというわけじゃないけど、ほんのちょっと、食べたい気もする。さっき、夕ご飯のときに食べたんだけど、でも、ご飯じゃないときに食べるタクワンは、ちょっと違う味がするんじゃないだろうか。お姉ちゃんのようにパリパリいわせたい。ペンギンの話を読みながらパリパリいわせたら、おやつを持って冒険に出たような、そんな気分になれるかもしれない。どうしよう。貰ってこようかな。 「早くしないと、お父さん食べ終わっちゃうよ?」 そう言われて、多絵はベッドから起き上がった。すると、お姉ちゃんもマンガを閉じて多絵に続くように立ち上がる。もう1枚、貰う気なんだな、と多絵は思った。 それをずるいと思うよりは、お姉ちゃんが一緒で心強い気がする。お姉ちゃんにタクワンをくれたのだから、今日のお父さんは機嫌がいいのだろう。いつもだったら、多絵はすぐにお父さんに怒られる。足音がうるさいとか、口の利き方が悪いとか、多絵がまったく気がつかないでいたことを、お父さんはすぐに見つけ出して怒るのだ。 本当なら、多絵だってお姉ちゃんのようにお父さんと喋りたい。 学校であったことや、お父さんにお願いしたいことが、多絵にだってある。だけど、それを言う前に、いつも全然関係ないことで怒られてしまう。お母さんだって、あんまり多絵が怒られるから、だから、お父さんが帰って来る前になると、多絵にあれこれと言うのだと思う。
お父さんの機嫌がよさそうだといっても、多絵はあまり安心できなかった。 ほんとに、くれるだろうか。多絵にもタクワンをくれるだろうか。何だか心臓がドキドキしてくる。何て言えばいいんだろう。もちろん、頂戴って言えばいいんだけど、でも、そんなに簡単な言葉でいいのかな。あたしがそんなことを言ったら、お父さんはびっくりするんじゃないだろうか。お姉ちゃんは何て言ったんだろう。聞いてみようかな。ヘンかな、そんなこと聞いたら。でも、きっと頂戴って言ったんだ。いつもみたいに、ちょっと甘えるような声で、にっこりしながら頂戴って言ったんだ。そしたら、お父さんは「いいよ」って言うんだ。あたしにも「いいよ」って、お父さんは言うんだ。 階段を駆け降りると、多絵は思いきって台所の扉を開けた。 食卓で、お父さんが夕飯を食べている。多絵はテーブルに駆け寄ると、その勢いのまま手を伸ばした。 「お父さん、これ、ちょおだ・・・・・」 「なんだ、お前は!」 多絵は慌てて手を引っ込めた。手の甲がジンジンしている。箸で叩かれたのだ。 「人が食事しているときに、いきなり手を出す奴があるか、行儀の悪い」 多絵は何も言わなかった。何て言ったらいいのか分からない。だって、多絵は頂戴って言おうとしたのだ。それなのに、それを聞く前にお父さんがぶったのだ。あたしは悪くない。あたし、なんにも悪いことなんてしていない。 多絵はほんの少し笑ってみた。そうすれば、何かが変わるかもしれないと思った。ほらっと言って、お父さんがタクワンをくれるかもしれない。いや、もうタクワンなど欲しくなかった。それよりも、分かって欲しい。あたしは、悪くないんだ。 「多絵、謝りなさい!あんた、さっき食べたでしょ。卑しいことするんじゃないの」 台所仕事をしていたお母さんが怖い顔でそう言った。けれど、多絵は固く口を噤んだままだった。そして、もう笑ってはいなかった。くるりと背を向けると、そのまま走りだした。扉のところで、驚いた顔のお姉ちゃんとぶつかったが、それも無視して自分の部屋に走り込んだ。その途端、こらえていた涙が溢れ出した。涙だけじゃなく、声までもが嗚咽となって、多絵の小さな身体を震わせた。
どうしてなのだろう。 どうしていつもあたしだけが、こんな目にあうのだろう。 きっと、お父さんもお母さんも、あたしが嫌いなんだ。 大嫌いなんだ。 あたしだって、嫌いだ。 あんな人たち、大嫌いだ。 みんな、死んじゃえばいい。 お父さんも、お母さんも、お姉ちゃんも、みんな死んじゃえばいいんだ。
多絵は激しくそう思った。思っても、思っても、まだ足りなかった。涙は後から後から流れてくる。ちっとも止まらなかった。そのとき、小さく扉が開いた。お姉ちゃんが泣きそうな顔で立っていた。それを見たら、何だかますます涙が出てきた。自分の中に溜まっていたものが、抑えきれずに多絵の口から飛び出した。 「どうしていっつも、あたしが怒られるの?お姉ちゃんは怒られないのに、どうしてあたしばっかり・・・・・」 お姉ちゃんは、ちょっと困った顔をした。だが直ぐに、ポロポロと泣き始めた。 「ひどいよ・・・。お父さん、も、お母さんも、・・・ひどい・・・」 そう言って、お姉ちゃんはしゃがみ込んだ。 どうしてお姉ちゃんが泣くのだろうと、多絵は不思議な気がした。お姉ちゃんなんて、何も悲しいことないじゃないか。お父さんからも、お母さんからも可愛がられて、どうしてひどいなんて言うのだろう。何がひどいのだろう。あたしのことを嫌いだということが、ひどいのかな。でも、嫌いなものは仕方ない。あたしだって、ピーマンが嫌い。隣の席のアツシ君が嫌い。算数が嫌い。ピアノも嫌い。それから、あたしを嫌う人が嫌い。あたしを嫌う、お父さんとお母さんが、大嫌いだ。 いつの間にか、多絵の涙は乾いていた。もう、そんなに悲しくはなかった。そして、いつまでも泣いているお姉ちゃんが、何だか邪魔になった。早く一人になりたかった。Tシャツの肩口で一度大きく瞼を拭うと、多絵はサッパリとした声で言った。 「お姉ちゃん、あたし、大丈夫だよ」 「えっ・・・・」 「もう平気。大丈夫だから」 お姉ちゃんは何か言いたそうな顔をした。けれど、大きく頷くだけで、鼻をグズグズいわせながら出て行った。そのまま、自分の部屋に入っていったようだった。すすり泣く声が、微かにしていた。
お姉ちゃんがいなくなると、多絵は勉強机の上にあるペン立てから工作用の鋏を抜き取った。 それから、ゆっくりと窓辺に近づいていく。 部屋に戻ってきたときから気になっていた。 多絵は手を伸ばし、そこに掛かっているカーテンを摘みあげた。真ん中辺りを避けて、端の、下のほうを引っ張り上げる。そこを適当に小さく丸めると、多絵は思いきって鋏を当てた。ジョキッと音がして、丸めた部分が切り取られる。持ち上げられていたカーテンがバサリと落ちると、そこにはいびつな小さい穴が開いていた。 多絵は窓から少し離れてその穴を眺めた。 後悔する気持ちなんて少しもなかった。 これは、あたしの心臓だ。穴を開けたのはあたしじゃない、お父さんとお母さんだ。二人が穴を開けたんだ。こうやって、二人があたしにしたことを残していこう。いつまでも忘れないように、ここに残しておこう。どんなことがあったって、絶対に許さない。いつまでも嫌いでいるように、二人を好きにならないように、ここに残しておくんだ。 多絵はもう一度カーテンに近づき、それを握り締めた。なぜか、とても愛しいもののようにも感じられた。それが、お母さんの手作りのカーテンだということを、多絵はもちろん知っていた。だからいいんだと、多絵は強く強く思っていた。
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