20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:ローズマリー・アンド・タイム 作者:スチン

第5回   5



 多絵のそんな気持ちが通じたかどうかは分からないが、多絵と秋生は自然に仲良くなっていった。多絵が最初に思ったほど、秋生は無関心な人間ではなかった。相手が多絵だから、秋生が心を開いたというのでもない。相手が誰であっても、きっと秋生は同じように接するのだろう。だからといって表面的な感じではなく、秋生は自然に、そこにいることができる。訊ねれば答えてくれるし、分からないことは分からないと言う。そして、自分が夢中になれるものがあると、素直に夢中になる。マイペースのようであるが、一緒にいる人を無理やり道ずれにするような強引なことはしない。彼と一緒にいて気を使ってしまう人がいるなら、それはその人が悪い。自分に気を使って欲しいから、その人は気を使うのだろう。そんな下心を持って近づいても、彼はそれに応えてはくれない。だからといって裏切られたとか、何を考えているのか分からないなんて、そんなふうに思うのは間違っているように思う。

 そう思ったからこそ、多絵は自分の愚痴を秋生に聞いてもらおうとは思わなかった。
 高校は違っても、電話一本で連絡を取ることができる。多絵は高校生になると、それまで貯めていたお小遣いで携帯電話を買った。親に怒られても、そんなこと構わなかった。そうしなければ、結局は自分が厭な思いをする。今までがそうだった。多絵が電話で話し始めると、決まって母が邪魔をする。食事の用意ができたとか、風呂に入れとか、そんなことで話しを中断させる。姉も同じ目にあっているならまだいい。ところが母は、姉には何も言わない。その電話が姉の女友達からであれば、二言三言、当たり障りのないことを言ってから取り次ぐし、相手が男の子ならことさら物分かりのよい振りをする。何時であろうと、どれだけ喋っていようと、母は何も言わないのだった。
 母がそうなるのには、姉に理由がある。姉は、自分の交友関係をすべて親に話してしまうタイプの人間だった。女友達の噂話から、自分が好意を持っている男の子のことまで、聞いてもいないのにペラペラと喋る。挙句の果てにはボーイフレンドを家に連れてきて家族に紹介したあと、学校を卒業したら結婚するなどと言い出して、親を仰天させたりするのだった。
 そんなことが何度かあり、その都度、親に説得される。すると姉は泣きながら、だって愛してるんだもんと、聞いてるほうが気持ちが悪くなるようなことを平気で言うのだった。
 けれど、気分が悪くなるのは多絵だけで、親は驚くほど真剣に姉の話を聞いている。今はどれほど好きでも、この先それが変わるかもしれない。これからもっともっといろんな人に出会うのだから、結婚はそれから考えても遅くはないなどと、まるで慰めるような調子で言うのだった。
 そんなわけだから、姉が携帯電話を持ちたいといったとき、親たちはそう反対しなかった。携帯電話を使って、親に内緒で何かをすることはないと思ったのだろう。すんなりと買い与えてしまった。それを羨ましいと思わなくもないが、だからといって自分も姉と同じように、身の回りのことを何もかも親に話してしまう気にはなれなかった。たとえ話したところで、適当な言葉で濁されてしまう。肝心な部分には触れずに、曖昧な言葉ではぐらかされてしまう。どうも、そんな気がするのだった。
 だから、多絵は自分で携帯電話を買った。電話代もお小遣いの中から遣り繰りしている。誰にも文句は言わせない。そのおかげで、いつでも心おきなく秋生と話すことができた。だからといって、その場でだらだらと長話をすることはない。映画を観る相談をしたり、買い物に行く約束をしたり、お互いの都合を確かめ合うだけだった。

 秋生はジャズが好きで、多絵が聞いたこともないようなミュージシャンのレコードを大量に持っていた。それでもまだ足りないらしく、買い物に出ると、そこいらじゅうの中古レコード店をはしごして、じっくりと見て回った。多絵と一緒にいることなど忘れているように、次々と店を変えていく。多絵は慌ててその後に着いていく。ぼんやりしていたら、知らないうちに秋生がいなくなっていたということもあって、多絵は笑ってしまった。そんなことがあっても、多絵は秋生といることが楽しかった。気を遣われない分、こちらも気を遣わないですむ。それはとても楽だったし、何だか落ち着いた。
 二人はよく美術館にも足を運んだ。多絵は絵を描くことが好きだったので、興味のある展覧会があると秋生を誘うのだ。
 多絵は美術館が好きだった。
 微かにカビ臭い乾いた空気が、まるでインドのお香のように鼻の奥を刺激する。油絵ばかりが展示してあるところでは、絵具が乾ききっていないように、生々しさと鮮やかさを持って多絵の目に染み込むし、水彩画ではまるで綺麗な音色の音楽を聴いたような気分になる。人が何日間もかけて形にしたものたちは、それだけで多絵を圧倒し、飲み込んでしまう。そんなふうに無条件で自分を飲み込んでしまう場所が、多絵は好きだった。
 そんな中で、とくに気に入った絵があると、多絵は何十分でもその前に立っている。暖かい午後、眠りたくないのに自然に目が閉じてしまう、そんな心地よい気だるさの中にいるようで、なんだかその場を動きたくなくなるのだ。だからといって、その絵が欲しくなるということはない。やっぱり、絵は美術館が似合う。ゴタゴタした日常生活の中に持ってきてしまっては、何だか絵が死んでしまうような気がするのだった。そして、気づくと秋生もまた別の場所で立ち止まっている。彼が見ているのは、たいてい人物画だった。それも、あまり美しくはない女性の顔が好みのようだった。秋生はどんな女の人が好きなんだろう。多絵はふと、そんなことを思った。

 秋生が誰かとつきあっているとか、好きな人がいるという話を、多絵は聞いたことがなかった。聞いたことはないが、多分、そんな人はいないんじゃないかと思う。もし、そんな相手がいるのなら、こんなふうに多絵とぶらぶらしたりはしないんじゃないかと思う。
 自分がその相手だということはないだろうか。多絵は考えてみた。そうだともいえないし、違うともいえない。なんとも判断がつかなかった。けれど、この想像は多絵を夢中にさせる。秋生が好きだという自分の気持ちに、多絵は随分前から気がついていた。気がついてはいるが、それを秋生に伝えようとは思わなかった。好きというのは多絵の勝手な感情であって、秋生には関係のないことだ。秋生には関係ないのに、そのことについて何か答えろと問うのは、秋生も迷惑なのではないかと多絵は思っている。もしも、万が一にも、二人が同じ気持ちになれるのなら、そのときを待ちたいと多絵は考えていた。そして、その日はいつかやって来るような気がした。
 高校三年になって、秋生が札幌の大学を受験するつもりだと聞いたときにも、多絵は自分の気持ちを打ち明けようとはしなかった。そして、秋生は大学受験に失敗したものの、そのまま札幌の予備校に通うことになってしまった。再び多絵が秋生に会えたのは、秋生が二浪したのち、親に頼まれて仕方なく受験した滑り止めの大学に通うために、帰ってきたときだった。久しぶりに会えた秋生は、以前より少し近寄りにくい感じがした。目指す大学を諦めたことが影響しているのか、あるいは、札幌で何かあったのではないかと多絵は想像した。けれど、暫くするとそれも気にならなくなった。そのときのちょっとした違和感を、多絵は気のせいとしてやり過ごしたのだった。



← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 2151