秋生の父の仕事の関係で、秋生たち一家が北海道から多絵の住む街に引っ越してきたのは、多絵が高校に入学するほんの少し前、ちょうど多絵の誕生日がくる三月の中頃のことだった。 引っ越すことは分かっていたので、その準備は随分前から始められていて、秋生も最初からこちらの高校を受験していた。だから、そう慌てることもなく、引っ越してきた晩に二家族は揃って夕食を共にした。
そんなことは随分と久しぶりだった。多絵が学校に通うようになってからは初めてのことだったかもしれない。そして、すっかり大人びた秋生を見たとき、多絵は秋生が自分と同じ種類の人間であるとすぐに気がついた。 相変わらず周りに気を配る多絵の姉と、気を遣われることに慣れている秋生の兄、そして似たような両親たちの中で、秋生は何の色も発していなかった。ただ、そこにいるだけだった。彼の周りにだけ薄い膜が張っている。それを破るのはとても乱暴なことのような気がして、多絵は声をかけることができなかった。それなのに、姉は平気で話しかける。 「秋くん、どんどん食べてね。これね、あたしが作ったの。けっこう自信作なんだからー」 テーブルの真ん中にある大根とブリの煮物を指差しながら、姉は親しげな声をだした。 「あら、これ綾ちゃんが作ったの?随分と和風なもの作るのねぇ。それとも、伯母さん達に合わせてくれたのかしら」 太った身体を前のめりにして秋生の母は手を伸ばし、それを秋生の兄に取り分けてやる。 「違うのよ。これ、お父さんが好きなもんだから、何かっていうとこればっかりなの。他に作れないのよ、この子」 「お母さん、余計なこと言わないでよ。あたしだって年頃なんだから、料理くらい作れるって思われてたほうが、伯母さんだって縁談持ってきやすいでしょ?」 「あら、綾ちゃん、もう結婚のこと考えてるの?」 「だって、うちは娘二人でしょう?そうするとお婿さんもらわなきゃいけないじゃない?なかなかいないよ?そんな人。だから、早めに手を打っておかないと、あたし売れ残るの厭だもん」 「へぇ〜、しっかりしてるのねぇ。でも、孝司さんが気にいるような人、伯母さん連れてくる自信ないわよぉ」 秋生の母はちらりと多絵の父に視線を向けてから、姉のほうを見てにやりとした。多絵の父は黙って日本酒の杯を空けている。それを見て、秋生の父が大きな笑い声をたてた。 「こりゃあ大変だ。綾ちゃん、そのときは伯父さんが説得してやるから、相談においで」 「ほんと!伯父さん、お願いね」 「お兄さん、あんまり本気にしないで下さいね。この子、たいして真剣になんて考えてないんだから」 「やだ〜、あたし真剣よ。将来、お父さんとお母さんの面倒みるの、あたしなんだからね」 「俺は誰にも面倒なんてみてもらわないぞ」 「あなたまで、真面目に聞かないでちょうだい。ほんとにこの子、調子がいいんだから」 「まぁ、いいもんじゃないか。娘を持つと大変だということだ。大変だけど、やっぱりいいもんだ。うちは男二人だからな、ちょっと寂しい気もするぞ」 「そうよねぇ。うちは誰が老後の世話をしてくれるんだか、わかりゃしない」 「そんなことないでしょ?二人とも、こんなに立派になって。樹くんなんて医大生でしょ?これからますます楽しみじゃないですか。男の子はそういう楽しみがあるから、羨ましいわぁ」 多絵の母は、黙ってもくもくと食べている二人の息子を頼もしげに眺めた。 「伯母さん、二人がお嫁さん連れてきたら、やっぱり気に入らないんじゃないの?」 姉が意地の悪い声で言う。 「そんなことないわよぉ〜。大体、気に入らなくたって、樹は一度言ったら聞かないし、秋生なんて、親に何も言わずに決めちゃいそうだし、伯母さん、寂しいものよぉ」 伯母の気の抜けた声にみんなは笑った。みんなといっても、本当はそれぞれの両親と姉だけである。けれど、その場の空気をつくっているのは彼らなのだから、やはりみんなということになる。
多絵は酷く居心地が悪かった。彼らがわざとらしく、無理に楽しそうに振る舞っているようで、何だか馬鹿馬鹿しくなった。姉が会話の中心になると、いつもこうなのだ。親が口を挟みたくなるようなことをわざと言う。大人びた、ませた口を利く。それは、自分がまだ親の手の中にいる子供だということを十分知った上での口の利き方だ。決して大人として扱って欲しいということではない。自分はまだまだ親から心配されるべき対象であることを分かっていて、親が口を挟む機会をちゃんと作ってやる。親は、娘がまだ自分たちの手元にあることに安心して口を挟む。そんな娘が親からすればどれ程可愛いか、姉はちゃんと知っている。それが姉のやり方なのだ。
「多絵ちゃんはなにが得意なの?」 ぼんやりしていた多絵は突然伯母に声をかけられ、一瞬、何を訊かれているのか分からなかった。 「えっ・・・」 「この子は駄目よ。料理どころか、家のことなんてまるでしないんだから。家にいたって自分の部屋に籠りっきりで、何やってんだかさっぱり分からないのよ」 多絵の母が、伯母にというよりは秋生と兄に話しかけるようにそう言った。 「自立してんのよ、多絵は」 その、姉の言葉が我慢できなかった。何だか馬鹿にされているような気がして、多絵はつい、言ってしまった。 「お姉ちゃんみたいに、親の機嫌とったりできないもん」 母が、不味いものを食べてしまったかのような顔をした。伯母は瞬間、箸を動かすのを止めたが、聞かぬふりをするほうが良いと判断したのか、焼きエビの殻をむき始めた。 「べつに機嫌なんてとってないわよ。あたしは部屋にいても何していいか分かんないんだもん。だから、みんなで喋ってるほうが楽しいだけ」 「お姉ちゃんは無意識だからね。機嫌とってることに気づいてないんだよ」 父が手にした杯をカタンと置いた。 「いい加減にしろ!何で楽しく食事できないんだ。久しぶりに顔を合わせたっていうのに、お前はどうして人が厭な気分になるようなことしか言えないんだ」 父の剣幕に、みんなすっかり箸を止めてしまった。伯父だけが赤い顔をニヤニヤさせながら杯をぐびりと空にすると、一つ、大きな咳払をした。 「まあ、もういいじゃないか。多絵ちゃん、今度高校生だろ?秋生と一緒だもんな。今、そういう時期だろ。一番親に反発したい頃だ。多絵ちゃんなんて、いいほうだ。秋生なんて、なんにも言わないからな」 「そうよ、ほんとに。何考えてんだか分りゃしない」 伯母が不自然に明るい声を出す。多絵は秋生をちらりと見た。まるでよその人のことを言われているように、秋生は静かに箸を動かしはじめる。何も感じていないように見えるほど、その姿は平静としていた。どうしたらこんなふうに、平気でいられるのだろう。多絵は、先ほどまでの感情的な自分が突然恥ずかしくなった。と同時に、秋生に強く心を惹かれた。この人のようになりたいと、瞬間的に思った。 ドキンと、心が跳ねた。何だか、待っていた人にやっと出会えたような気がしたのだった。
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