深夜、面白そうな映画が立て続けに二本テレビで放送され、それを観ていたため眠りについたのは明け方になってからだった。多絵が目を覚ましたのは昼近くになってからで、そのとき秋生はまだぐっすりと眠っていた。 多絵は洗面所で顔を洗い歯を磨くと、台所で簡単な朝食を作り始めた。 台所とその奥に続く六畳の部屋は、薄いガラスの引き戸で区切られている。夜中にトイレに起きたときなど、その引き戸がガラガラと厭な音をたてわけもなくゾッとするので、多絵は引き戸を開けたままにしていた。 ティーポットを温め紅茶の準備をして、サラダを作ろうと野菜を刻む多絵の視界の隅に、膨らんだ布団の丸みと、そこからほんの少しだけ飛び出した秋生の頭が微かに引っ掛かる。 けれど、音をたてないようにと注意する必要はなかった。秋生は物音なんかで起きるようなことはない。隣で寝ている多絵が不安になるくらい、秋生は一度布団に入るとまったく動かなかった。寝返りを打つこともなければ寝言を言うこともない。死んでいるようなもんだと、多絵は何度も思ったことがある。一日のうち三分の一は寝ているわけだから、この人は三分の二しか生きていない。誰だってそうじゃないかと思うかもしれないが、でも、そうでもないんじゃないだろうか。 例えば厭な夢をみて、とても不安な気分で目覚めることがある。暫くは気持ちが落ち着かなく、誰かにそのことを話したいような気になる。または、疲れきって眠りに就いたはずが、なぜかすぐに目覚めてしまう。不思議とすっきりしていて疲れも取れている。その逆もある。ぐっすり眠ったはずが、眠る前以上に疲れて目覚めることもある。まるで、無意識のうちに作業にでも駆り出されていたかのようだ。そんなとき多絵は、ああ、私は眠っていただけで死んでいたわけじゃないんだな、と思うのだ。眠っていたときのことが、目覚めたときに感覚として残っている。それは、眠っている間も自分の中で活動するものがあるからだ。目覚めに善し悪しがあるのは、そういうことだと思っている。 けれど秋生はそうではない。スイッチが切れたように眠り、スイッチが入るように目覚める。不機嫌に起きることもなければ、十分に力を蓄え、それによって揺り起こされたというのでもない。あるいはそれは、動物的な勘なのかもしれない。多絵には分からない何かを感じ、警戒を解いたり、あるいは察知して目覚めるのかもしれない。 そんな秋生を、多絵はほんの少し悲しく思う。布団に入った途端に遠くに行ってしまうようで、何だか淋しいのかもしれない。
サラダを作り終えたところで、多絵は手を拭い、奥の部屋に入っていった。休みの日には必ず、アロマオイルを焚くことにしている。食事中では香りが気になるので、食後にお茶を飲みながら香りも楽しむ。一人暮らしを始めてからの多絵の唯一の趣味であり、これは多絵の仕事にも関わっていた。短大を卒業した多絵は、アロマオイルやバスグッツなどの輸入雑貨を扱う会社で働いているのだ。 最近のお気に入りはローズマリーだ。多絵は密かに、これは自分の香りだと思っている。スッと鼻を通る樟脳のような懐かしい香り。海のしずく、マリア様のバラ、などの呼び名もあるが、多絵にはもっと日本的な、古臭い感じがする。昔、田舎の祖母の家でそっと開けた箱の中の匂い。いとこ達とのかくれんぼで潜り込んだ押入れの中で、布団に挟まれて嗅いだ匂い。一日中、汗だくになって遊んだ祖母の家での夏休み。ローズマリーの香りは、多絵に遠い昔の夏の日を思い出させる。オイルポットの皿に水を入れ、ローズマリーを二滴垂らす。そこにタイムを一滴。このブレンドが最近の多絵のお気に入りだった。ローズマリーもタイムも、その香りは強くしっかりしている。リラックスを誘うラべンダーや甘美なローズオットーなどとは違い、頭をシャンとさせる刺激がある。何だか潔い感じ。そんなところも気に入っている。そして、ローズマリーもタイムも、どちらも高血圧の人には向かない。血圧を上げる作用があるからだ。朝の苦手な低血圧の多絵には、どちらも心地よい香りだった。
オイルポットに火をつけるのはまだ早い。多絵は眠っている秋生の枕元に近づき、その顔を覗き込んでみた。 やっぱり、死んでいるみたいだ・・・。 台所に背を向けるように、秋生は壁に向かって目を閉じていた。左頬を上にしているが、しっかりと被った布団に覆われて口元は隠れている。そう高くはない頬骨の辺りが青く光っている。台所仕事をしていた多絵の手と秋生の頬とでは、どちらが冷たいだろう。 多絵は今まで一度も、この顔に触れたことはない。いや、無意識のうちにはあるかもしれないが、意識的にそうしたことはない。 それは逆のこともいえる。 多絵は秋生に、ある感情を持って触れられたことはない。二人の身体が同じ感情を持って触れあうことは、今まで一度もなかったのだ。 なかなかそういう気になれないのは、いとこ同志ということもあるのかな、と多絵は思っていた。秋生は、多絵の父親の兄の子で、同じ年に生まれた。生まれ月は多絵が春に生まれ、その三カ月後に秋生が生まれたので多絵のほうが少しお姉さんだが、精神的には断然、秋生のほうがしっかりとしていた。小さいころから秋生は自立し、大人びている。そういうところで秋生は大人に好かれない。そこだけが、二人の似ているところだった。 秋生の顔を見つめながら、多絵は自分の顔を少し近づけてみた。なぜそんなことをするのか自分でも分からない。ただ、突然そうしてみたくなった。肩まで伸びた髪を右耳の辺りで一纏めに束ねると、多絵は自分の左頬をそっと秋生の左頬にくっつけた。ぺたりと吸いつくように、微かに湿った皮膚が多絵の頬を軽く押さえる。予想に反して、秋生のそれは温かだった。 なんだか不思議な気分だった。それはとても落ち着くようであり、反対に酷く焦るようでもある。けれど一瞬、多絵は何かが交じり合うような感覚を味わった。心臓がきゅっと痛くなったその瞬間、多絵は頭から枕の中に突っ込んでいった。 慌てて身体を起こした多絵を、すっかり目覚めた秋生が見ている。今まで寝ていたというぼんやりしたところはどこにもなく、何かを切るような目が、真っ直ぐ多絵に向かっていた。 「あ、ごめん・・ごめんね。何だか冷たそうだったから、気持ちいいかなと思って。朝御飯作ってたら、何だか暑くなっちゃって・・・」 秋生はまだ多絵を見ている。その顔には相変わらず表情というものがなく、秋生が何を思っているのか多絵には分からなかった。驚いているはずだ。厭な気がしただろうか。何か言って欲しかったし、そうじゃなければ表情に出して欲しい。何も伝えようとしない顔を、多絵は見ているのが辛くなってきた。 「できたの?」 「えっ・・・」 「朝御飯」 多絵は慌てて返事をした。それを聞いているのかいないのか、秋生はむくりと立ち上がるとザッとカーテンを引いた。 「いい天気だ」 そう言って、秋生はすたすたと洗面所に消えた。 恥ずかしさと気まずさが入り交じったまま、多絵は座り込んでいた。その耳に、秋生が顔を洗う音が聞こえてくる。 ぱしゃ・・・ぱしゃ・・・ ぱしゃ・・・ぱしゃ・・・ 秋生に負けたような気がした。見えない力関係が出来てしまったようで、多絵は思わず布団のはしを強く握りしめた。自分は、秋生のことを何一つ知らないのではないか・・・。 突然、そんな気がした。
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