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作品名:ローズマリー・アンド・タイム 作者:スチン

最終回   10



 平日、午後の電車は空いていた。
 同じ車両にはほんの四、五人しか乗っておらず、ましてや自分と同じ年頃の女の子など一人もいなかった。多絵はほっとした。ぺっとりとしたバサバサの髪の毛や、汗臭い身体を、いくら知らない人とはいえやっぱり見られたくなかった。ましてや自分と同じ年頃の女の子がいれば、委縮して顔も上げられなかっただろう。そんな気分で終点まで乗っていかなければならないのはまったく厭だった。だから、向かいの席に座る人がいないため、そこから入ってくる陽射しがおもいっきり多絵の顔を照りつけても、多絵は気にしなかった。そして、近くに誰もいないということが、さっきから多絵の心をくすぐっていた。
 多絵は気になって仕方がなかった。母が直したカーテンはいったい、どうなっているのだろう。あんなふうにしてしまったものを、どうやって直したというのだろう。
 それは、さっき玄関先でカーテンを垣間見たときに感じた違和感につながっている。母が手を加えたカーテンだから、引っ掛かったのだ。あのとき、自分のものだと思いながらすぐにそれを否定したのは、何も逃げようとしてのことではない。やはり、どこかが違っていたのだ。以前のカーテンとは、何かが変わっていたのだ。
 最後にあのカーテンに触れたときのことを、多絵は思い出していた。
 それは、多絵が家を出た日だった。ちょうど一年前の今頃、大量に飛んでいた花粉が少しずつ減り、変わったマスクをつけた人を見かけなくなったと思った頃だった。何日か置きに雨が降り、そろそろ本格的に梅雨に入るんだと、そう思ったときのことだった。

 その日、仕事から帰って早々に多絵は厭なものを見た。
 洗面所で手を洗い、うがいをした多絵が居間に入っていくと、姉が母からお金を貰っているところだった。その金額を見て、多絵は頭に血が上った。母が姉に渡した三万円は、昨日、多絵が自分の給料の中から家に納めるお金として母に渡したものだったのだ。
「ちょっと、どういうこと!」
 多絵の大声に、二人が振り返った。
「どうしてお姉ちゃんに、そんなものあげなくちゃならないの?それ、あたしが出したお金でしょ!」
「だって、新しいダンスシューズ買うのにお金がいるって言うんだもの・・・」
 母は困ったような、しかし、どこか喜んでいるような半端な笑顔で、まるで言い訳でもするようにそう言った。
「知らないよ、そんなの。お金がないなら買わなきゃいいでしょ」
 多絵は強い口調を変えなかった。すると、姉が言い返してくる。
「だって穴が開いちゃったんだもん。それって仕事に使うわけだから、必要経費よね」
「だったら会社で出してもらってよ」
「多絵、それって嫌味?あたし、ただのアシスタントだもん。会社が出してくれるわけないじゃん」
「だからって、あたしの三万円で買うことないでしょ」
「どうして多絵のお金なの?お母さんがくれるんだから、お母さんのじゃない」
「あたしが出したんだよ、食費の三万。お姉ちゃんなんて一円も出してないじゃない」
「だって、あたしアルバイトだもん。それも、先生が足りないときだけの臨時のインストラクターだもん。あんたみたいに高給取りじゃないからね、あたし」 
「ふざけないでよ!あたし、お姉ちゃんのために働いてるわけじゃないんだからね。大体、そんなの仕事じゃないじゃない。お金が欲しいなら、ちゃんと働いてよ」
 多絵は姉の手からお金を毟り取った。
「ちょっと何するのよ。お母さん、止めてよぉ」
「多絵、止めなさい」
 母が仲裁に入る。しかし、一方的に多絵を責める言い方だ。
「どうしてお姉ちゃんの味方するのよ。お姉ちゃんが悪いんじゃない」
「いい加減にしなさい。お金のことで、みっともない」
「いい加減にして欲しいのはこっちだよ。冗談じゃないよ。何なのよ、いつもいつも。お姉ちゃんばっかりいい思いして、やってられないよ」
 そう怒鳴ったあと、多絵は握っていた札をビリビリと破り捨てた。
「やだぁ!」
「何てことするの!」 
 姉が大声を出したのと、多絵が母にぶたれたのはほぼ同時だった。それをきっかけに、多絵は駆け出した。階段を駆け上がり自分の部屋に飛び込むと、夢中で抽斗を探り、そこから鋏を引っ張り出した。それをしっかり握りしめ、カーテンに走り寄る。その勢いのままに、多絵は鋏を振り上げた。許せない。絶対に、許せない。多絵は辺り構わずカーテンを切り刻んだ。縦に、斜めに、横に、まるで突き刺すようにめちゃくちゃに鋏を振りまわす。大きく振り上げた多絵の手から、勢い余って鋏がすっぽりと抜けどこかに飛んでいった。それが壁に当たり、またどこかに当たるような音がした。鋏を失くしても、怒りは納まらなかった。多絵はカーテンをしっかり掴むと、思いきり引っ張った。レールが歪む感触がある。それでも力を抜かずに体重をかける。ブチッ・・ブチブチッ。もう少しだ、そう思った瞬間、多絵は勢いよく尻もちをついた。そして、両手には左右二枚のカーテンが、しっかりと握られていた。
 その音を聞きつけて、誰かが階段を駆け上がってくる。ノックもなく開かれた扉から飛び込んできたのは母だった。母はほんの一瞬立ち止まった。しかし、すぐに窓辺に寄ると、しゃがんでいる多絵を突き飛ばし、多絵の手からカーテンを奪い取った。
 母はカーテンのあちこちを持ち上げながら、立ったままでいた。そして、そんな母を見つめながら、多絵は座り込んでいた。
「酷いこと・・・、何て酷いこと・・・」
 そう言った母は涙を流していた。その姿が、もう一度多絵を傷つけた。どうしてだろう。どうして分かってくれないのだろう。傷だらけになったのはカーテンではない。あたしなのだ。それが、どうして分からないのだろう。どうしてみんな、多絵より先に傷つくのだろう。先に傷ついて、多絵を悪者にするのだろうか。
「今日が初めてじゃないよ」
 冷たい声で、多絵はそう言った。
「気がつかなかったでしょ。小学生のときから、こうやってカーテンに穴を開けてたの、知らなかったでしょ。なるべく分からないところに開けてたけど、でも、そうじゃなくても気づかなかったかもね。あたしのことなんて、どうせ気がつかないもんね」
 母は静かにすすり泣いていた。多絵はゆっくり起き上がると押入れを開け、そこから旅行鞄を引っ張り出した。その中に、適当に洋服や日用品を放り込んでいく。怒りのままに、手当たり次第のものを投げ入れていった。そうしていても、母はまだカーテンをいじっていた。たくさんの切れ込みの上を、何度も撫で擦っていた。そんな母を置き去りにして、多絵は家を出た。心当たりの友人と、今まで少しずつ貯めた貯金だけが、そのときの多絵の大きな支えだった。 


 多絵は辺りを見回した。いくつか駅を過ぎる度に乗客は減り、今では自分の他にたった二人しか乗っていない。それを確認すると、多絵は膝の上に載せている白い紙袋の口をそっと開いた。顔を近づけると、微かに防虫剤の香りがする。姉は使っていたと言ったが、やはり暫くは仕舞われていた時期があったようだ。春夏用のカーテンだから、もしかすると最近出してきたのかもしれない。しかし、樟脳のようなその香りは、多絵の心を落ち着かせ、同時に勇気づけてもくれた。多絵は心を決めると、紙袋から一気にカーテンを引っ張り出した。
(これは・・・)
 自分の目を疑うように、多絵は膝のカーテンを見つめていた。それは、ちょっと想像できないほど華やかで、可愛らしいカーテンだった。
(あのカーテンが、こんなふうになるなんて・・・)
 クリーム色に薄いグレーの斜めの線が、まるで雨のように入ったカーテンは、多絵の心にくっきりと刻み込まれているものだった。そのカーテンのあちこちに、グリーンの刺繍が施されている。直線や曲線に楕円やギザギザ線。それらが楽しそうに、鮮やかに、カーテンの上で踊っている。あっちでも、こっちでも、グリーンの線がすべてを吹き飛ばすように踊りまわっていた。
 多絵は出来る限りカーテンを広げてみた。
 サイドステッチのそれらの刺繍は、一つ一つは何だかばらばらでいびつな形なのだが、刺繍同志をつなげてみると、小枝からたくさんの葉がでているように見える。カーテンの下部から上に向かって生い茂るように、たくさんの枝葉が伸び伸びと描かれている。そして、その中に小さな青紫色の花がぽちぽちと咲いている。
(ああ、海のしずくだ・・・)
 多絵は、やっとそのことに気がついた。それは、青い花をつけたローズマリーの枝が、みごとに茂っているデザインだった。
 いつの間にか、涙が流れていた。それは、苦しみのない、温かい涙だった。その涙が顎を伝い、カーテンに落ちそうになるのを慌てて拭い、多絵は大切にカーテンを紙袋に戻した。それからもう一度袋を膝の上で抱え直すと、多絵は自分の鞄の中から封筒を取り出した。ローズマリーの花と同じような色の封筒を開けると、中には確かに一万円札が三枚入っていた。それと一緒に、ブルーの便箋が四つに折り畳まれて入っているのに気づくと、多絵はお金が出てこないよう注意しながらそれを抜き取った。そして、開いてみる。

 多絵へ

 カーテンは、お母さんが時間をかけて直しました。
 多絵の、自立の記念だからと言っていました。
 今まで、ごめんね。
 あと、ありがとう。
                                 綾


 そう書いてあった。
 便箋を封筒に戻すと、そっと紙袋のカーテンの間に挟み込んだ。そのとき、また、ふわっと香りが漂った。
(ローズマリーの香りだ・・・)
 多絵は懐かしいものを思い出すように、深く香りを吸い込んでみた。
 ローズマリーを二滴にタイムを一滴。
 あたしの、お気に入りのブレンド。
 ローズマリーは自分の香りだった。では、タイムは誰だったのか・・・。
 多絵は顔を上げて窓の外を眺めた。ガラスに跳ね返った光が、おもいっきり多絵の顔を照りつける。涙の跡が、眩しさに顔を歪める度に突っ張る。その感じが気持ちよくて、多絵はわざと何度も目を瞬いた。
 そうだ、帰ったら秋生に電話をしよう。それから買い物に行って、二人で何か美味しいものを食べよう。この三万円で美味しいものを食べて、お姉ちゃんたちにありがとうって言おう。
 梅雨の合間の縫い目のように、晴れた青空を見上げながら、多絵は何を食べようかと考えてみた。横に流れる雲を追いながら、多絵の頭のどこかでメロディーが流れている。
 スカボロー・フェア。
 叶わないことを歌うこの曲が、何だか今日は、希望の歌に聴こえた。


 スカボローの市に行くのかい?
 パセリ、セージ、ローズマリーにタイム






                                 終わり


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