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作品名:ローズマリー・アンド・タイム 作者:スチン

第1回   1



 耳障りな音が頭にこびりついて離れない。何だろうと思うと、それが自分の息遣いだったりする。納得して、今度こそ自分の意識を深いところへ持っていこうとすると、それまで気にならなかった時計の音がいつもより大きく響くような気がしてくる。まるで、引っ掛かったものを無理やり引き千切るような勢いで秒針が進む。針が進むことを何かが必死で食い止めようとするかのように、一秒一秒、やけに大袈裟な音がする。面倒だと思うものの、そっと目を開けてみる。部屋の中に不自然なものは何もない。時計だって、驚くような動き方はしていない。

 異常なものが何一つないことに、どこかすっきりしないものを感じながら改めて目を閉じると、そういえば、今は何時なのだろうと思う。時計の動きばかりに目がいって、時間を見なかったのだなと思う。ときどきこういうことはあるのだが、もう一度目を開けて確認するのがひどく面倒なことのようで、じっと目を閉じている。どれくらい眠ったのだろうか。今、何時なのだろう。
 いつの間にか時計の音など気にならなくなっていることに気づく。すると時間のこともどうでもよいような気がしてきた。唐突に何もかもが気にならなくなると、ひどく不安定なブヨブヨした中へ、意識はゆっくりと沈みかける。
 突然、あごをグイと持ち上げられたような違和感で全身に緊張が走った。息苦しい。何かが喉の奥に詰まっている。
 それが何かということよりも、息ができるかどうかが気掛かりで、強張っている胸の辺りをそっと緩めるように大きく息を吸い込んでみた。ひゅうと音がなるものの、一向に身体のほうには空気が送り込まれてくるという満足感がない。どうなっているのだろう。
 心臓がすごい速さで活動している。すでに身体のほうでは危険信号を発しているのかもしれない。それなのに、意識はここに居ない。どこか上のほうから、自分の身体で何が起こっているのかを冷静に解明しようとしている。
 布団の中ではあるが、とりあえず吐き出してみようと思った。喉に力をいれて、舌をおもいきり伸ばしてみた。喉の奥のほうで何かが動くのを感じたが、それはそこにへばりつき、まったく出てくる気配がない。何か不定形の液状のものが、粘着質を持ってそこにとどまっている。上から覗いていた意識が、「死ぬかもしれない」という恐怖を連れて突然身体に戻ってきた。もう駄目だ!!
 布団を蹴り上げ、その反動で身体を起こすと、喉の奥までおもいきり指を突っ込んでみた。その途端、目が覚めた。


 浅い眠りの中でみる夢は、どこまでが現実でどこからが夢なのか、その境目がはっきりしない気味の悪いものだった。
 夢の内容など関係なく、ただ、そのあやふやな中にいる息苦しさが、夜中に何度も目を覚ます多絵を厭な気分にさせる。果たして、自分は今夢をみていたのだろうか。さっきの苦しみは目が覚めれば、「ああ、夢だったのか」と、忘れてしまっていいものなのだろうか。そう思うと、なんだか気持ちが悪くなるのだ。
 そして、それは気持ちの問題だけではない。身体のほうも大変なことになっている。シーツからパジャマ、もちろん自分自身も、まるで水を浴びたようにびっしょりと汗をかいている。布団の中に生暖かい空気が籠っていて、ちょっとでも動くとぐちょりという感覚が全身に伝わる。もう一秒でもこの中にはいたくないと思うものの、布団から出る気にもならない。どうしていいのか分からないまま、ただぐちょぐちょした感覚を味わっている。そのうちに身体はどんどん冷たくなり、背骨に沿って小さな虫がはい上がってくるような、厭な寒気を感じる。そうなるともうじっとしているわけにはいかず、多絵は渋々起き上がるのだった。

 もうこんな状態が三日も続いている。
 姉に借りた清潔なパジャマに着替えると、多絵は脇の下に体温計を滑り込ませたまま手早くシーツを交換した。換えたばかりのシーツは冷たく、それを温めるつもりで足をあちこちに伸ばしてみる。一体、いつになったら熱は下がるのだろう。そして、いつになったらこの家から出られるだろう。
 自分の意思で戻ってきたというのに、多絵はそのことを後悔していた。あれほど望んでいた一人暮らしを始めて一年、たかが熱が出たくらいのことで帰ってくるんじゃなかったと、多絵は今になって思う。病院には一人で行けたのだ。そのあと、こうして寝ているだけなら自分のアパートだってよかったはずだ。なぜ電話などしたんだろう。
 確かに心細かったのだろう。四十度近くも熱が出るなんてことは初めてなのだ。病院へは気力で行った。けれど、そこから引きずるように帰ったあとは、もう動くことができなくなった。そのまま次の日まで、起き上がることもできないので飲まず食わずである。そのうちに、もしかしたらこうやって死んでいく人もいるのだろうかと考えたりする。そう思うことに不思議と恐怖はなく、ただ、自分が死んだら誰が泣いてくれるだろうかと考えたりする。以前にも何度かそんなことをしたことはあったが、今回ほどはっきりと思い浮かんだことはなかった。以前なら、あの人はどうだろうこの人なんかが意外と、などと思い巡らすところだが、そのときは違った。ぽっと悲しそうな顔が浮かび上がった。それはたった一人、秋生の顔だった。


 考えてみれば秋生の悲しそうな顔など、多絵は見たことがないような気がする。
 笑った顔は見たことがあるだろうが、それも日常的な表情ではない。だいたいにおいて彼には表情がない。といって人形のようだというのでもない。人形ほど威圧感も圧迫感もない。薄い半紙に炙り出された絵のような、水に濡れた途端、その輪郭が流れ出しそうな、そんな顔をしていた。しかし、だからといって儚げな感じはなく、指を切る紙の鋭さは持っている。不思議な顔だと多絵は思っている。
 具体的にいえば、一気に削り取られたような二重の目は細く切れ長で、瞳が普通の人よりも奥まったところについているような気がする。それは感じたものを決して人には悟られまいとするようでもあり、しかし、人のことなどまったく構っていないようでもある。瞳の色は濃い茶色だが、それがときどき灰色にも見えて、そんなときは雪国の寒さに耐える犬の目を思い出す。けれど、忠実に何かを待っているような熱っぽさはない。鼻筋は通っているがそう高くはなく、唇は薄いくせに横に広い。ものすごく色が白くて、おでこの辺りは青みがかっているように見える。そこにさらりとかかる前髪は糸のように細い。全体的にひんやりした触感を想像させる顔だった。

 多絵の頭に浮かんだのは、そんな普段の秋生の顔だった。とくに顔のどこかが歪んでいるということもなかった。それなのになぜ、悲しそうな顔だと思ったのか。やはり、自分が死んだら悲しんで欲しいという多絵の一方的な願いが、そんなふうに思わせたのだろうか。

 いつの間にか体温計が脇からずり落ちている。多絵はパジャマの脇から手を入れ、自分の冷え切った手が身体に触れぬよう注意しながらそれを抜き取ると、ベッドサイドの明かりに翳して顔を近づけた。
 三十八度三分。随分と楽になったはずである。四十度のときと比べたら、今の状態が平熱であっても大丈夫な気がする。ここまで回復したのだから、もう放っておいてもじき熱は下がるだろう。これならアパートに帰れる。もうここにいる必要はない。
 そうは思っても、今すぐ動き出す気にはなれなかった。体温計を容器にしまうと、多絵は布団に潜り込み、そこから右手だけを出して容器の蓋についている水色の紐をくるくると振り回した。

 いったん上がった体温計の温度を下げるのはわりと大変だということを、多絵は今回初めて知った。もう十分振り回したと思っても、意外とその温度が変わっていなかったりするのだ。そして、これは力をいれれば良いという問題でもない。どういうわけか、いくら振っても全然下がらないときもある。厭な気分である。それとは逆に、二、三度振っただけなのに、すっと下がっていることがあってこちらは気分がよい。
 自分もそんなふうに、頭に詰まっているものを一瞬のうちに消してしまえたらいいのに、と多絵は思う。思い出したくないことが頭に浮かんで、それを考えたくないときに二、三度頭を振ると、すっとそれが消えてしまう。そんなふうだったらどんなにいいだろう。
 けれど実際は、一度浮かんできたものがそう簡単になくなってしまうことはない。まるで使い慣れない体温計のように、それはいつまでもそこに青い線を残す。振っても振っても青い線が消えることはない。ただ持て余し、扱いに困るだけなのだ。
 カツカツと、部屋の扉に何かがあたる音がして多絵はびくりとした。
 空耳ではなく、もう一度カツカツと、さっきと同じ間隔で音がする。多絵は体温計をサイドテーブルに置くと、小さく返事をした。
 カチャリと扉が開き、姉が顔を覗かせる。パジャマの上からトレーナーを着込んだ姿で、姉は部屋に入ってきた。
「具合、どう?」
 多絵は掛け布団を喉元辺りまで引っ張り上げると、姉の視線を避けるように時計に目をやった。
「うん、だいぶ下がったみたい」
 午前四時。こんな時間まで、姉は何をしていたのだろう。音楽を聴いているようでもなかったし、起きている気配はなかった。起こしてしまったのだろうか。
「やっと薬が効いてきたんだ。もう大丈夫だね」
 姉の声には今まで眠っていたという感じはなかった。心配して起きていてくれたのだろうか。けれど、熱が下がったことに対して大丈夫という姉の声は、確かに安心し喜んでいるようではあるが、その表情はちょっと違う。下から照らすベッドサイドの明かりのせいだろうか。どこか不安げな、何か別のことを話し出しそうな、なんだか疲れた顔であった。
「どうしたの、こんな時間まで。明日、バイトは?」
「うん・・・」
 両腕で自分の肩を抱くような格好で、姉はベッドサイドの足元辺りにしゃがみ込んだ。何か言いたいことがあるんだということは十分分かる。多絵はなんだか自分だけ寝ているのは悪いような気がしたが、面と向かって話をするのも気が引けて、結局、天井を向いたまま横になっていた。
 そうやって暫くの間、二人は黙っていた。姉は何も言い出さないし、だからといって今の状態の多絵が気を使って、どうでもよい話をふって、この場を和ませなければならないわけもない。そういう役目を負うのはいつも姉のほうだった。必要以上によく喋り、家族みんなに話をふって仲間はずれを作らない。そういう役を、姉は担ってきたのだ。
 そして、自分はそういうことに向かない人間だということを、多絵は厭というほど知っていた。知らされてきた。そのことで何度も失敗し、苦しんできた。だから今だって、何も言ってはいけないのだ。
「替えのパジャマ、持ってこようか」
 重いものが広がりつつあった多絵の心を裏切るように、姉はさっぱりとした声で言った。一瞬、多絵は拍子抜けしてしまって、そのせいで口ごもってしまった。それをごまかすように、多絵は慌てて答える。
「あ、うん。いや、大丈夫。もうそんなに汗はかかないと思うし、もし着替えるなら、適当にTシャツかなんか出すから平気」
「・・・ふうん、そっか」
 姉が立ち上がったので多絵はほっとした。このまま姉に居座られたら、多絵は不自然に元気なふりをし続けなければならない。いや、確かに身体は以前よりずっと元気なのだが、心のどこかが、それを必要以上に演出してみせようとする。
「ねえ、喉乾かない?」
 ドアノブを掴みかけた姉が振りかえった。
「ううん、大丈夫」
「そう、じゃ、何かあったら声かけてね」
 そう言って、姉は出て行った。

 午前四時の静けさが、懐かしいもののように戻ってくる。その中で、多絵は思った。
 なぜなのだろう。姉と一緒にいると、一緒にいるこちら側は芝居をしているような気分になる。姉の脚本にそって、自分が家族の一人を演じているような気がしてくるのだった。
 もちろん姉にそんなつもりはないだろう。家族はこうあるべきなどという強い思い込みがあるわけでもないだろうし、家族を何よりも大切にするというわけでもない。それは単に、長女としての習性なのだと思う。

 子供の頃、ピーマンが食べられなかった多絵に、母はヒステリックな声で言った。
「全部食べるまで、二人ともテレビは駄目だからね!」
 そんなとき、隙を見てヒュッと手を出し、ぱくっとピーマンを食べてくれたのは二つ年上の姉だった。そのまま、しばらくは口を動かさずとぼけている。けれど、口の中に食べ物があれば、早く消化しようとして唾液が出てくる。しばらくすると我慢ができなくなって、じゅるじゅるいわせながらピーマンを飲み込もうとしていた。
 単純にテレビが観たかったのかもしれないが、それだけではないだろう。何時間でも絶対に口を開けようとしない頑固な多絵と、それを見てどんどん機嫌が悪くなる母の間で、姉は子供ながら何とかしようと思ったのだ。何とかその場の空気を変えようと、姉なりに頭を使ったのだろう。
 そんな姉の策略はいつもたちどころにばれて、結局はますます母を怒らせ、テレビは見せてもらえなかった。姉のアイデアはいつも失敗に終わるので、多絵もあまり感謝する気にはなれなかった。けれど、子供の頃からの姉の習性は大人になっても変わらず、みんなが楽しくいられるようにと無意識に動くので、気を使ってそれに合わせようとすると、こちらは何だか芝居をしているような気になってくる。姉にも知恵がついた分、子供の頃のようなわざとらしさはなくなった。自然にしていて、姉はそうなのである。
 そして、多絵は芝居をするのがすごく下手くそだった。いや、正確にいえば、自然に振る舞うことができなかった。どうしても下手な芝居をしているような感じになってしまう。セリフ回しも、身振りも、どこかぎこちなく不自然で、いつもその場で浮いてしまうのだった。

 だからあたしは好かれないんだ。
 多絵はそう思った。そう思い切るまでにはかなり時間がかかった。けれど、そう思い切れたとき、多絵は楽になった。楽になって、自由になって、やっと家族から離れることができたと、そう思ってきたのに・・・・。
 枕に頭を乗せたまま、多絵は何度か首を左右に振った。
 こんなこと、思い出したくなかった。思い出して、今になって考えてみたってそれが何になるというのだろう。眠りたい。頭を空にして眠りたいと思うのに、そう思えば思うほど、多絵の頭には次々といろいろなことが浮かんでくる。
 やっぱり、上手に体温計を下げるようなわけにはいかないのだ。それどころか、体温計の青い線はどんどん上がっていく。頭の隅々まで思い出が行きわたり、もう計りきれない状態までどんどん上昇していくのだ。
 けれど、多絵は何とかそれに引きずられそうになるのを食い止めた。ずるずると思い出の中に沈んでいきそうになるのを必死になって目を開き、目に入るものの名前を頭の中で繰り返すことで防いだ。
 カガミ・・・タンス・・・トケイ・・・サカナノエハガキ・・・ダーツノヤ・・・ガラスノキリフキ・・・カビン・・・ハンドクリーム・・・キンギョノフウリン・・・・・
 多絵が出て行ったときのまま、そのものたちはそこにあった。洋服と、ほんの少しの身の周りのものしか持って出なかった多絵の部屋は一見すると、多絵がこの部屋を使っていたときと何も変わっていない。今も主がいるように、誰かの部屋なのだという厚かましさを、そこに置いてあるものたちから感じ取ることができた。ただ、一つのものを除いては。

 カーテンだ。
 クリーム色に濃いグレーの丸がぽつぽつと描かれた少し厚めのカーテンは、多絵には馴染みのないものだった。以前のものとは確かに似ているが、でも、違う。
 やっぱり、捨てられたんだ。
 それは予期していたことだった。そして、望んでいたことでもあった。もし昔のままカーテンが下がっていたら、多絵はこんなふうにぼんやりと寝てはいられなかっただろう。
姉が替えたのだろうか。母が替えたのだろうか。
 あれは、捨てたのだろうか・・・。

 カーテンを替える母の姿を、多絵は想像してみた。
 作業用の丸椅子に乗って、窓辺のカーテンフックを一つずつレールから外していく。椅子を動かしながら、二枚開きのカーテンはどんどん外され、やがてばさりと音をたてて床に落ちる。椅子から降りると、くにゃりと丸まったカーテンから一つ一つフックを取っていく。それが終わると買ってきたカーテンを袋から出し、今度はそれにフックをつけていく。
 椅子に乗り、新しいカーテンを引っ掛けていく。レールにフックがかかる度に新しいカーテンには血が流れ、呼吸を始め、目的を持ったものが見せる図々しさをちらつかせる。そして、古いカーテンは床に丸まったまま、どんどん力を失っていく。新品だということを嫌味なくらい訴える折り目を取るため、母は何度もカーテンを横に引っ張り、折り目を上から手で押さえる。母の足元に放り出されたカーテンは、その頃には既にただのぼろ切れになっている。
 部屋はすっかり新しい表情になってしまった。ぼろ切れは二度と畳まれることもないまま母に抱えられ、多絵の部屋から消えていった。それと一緒に多絵の頭の中も空白になった。一切の感覚を失って、多絵は再びぶよぶよした暗い世界へと沈んでいく。古いカーテンの行方を気にする多絵の思いなど、あっという間に遠いどこかに飛んで消えていった。多絵は、何度目かの眠りに落ちた。



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