7.盗聴器 ハルオは連日の土間との稽古に耐え続けていた。やはり土間は、自分があの独特の感覚から逃れられずにいる事を知っていた。今はそれを克服するべく訓練を受けている。 連日の真剣勝負となった。土間に容赦は無かった。ハルオは少なからず小さな刀傷を連日受けていた。 ハルオはそれまで、刀や刃物でどんな小さな傷も受けた事が無かった。それほどまでに自分の逃げっぷりに自信を持っていた。しかし今度は立ち向かわなくては意味がない。しかも土間は、わずかなハルオのためらいも許さなかった。土間に切りかかる一瞬でもためらおうものなら、容赦のない刃がハルオの身を傷つけた。 それまで脅えていた刃物への恐怖心などいっぺんに吹き飛んだ。そんな事を考えていたら本当に殺されてしまう。 本物の命の危機の前では、どんな悩みも考えるだけ無駄だった。 勿論刃物に頼る、あの感覚も襲っては来るが、頼っているという罪悪感が、実はただの甘えでしかなかった事をまざまざと思い知らされる。人に命を奪われるとはどういうことなのか、身をもって知ってしまう。 しかも土間は、言葉や態度でもハルオを攻撃してきた。仲間から身内の様に守られる甘さ、同情される情けなさ、そこに逃げ込む弱さ、心の奥のねたみ、気概のなさ・・・気にしながらも慰められ続けて、何とかこらえてきた部分が遠慮なしにえぐられる。 なんで俺はこの人に、憎くもないのに切りかからなきゃならないんだ?しかも、向かえば向かうほどに好き放題に言われるじゃないか。俺は何をしているんだろう?こんなにも強い人に向かって・・・ そうだ。この人は強い。さほど変わらない体つきに見えるのに、男の自分より、ずっと大きく見えてくる。この威圧感、圧倒する強さ。これさえあれば、余計な喧嘩は買わずに済む。 俺もこんな風になりたい。この人に、こんな事を言われない・・・いや、言わせないようになりたい。 しかし、ハルオの思いが一層強くなるのは、実は稽古終わりの時だった。 土間が刀をしまい、ハルオもドスを鞘に納めると、土間はハルオを見る目が一瞬変わるのだ。 苦しんでいるような、悲しんでいるような、何かを抑えつけているような目をする。その時ハルオは強く思う。
この人は、こんな目をしてまで自分の稽古に全力で向かってくれている。自分だって本気で向かっている。お互いに命懸けだ。ここまでやってくれる人なんてそうはいないはず。
この人のようになりたい。いや、この人を越えてみたい。
良平への憧れとははっきりと違う、もっともっと強い思い。あんな風になってみたいのではない。あの向こうへ飛び立って行きたくなる思い。この人に苦しげな目をさせないようになりたいという思い。 今までは誰かを守りたいとばかり思っていた。それは今でも変わらないが、こんなにもはっきりと誰かを超えたいと思ったことは一度もなかった。立ちはだかれるほどに、大きく思えるほどに、超えたいと思わずにはいられない。 土間さんを越えたい。 ハルオが、厳しい稽古に耐える心を支えているのは、まさにこの思いからだった。 土間さんは、これを乗り越えてここまで強くなったんだ。自分もその上を目指したい。身を守るだけじゃない。この心を手に入れたい。誰かのために、ここまでする事が出来る心を。
「また会ったな、お穣ちゃん」関口は冷ややかな笑顔を香に向けた。 それだけで香は背中に冷たい汗が走った。この間ハルオと自分をつけて来た関口とは様子がはっきりと違う。 その表情を見るだけで、血なまぐさい匂いを感じてしまう。プロの殺し屋としての殺気が漂っていた。 逃げなければ。頭ではそう思っているのに身体が全く動かなかった。 「あんたに恨みは無いんだがね。ちょっとばかり、こっちの都合に付き合ってもらう事にしたんだ。運が悪いと思ってあきらめてくれ」そういってゆっくりと刀を抜く。ようやく香は足が動いて、後ろに後ずさった。 もどかしいほどに足の動きが悪い。香はのろのろと後ずさる。その時ショルダーバッグの中の携帯が鳴った。 無意識にバッグの中に手を伸ばそうとしていきなり切りつけられる。香は思わずバッグを盾にする。 携帯はまだなっているが、バッグを開いて取り出す余裕はない。ついには腕に浅く切りつけられて一筋の血が流れる。その時関口の目が変わった。尋常な目じゃない。 いたぶるように刀が襲ってくる。バッグだけでは身を守りきれない。あちこちに小さな傷を負う。逃げなければ! やっとの思いで後ろに駆け出す。が、そこに別の男が立ちふさがる。おそらくこいつがつけていた男だろう。 「すいません。一度、まかれました。ちょろちょろした娘みたいですね」男は忌々しそうに香を見た。 「何。今じっとさせてやるさ」 関口がそういうと、バッグの隙間から刃が飛んできた。香は思わず悲鳴を上げる・・・
先に着いたのは礼似の方だった。バイクから飛び降りて路地に向かう。異様な空気が辺りを包んでいる。 目に飛び込んできたのは、二人の男に捕まえられ、もがいている香の姿だった。香は開いたバッグを取り落とし、刀を持った男、関口に押さえつけられる。 「香!」礼似が思わず叫ぶと、香が振りかえり顔をあげた。礼似は息を飲んだ。 香の頬は刀で斬りつけられ、大量の血が流れている。全身のあちこちにも小さな傷を負っているようだ。 香は気の強い娘だが、さすがに今は恐怖におびえた目をしていた。それでもかなりの抵抗を見せたのか、もう一人の男の顔には引っかき傷が残っていた。 「あんたが関口・・・。女の顔になんてことするのよ・・・」怒りのあまり声が震える。 それを聞いた関口の刀が動いた。香の喉元に刃先をぴたりと当てる。 礼似の動きが止まる。御子と良平も到着したが、その姿を見て動きが止まった。 「顔ぐらいで騒ぐな。掻っ切るのはこいつの喉でも俺は構わないんだ」関口はうすく笑う。 「香をどうする気?」礼似が関口を睨みつけたまま聞いた。 「さあ、どうするか。殺しはしないが。気のある女が生きたまま苦しむ姿の方がハルオには効果的だろう。土間も二度と刀は握れまい。女に死なれて弱くなるような奴だ。息子の生き地獄には耐えられないだろう」 やはり狙いはそこだったか。礼似も御子も必死に関口の隙を探る。しかし相手はプロ。香を人質にされると、隙らしい隙は見当たらない。殺さないというのは口だけで、自分達が動けば容赦のないことを御子も読みとっていた。 「土間は弱くなんかないわよ。あんたよりはずっとね」礼似が言う。 「どっちでもいいさ。この娘の事はハルオが姿を見せてから考える。とりあえず娘は連れていくが、ハルオに一人で迎えに来させろ。場所はハルオの携帯に知らせてやる。お前らがついてきたら娘の命の保証はない」 そういって関口は、もう一人の男が用意した車に香を引きずっていく。喉には刀が当てられたままだ。 三人が一歩も動けないまま、香は車に押し込められ、連れ去られてしまった。
「香・・・」礼似は地面に落ちている香のバッグと、散らばった中身を見降ろした。相当切りつけられたのだろう。バッグは刀傷でボロボロになっていた。 悔しさに歯がみしながらバッグの中身を拾っていると、不意に、マイク越しの香の声が聞こえた。 「どこに連れていく気?」 「黙っていろ。本当に喉を掻っ切られたいのか?」関口の声も聞こえる。慌てて荷物を確認すると、ハンカチに何かが包まれている。 盗聴器だ。香の声の方がはっきり聞こえる。バッグを取り落としたあの一瞬で、自らの身にワイヤレスマイクをしかけたに違いない。 「御子!良平!これ・・・」礼似は二人に盗聴器を見せた。 「香・・・。よくやったわ。あんな状況で」御子が思わずつぶやいた。 香は言われたとおりにおとなしくしているらしい。車のエンジン音だけが響いて聞こえる。 「これで場所が分かるかもしれない。もし、関口が香から離れる時があれば助けだすチャンスだわ」礼似にも希望が見えて来た。 「土間とハルオに知らせがいかない内に、助けられればいいが」良平が気をもむ。 「ううん。こうなった以上、二人に事情を話さない訳にはいかないわ。でも、香は一刻も早く助けないと。あの口ぶりじゃ、香に何をするか解ったもんじゃないわ」御子も覚悟を決めたようだ。 「香は私が助け出すわ。必ず隙はあるはずよ。私ならバイクで小回りも利くし、動きやすい。二人は土間とハルオを落ち着かせてくれる?相当動揺するだろうから」そう、礼似は言ったが 「礼似だって動揺してるでしょ。大丈夫、香は強い娘よ。あんたが来るのをきっと信じてるはずよ」と、御子は励ました。 「そうね。きっとあの娘は関口の隙を知らせて来る。チャンスは逃さない」礼似もうなずく。 すると、マイク越しの車の音の気配が変わった。どこかに止まったらしい。三人は耳をすませた。 「着いたぞ、降りろ」関口の声がする。 「どこなの?ここは」香が尋ねる。 「たいして街から離れちゃいない。郊外の潰れたジムさ。去年までは営業していたが、今は俺の根城だ」 郊外の潰れたジム・・・聞いた事がある。大型チェーンのジムが街の郊外にあったが、今年になって撤退したと街のニュースになっていた。 「場所は分かったわ。私、行って来る。二人ともハルオと土間をお願いね」そういって礼似は盗聴器を手にバイクに向かって行く。 「何かあったら知らせてよ!」御子は礼似の背中に声をかける。 礼似はヘルメットをかぶりながら振り返り、軽くうなずいた。 「俺達も急ごう」そういって良平は御子を車へと向かわせていった。
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