6.香の危機 礼似までもがハルオの事にかかわり始めてしまったので、香はしばらく部屋には眠りに帰るだけで、用が無くても出かけてばかりの日々が続いていた。 このところ、事件や騒動が続いたおかげで、ゆっくり買い物もできなかったので、のんびりとウインドウショッピングを楽しんだりする。娯楽やレジャーはともかく、香は服や小物、趣味の品に関しては一人で見て歩く方が好きだった。実際に買う時は誰と一緒でも遠慮なんかしないのだが、欲しい物の目星をつける時は一人でゆっくり品定めをしたいのだ。どうせ自分の周りの人たちは、今、ハルオに意識がいっている。それなら今は一人の時間をゆっくり楽しもう。香は少しばかりすねたような、でも、ハルオにかかわりたくないような、複雑な気分を晴らすべく、次々と店を回って歩いていた。 あちこちの店を冷やかしながら、気に入った小物を二、三買い求め、そろそろ何か食べようかと考え始めた頃、ふと、いやな視線を感じた。自分が尾行する側に回った経験が感覚を鋭敏にしているらしい。はっきりとした気配がある訳ではないのだが、なにか、遠い位置から自分の姿を追いかけられているような気がしてならない。
あまり見通しのいい場所にはいない方がいいな。
香はさりげない風を装いながら、大きなショッピングセンターのフードコートの人ごみにまぎれていった。 中にある喫茶店に入るようなふりをして、そのすぐ横に伸びている通路から外に出る。巻いただろうか? あの視線はもう感じない。ホッとして小さな路地へ向かう。ここを抜ければ軽い軽食が食べられる店があったはずだ。数歩歩いたところで香は立ち止った。さっきとは違う気配。昔父親に感じた気配だ。全身に鳥肌が立った。 目の前に一人の男が立っていた。しまった。追い込まれたのだろうか?前にいたのはあの、関口だった。 香は蛇に睨まれた蛙のように、そこから動けなくなってしまっていた。
「あら?」由美は人ごみの中でどこかで見たような顔をみかけた。つい最近に会ったような気がする。 そうそう、確かハルオさんと一緒にいたお穣さん。香さんって言ったっけ。 こてつも覚えていたらしく、視線をそっちの方に向けてじっとしていた。 「お買い物かしらね?」何となくこてつに話しかける。 するとこてつが急に脅えたように後ずさった。香が歩いて行く方角を見ながら身体が後ずさっている。 「どうしたの?こてつ」そういうか言わないかのうちに、由美もひどく嫌な予感に襲われた。 何かしら、ひどい胸騒ぎがする。あの方角から冷たい空気でも流れているような・・・ 香はためらうことなくその方向へと歩いて行く。ついには路地に入ってしまった。 どうしよう。何だかあそこには悪い何かがある気がする。何がと言うと分からないけれど、香さんによくない事が起こるのは確かだわ。由美は自分の勘を信じた。 そうだ、ハルオさんがちょっとした知り合いだと言っていたっけ。真柴さんの所に連絡すればいいかもしれない。 由美は携帯を開いて真柴家のダイヤルを押した。
「はい、真柴です」御子がいつものように電話に出た。 「あら、そのお声は御子さんね。こんにちわ」電話口からのんびりと聞こえるのは由美の声だった。 「あ、こんにちは。父に御用でしょうか?かわりましょうか?」 「ああ、いいえ。真柴さんに用があるんじゃなくて・・・あら?誰に用だったんだっけ?そうそう、ハルオさんはいらっしゃるかしら?」 「は?ハルオ、ですか?」御子は首をかしげた。奥様がハルオに何の用だろう? 「あいにくハルオは今出かけていますが」 どうやら礼似に口説き落とされた土間が、ハルオを華風組の稽古場に呼び出して稽古をつけているらしい。ハルオの様子からかなり厳しい稽古のようだ。それももう三日目になっていた。 「いらっしゃらないんですか・・・どうしましょう。困ったわ」 「急用ならハルオに伝えますけど。携帯を今切っていると思うので、少し時間はかかりますが」 「あの、急用と言っていいか分からないんですけど・・・」 この予感をどう伝えたらいいのだろう?戸惑いながらも由美は御子に説明を試みた。一通りの話を聞いた御子はあせる。 「あの・・・今どちらにいらっしゃるんですか?まさかその路地に向かってるんじゃ・・・」 そんなことされたら大変だ。何があったかは解らないが、香の様子がおかしかったのならば、由美にとって決して安全な環境ではない。お願いだから、下手に動かないで! 「それが、気にはなるんですけどこてつがすっかり脅えてしまって、近づけないの。香さん大丈夫かしら?」 よし!こてつ!えらい!良くやった!御子は心の中で全力でこてつを褒める。 「大丈夫ですよ。あの子は用心深い子ですから。私もよく知っているし、ハルオにも知らせておきます。それよりも何か御用事があって外出しているんじゃないですか?」 「まあ、そうだったわ。お買い物があったんだわ。ありがとう。忘れるところだった。ではハルオさんに伝えて下さいね」 「大丈夫ですよ。御心配なく。それより今日はこてつ君をいっぱい褒めてあげてください。じゃあ失礼します」 「はあ・・・」由美は訳が解らぬまま電話を切った。 「こてつ・・・。おまえ、とってもいいことをしたみたいね?」 まあ、こてつが褒められているのなら、いいか。お買い物、済ませて帰ろう。 褒められたらしいと察して、胸を張ってご機嫌なこてつを連れて、由美は街の中を歩いて行った。
どうやら香は何かに巻き込まれているらしい。携帯に電話をしてみたが、やはり出る様子はない。御子はそのまま礼似に連絡を取った。 「香が?」すぐに出た礼似は驚いた声をあげる。 「ねえ、何か香が巻き込まれそうな事、最近起きてなかった?」御子は切迫した声で聞いた。 「最近なんて平和なものよ。その前なら、ハルオと大谷に捕まった件と、倉田さんの事で関口に襲われた件しかないし。どっちも香自身が狙われた訳じゃないわ。大谷はすぐに二人を解放したしね」 「まって、どっちの件も関口が絡んでるわ。あの娘、自分で気付かない内に関口の恨みでも買ったんじゃないかしら?まずいわ。相手は殺しのプロなのに」 「恨みって、どんな?それにプロの関口が個人の恨みで香をどうこうするとは思えない。あの娘に関口にとってうまみにつながる何があるっていうのかしら?」 「誰かに雇われて香を狙ったとか・・・」言いながら御子もそれはあり得ないと思う。香がプロを雇ってまで殺される必要がある娘だとは思えない。父親が殺し屋だったそうだが、もうずいぶん昔に死んでいる。今更その娘が狙われるのは不自然だ。 「考えられないわ。あと、香が絡んだのは倉田さんと、ハルオ。倉田さんが今更襲われるとは思えないし、ハルオなんて誰が・・・」礼似はそこまで言うと以前、香に聞いた言葉を思い出した。
「関口が言っていたのは、刀使いが増えるのは見過ごせない・・・」
「ハルオが狙いなんじゃないかしら?」礼似が呆然としながら言った。 「え?ハルオ?」御子は思わず聞き返す。 「関口は刀使いが増えるのを嫌ってた。土間が刀を握るのを倉田さんをどうにかしてまでも止めようとしたくらいにね。ハルオにも刃物を握らせたくはないんじゃない?」 「だって・・・ハルオが関口の前でナイフを握ったのは偶発的だったはずよ。それほど気に掛けるとは思えないわ」 礼似は考えをめぐらせた。 「もしも・・・。もしも、ハルオが土間の子供だって知られていたら?ハルオの出生がバレていたら?土間にもハルオにも刃物を持たせたくない関口には、ハルオ潰しは都合がいいんじゃない?」 「そうか。だからハルオが気がある香をどうにかしてハルオと、ひょっとしたら土間もまとめて潰そうって考えたのかも」御子も納得した。そう考えればつじつまは合う。 だとしたら大変だ。現在の華風組の弱点が知られてしまっている事になる。 「これ、絶対に土間とハルオに知られる訳にはいかないわ。早く香を助けないと」 「もう向かってる。今、バイクに乗る所。あんたも早く良平を連れて来て頂戴。他の連中にはバレないようにね」 騒ぎが大きくなったら、話が広がってしまうだろう。まったくなんてこと! 土間やハルオに知られたら、二人とも冷静ではいられないだろう。そもそもハルオに自分の出生がバレてしまう。 ここは何としても三人だけで香を助けなければならない。 これは何かの交換条件がある訳じゃない。要は土間とハルオがショックで潰れるのを狙っているのだろう。関口は香の生死を問う必要は無いはずだ。
香、無事でいてよ。
御子は良平とともに、祈るような気持で車に乗り込んだ。
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