8.恐怖 ハルオは刀を握り締めたまま、カチカチに固まっていた。まるで今にも刃が逆を向いて、自分を斬り裂きに来るような気さえする。あまりの緊張に震える事さえできないのだ。 しかも、さっき香が稽古場の中に入ってきたのが見て取れた。この情けない姿を見られている。穴があったら入りたいどころではない。自分の存在そのものを消してしまいたいほど恥ずかしい。 土間に二つの選択を迫られた時は、あまり迷うこともなく(全く迷わなかった訳ではないが)刃物を使えるようになる道を選んだ。ハルオにとっての組は、ただの組織ではない。赤ん坊の頃から自分を支え、育て、受け入れてくれた人々が、家族同然に暮らしている。まさしく家庭でもあるのだ。だからハルオは自分の家族を守るように組を守りたかった。どんなに向いていなくても、家族の命を守る道しか選ぶ事が出来ない。 そう決心したはずなのに、いざ、刀を抜くと、握っているのは自分だと言うのに、身体のすべてが石のように固まって、ピクリとも動かせなくなってしまっている。身体が心を裏切っている。 おまけにそれを香に見られているのだから、始末が悪かった。 自分の持っている刀の刃先が光る。怖い。脅えるハルオを香が見ている。逃げ出してしまいたい。この刃からも、香の視線からも。さらに土間が自分の刀を抜いた。
ハルオの恐怖は頂点に達した。 これは人を傷つける道具だ。殺してしまう道具だ。赤い血が大量に流れる道具だ。大きな力のある道具だ・・・ 相手もこの道具を持っている。大きな力が襲ってくる。殺されてしまう。怖い! 恐怖の限界の中でハルオは握った刀の重みを感じ取った。今、自分は相手と同じ力のあるものを持っている。この力に任せれば自分は無事で済むかもしれない。 そう思った途端、恐怖は真逆に反転した。これさえあれば、これで相手を斬ってしまえば、この力に任せてしまえばこの恐怖から逃れられる! 何も考えられなかった。頭が突然真っ白になった。香の視線どころか、存在さえ忘れてしまった。身体が勝手に動いていた。全力で刀を相手に振り下ろしていた。 全身の力を込めていたが、その刃は相手の刀にしっかりと受け止められてしまった。さらにぎりぎりと力を込めたが、力の行き場を横に逃がされると、そのまま横に倒されてしまった。手から刀が離れる。 手放してしまうと自分が一層、小さく非力に思えてくる。恐怖でまた刀を握る。いや、力にしがみついて行く。 握ってしまうと、また早く相手を斬り倒して楽になりたいと思う。逃げたい一心になってしまう。 それなのに相手は容赦なく向かってくる。刃物を向けて来る。大きな力に襲われ続ける。逃げたいのに逃げられない。やめたいと思う頭とは別に、ハルオは恐怖に掻きたてられ続けていた。
土間は土間で、この時舌を巻いていた。これがハルオの才能か。 とにかく動きが早い。刀の振りが荒く、大ぶりなので本人も振り回されてはいるが、動きは反射神経の塊だ。 喧嘩で逃げ慣れているせいか、身体のバランス感覚もいい。かなり無理な体勢からでも身体の中心を立て直せる。まるでやじろべえか、ジャイロのようだ。ハルオの体格から見ても、もしも短剣を持っていれば・・・ これなら良平が仕込みたがるのも分かる。ドスでも持たせて、振りの早さや幅をコントロールできれば、相当の使い手になれるかもしれない。しかし・・・ 目が瞬きを忘れている。見開いた目は恐怖にとらわれて、土間の刃先を見つめたままだ。わが身を守ろうとする意識があまりに希薄すぎる。大きすぎる恐怖に、そこから逃れる事しか頭になくなり、かえって命を危険に晒してしまっている。このままでは暴発する。土間はハルオを突き飛ばした。ハルオはひっくり返るが刀はもう手放さない。 「だらし無いわね、何?その情けない目つきは。それで人を守れると思っているの?」 ハルオはカッカするタイプではないが、それでも男の自尊心はあるだろう。心に届いてくれるか? 「香に見られてんのよ。分かってる?」恐怖から現実に引き戻せるか? ハルオの視線がようやく香を捕らえる。香は声も立てずに立っている。ハルオははっとした顔になり、体勢を立て直して土間に向き直る。 「お願いします」ハルオはどもることなくそう言った。
N病院の門前に御子が差しかかると、三人の男が現れた。以前、良平が襲われた時に見た顔だ。 「亭主はここにはいないぜ」威圧感を見せようとはするものの、どこか及び腰になりながら、男の一人が言った。 「そうでしょうね。私をどこにご招待下さるの?」むしろ御子の方が落ち着いて言った。 それも仕方ない。以前、こいつらは御子に痛い目にあわされているのだから。 男の一人がポケットに差しいれようとした手を、御子が手首をつかんで止めた。 「私を刃物で脅すのはやめてよね。そんなことしなくても、逃げやしないわよ。あんた達のリーダーと、西岡に会いに来たんだから。さっさと案内してよね」そう言って男を先に歩かせる。
御子は病院裏の広い駐車場に連れてこられた。男達が慌てて御子から離れる。御子はとっさに男の後を追い越して車の陰に隠れた。発砲音と男の短い悲鳴が重なる。銃弾が男の肩先をかすめていったらしい。うろたえる男に 「バカ、かすり傷だ。騒ぐな」と、あの、細身の男が現れて言っている。 「同情はしないわよ。どうやら本気で私を殺したいみたいだから。千里眼はあんた達の行動が分かるってのに、懲りないわね」車で身を隠したまま御子が言う。 「それでも俺達から離れれば、弾より早く動ける訳じゃねえだろう?隠れるのにも限界があるぜ」 「そうかしら?礼似!」御子が声をかけると、礼似がノシてしまった男を引きずりながら、銃を片手に顔を出した。 「こんな物騒なもの持ち歩くんだから、最近の子はダメね。没収させてもらうわ」 「チッ、一人じゃなかったのか・・・」今度は西岡と田中が現れた。 「あら、親玉がご登場して下さるとは思わなかったわ。こっちも敬意を払う必要があるかしら」御子が田中に言った。 「出来ればおとなしく人質にでもなってくれれば、最大の敬意と受け取ってやれるんだが」田中も返した。 「そのご期待には答えかねるわね。命の保証もないみたいだし」 「保証出来れば人質にはならねえからな。力ずくであんたらにはおとなしくなってもらおう」田中がそう言うと病院と隣の建物の陰から、わらわらと大人数が手にナイフや、鉄パイプ、木刀などを持って出て来た。 礼似と御子をそのまま取り囲もうとしたところに、良平が現れた。近づいた男の手先に斬りつけて、手にしたナイフを跳ね落とす。 「俺を勝手に事故らせるなよな」 そう笑って見せたものの、これは結構な人数だ。組に助っ人を頼んだが、まさか田中が出てきてここまで人をかき集めてきていたとは思っていなかった。これはなかなか大変だぞ。良平も緊張感が増す。御子や礼似もそう思っているのだろう。辺りに緊張した空気が一気に張り詰めた。 「義足のロックを外した時の安定が、まだよくないんだ。身体が動きになれるまで、二人でこらえてくれ」 この人数ではロックをした状態の動きでは、とても相手にしきれない。不安はあっても外すしかない。 良平の言葉に御子と礼似がうなずく。それを確認すると、良平も義足のロックを外した。
良平が先に斬りかかっていく。速さがあるので相手はたちまち後ろに下がる。その間隙をぬって礼似が相手の武器をはらい落とす。しかし良平の体がバランスを崩しかける。そこを御子がサポートして、相手を近づけさせない。 まず、良平の体が慣れるまでは、このペースで身を守るしかない。その後は攻めてはいけるが人数が多い。真柴からの助っ人が来るまでは、無理な真似はできない。助っ人が来れば来たで、これは久しぶりの大乱闘だ。心してかからなければ、何が起きるか分からない。あせりは禁物、とにかく身を守り続ける。 すると突然、駐車場に車の隊列が次々と侵入してきた。思わず全員がそちらに気を取られる。三人は後ろに人影を感じて振りかえった。礼似が一人で驚いた。 「一樹!なんでここにいるの?」 御子と良平はキョトンとしている。 「会長が雇った情報屋よ」礼似は客観的事実だけを説明する。面倒な事を話している場合じゃない。 「今はこてつ組の助っ人と呼んでくれよ。これだけの面子がそろっているんだからな」 車の中からは会長と幹部が数人、腕っ節のいい若い者たちがずらりと出てきて田中達を睨みつけている。人数的には少ないが、威圧感がまるで違った。 この姿を見て、田中達は後ずさる。車に向かって身を翻そうとするが、会長たちはそれを許さない。一斉に乱闘が始まった。 乱闘のさなかにもかかわらず、礼似は一樹に聞いた。 「わざわざ会長までお出ましって、物々しいわね」ナイフの相手に鉄パイプを食らわしながらも、のんきに尋ねる。 「ここで甘さを見せれば会長が舐められるからな。おおっと」一樹は相手の木刀を慌ててよけた。 「一応、ちゃんと堅気だったのは認めてあげるわ」礼似が相手の木刀をはらい落としながら、一樹を助ける。 「動きが鈍ってる。ちょっとおとなしくしてて頂戴」そう、軽口をたたきながらも相手を次々倒していく。 一樹は「俺が会長たちを案内したのに・・・」とぶつぶつ言いながらも、動きでは現役の礼似にかなわないのを認めて、礼似の後に下がった。 しかしその間に良平の感覚が慣れて来たらしく、数人があっという間に倒れると、向こうは簡単に近づかなくなってきた。にらみ合いが続く。 「礼似さん!お待たせ」と、香の声がして真柴組長や組員達、土間や華風組の若い者、ハルオもやってきた。 これで人数的にも有利だ。勝負あった。 だが乱闘には勢いがついてしまっていた。収まる気配どころか、やや、やけになった反会長派の者達が逆に仕掛け続けて来る。 乱闘は収まる気配を見せなかった。
|
|