3.スリ こてつ会長は手にしていたファイルを机に置き、目頭を押さえながらイスに沈んでいた。 自らの求心力が落ちかけているのが手ごたえとして分かってしまう。 もちろん分からなければ自滅の道をたどるため、対策を打つためには察知できなければ困るのだが、精神的には疲れて来る。しかも弱気は見せられない。 組織が大きいほど派閥が大きく、複雑になるのはどの世界でも同じ事。派閥が存在しない方が不健全なのだろう。 さらに基本は一匹狼の多いこの世界。おとなしく同じ派閥にまとまってなどいない。裏切りは日常茶飯事だ。 それでも、麗愛会の吸収前はそれらの動きが把握できていた。幹部達もそれぞれの派閥の長としての役割を担っていたし、裏切りも程度が過ぎれば信用の失墜が待っていた。だから、会長は幹部達の状況と動きに目を光らせさえすれば、求心力を保つ事が出来たのだ。
ところが最近、幹部達の力が軽んじられてきている。組の巨大化に伴って、派閥よりもさらに大きな力が求められてきているらしい。派閥も信用も関係ない。裏切りに程度も何もない状態となりかけている。その上、どうやら派閥を越えた反会長派と呼ばれる勢力まで出てきているらしい。 現在はこてつ会長の求心力によってその求めに応じている。応じきらねばならない、緊張した状況が続いている。 ここで隙を見せようものならこてつ組は事実上解体し、巨大な組織内で大戦争が勃発する恐れもあるのだ。 今や目にする幹部達、側近たち、すべてにいつ裏切るかというフィルターを通して接する必要がある。 よって、会長は疑心暗鬼の渦巻く中で、孤独な戦いを強いられている真っ最中なのだった。 今必要なのはこてつ組内部の正確な最新の情報だ。組員には任せにくい。上の者は信用しにくいし、下の者では危険が伴う。華風や、真柴の人間を使えば、何かあった時には組内の反発を招くだろう。 礼似の事も頭に浮かんだが、彼女一人では荷が重い。出来れば外からの冷静な視線も欲しいところだ。 現在、組織に関係していない外部の人間で、正確、かつ、適切な情報を集められる人物はいないだろうか? そんな事を考えながら、会長は情報屋といわれる人物達のファイルをめくり続けていた。
噂という情報は、正確さには欠ける癖にスピードだけはやたらと早い。しかも消えるのも早いのだから厄介だ。 しかも、自然に発生した噂は人の口を流れるうちに方向性を失って、嘘も真実も関係なくなってしまう事が多いが、そこに恣意的な意図が混じりこむと、実体がないままに、まことしやかな真実となって一人歩きを始めてしまう。 そんなうわさ話の尻尾を捕まえようという、雲をつかむような作業に礼似は一人で挑んでいた。 まずは、本当に反会長派なるグループが存在するのか?良平を襲った奴らがいる事は確かだが、それが一つのグループなのか、会長に不満を持つ者がただ、寄り集まっただけなのか?そこからして分からなかった。 中堅どころより上の人間に「噂を教えろ」と言って、「はい」と答えるバカはいる筈もないから、下っ端達の中から口の軽そうなのを片っ端から捕まえては、あれや、これやと話しを聞きまくる。時間もかかるが、財布の方も結構(!)軽くなってしまう。しかも、口の軽い相手の様子を見て、何割まで信用できるかも判断しなければいけない。 それでもどうにかその日のうちに、何らかの意図をもったグループが形成されつつある事は把握できた。大谷にいたっては、噂を使って自分がいつでも動ける事をむしろアピールしている気配さえあった。 しかし、その翌日には皆の口が堅くなった。礼似が噂をあれこれ掘り返している事が、すでに噂として流れたらしい。内部で情報を得るのはこれが限界なのだろう。 香とハルオが何かをつかむのを待ってもよいが、これは情報戦だ。状況の把握は早いに越した事はない。 出来れば外部からの判断と裏付け、噂の正誤に鼻の聞くカンの良さが欲しいところだが、残念ながらそういう人物のつてがない。本当に役にたつ情報屋は、金や、一時の繋がりだけでは相手にしないのだ。 こうなったら気は進まないが、御子に幹部達の心を読んでもらおうか?でも、主だった幹部だけでも三十人以上。しかも今度は御子が狙われるリスクを負ってまでやるべき事とも思えないし。 礼似があれこれ考えを巡らせていると、こてつ会長からお呼びがかかった。やっぱり反会長派の件かしら?
ハルオと香の尾行も二日目を迎えていた。礼似からの連絡で、礼似の情報収集は、すでに組内で噂となってしまっていたらしい事が分かった。 「れ、礼似さんはやりにくくなっただろうが、こ、これできっと何かの動きが起こるはずだ。お、大谷に近付く人物は注意しないといけない」ハルオの緊張感が増す。 「ね、ワイヤレスマイク持ってない?」香が言い出したが 「そ、そんなのつけるのに苦労する。ま、まして回収もしなきゃならないんだから、二、二度も接触するなんて」 「そこは心配しないで。持ってるなら貸して下さい。大谷に近付く人間の会話は、もれなく聞きとりたいんでしょ?」 ハルオはしぶしぶ、香に盗聴器を渡す。香はさっさと歩きだして一瞬大谷とすれ違った。ぶつかる風も、手を動かした気配も感じなかったが、香はそのまま戻ってきた。 「オッケー。上着のポケットにピンで刺してきた。これで会話はバッチリよ」香は得意げに言う。 たしかに周波数を合わせると、大谷の声が聞こえてくる。これで無駄に近づくことなく会話を知る事が出来る。 「い、いつのまに・・・」ハルオは唖然とした。 「私の母親はスリだったの。それも一流の腕のね。私はそこまでは及ばないけど、このくらいなら朝飯前よ」 香は盗聴器に聞き入りながら言う。 「ハルオさんも、私と歩く時はポケットに気をつけた方がいいですよ」 香に言われて、ハルオはポケットに思わず手を突っ込んでしまった。香は楽しげに笑いながらも耳をすませた。 「あ、携帯が鳴ったみたい・・・」
大谷は連絡を待っていた。前日に礼似が組内の噂話をかぎまわっている事を聞いていたので、会長か、反会長派のグループが動き出すだろうと読んでいた。大谷には反会長派が必ず存在すると思っていた。大谷の元の弟分の西岡という男が、そのグループに深く関与していたからだ。ひょっとしたら、西岡が旗振り役をしているのかもしれない。そもそも、西岡は麗愛会の吸収を快く思っていなかったはずだ。 西岡は自分が裏で管理していた地元企業を、麗愛会にまんまと取って代わられた事があった。いくら暴走組とは手を切った連中だといっても、西岡が簡単に信用するとは思えない。だいたい、組織内の複雑化を招くこの吸収自体も西岡のように派閥的な考え方を嫌う奴には腹にすえかねているはずだ。 彼らはもっと大きな力、手っ取り早く言えば、金と権力を自在に動かせる力を求めているようだ。
大谷自身は反会長派は、巨大化したこてつ組を安定させる力があるとは思っていない。欲の多い人の世で、金と圧力だけで渡り切るのはむしろ不可能だと思っている。 しかし、それでこてつ会長が失脚するのなら、所詮それまでの器。無理にそんな男について回る事はない。西岡達の浅い考えなら、うまく立ち回れば自分に会長のお鉢が回ってこないとも限らない。それは無くても、裏から操る事は十分に可能だろう。 逆にこてつ会長がここで組の掌握に成功するなら、さっさと西岡達を排斥して会長のバックアップを買って出ればいい。この事態をを乗り切る技量がある人間に、あえて逆らう必要などない。普通に上を目指せばいい話だ。 不思議な事に、時間のある若い時ほど功を焦るもので、もう、けして若いとはいえない年の自分などは、慌てず、逆らわずにいても、チャンスは逃さない目を持ってさえいれば、余裕を持って先を見極める事が出来る。 華々しい注目など集めなくとも、最後に収支が合えばいいのだ。 そんな事を人ごみを歩きながら考えていると、携帯電話の着信音がした。何か動きがあったのだろうか? 「どうした?動きはあったか?・・・会長はまだか。西岡は?やはり一度はどこかで集りそうだな。よし、とりあえず俺と西岡は反目しているらしいと、噂を流しておいてくれ。西岡から目を離すなよ。・・・ああ、また連絡してくれ」 大谷は通話を切ると、すかさずどこかに電話をかける。 「俺だ。会長が動かないと聞いたが、考えられん。礼似意外に誰かと接触した気配はないか?確認できなくてもいい。電話や携帯とは限らないだろう?・・・分かった。もういい」 大谷は苛々と通話を切った。会長も用心深くなっている。第三者の手を介さずに自分決めで物事を運び出した。 「これは会長に分がありそうだな・・・」大谷は一人、つぶやいた。
「に、西岡って、わ、分かりますか?」ハルオが聞いた。こてつ組の事にはあまり詳しくはないのだ。 「組の中堅どころの人ね。組が関係してる地元企業の要求をこまめに聞いて回ってる人だわ。簡単なゆすりぐらいなら、西岡さんが解決しているみたいだし。フットワークの軽い人って印象があるわ」香が知りうる範囲で答える。 「こ、この人の、に、人間関係は、れ、礼似さんで分かりそうですね」 「そうね。早く調べてもらった方がいいかも。でも、集るって言ってたから、その情報が入るまでもう少し粘った方がいいのかな?」盗聴が今のところうまくいっているので、香は欲が出ている。 「い、いいえ。じょ、情報は鮮度が大事です。ま、まずは礼似さんに知らせます。マ、マイクも早く回収しましょう。ぶ、不用心な行動は、き、禁物です」ハルオはあくまでも用心深い。香は少しイライラする。 「マイクの回収は急ぐことないんじゃないですか?また連絡があるようだし」 「マ、マイクの存在がバレたら、い、意味ないです。は、はずす時も、十分用心して下さいよ」 「分かってるわよ」 こういう時の返事は、だいたい本気で答えてはいないもの。香もこの時は惜しいなと思いながら、いやいや接触を図ろうとした。指先の感覚などごくわずかな事で狂う。大谷は上着のポケットに違和感を感じたらしく、香の方に振り返りかけた。まずい。 香はとっさにマイクの他に大谷の財布をスった。顔を見られないようにうつむいたまま駆け出す。大谷が財布がない事に気がついた。 「このアマ!」そう叫んで大谷が追いかけて来た。香は財布を大谷に投げつける。見事に大谷の顔にあたった。 大谷がひるんだすきに香は必死に逃げた。わき目も振らずにどんどん走り続けた。
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