1.土間の苦悩 そこには女がいた。暗く、涙に枯れ果てた赤い目をした女。自らの幸せをすべて奪われ、絶望の淵に立たされた女。女の目には自分の幸せを奪った男の妻の姿が映る。周りに居る男達の姿は目に入らない。 (私の幸せは奪われた。でもこの女はあの男とこれからも幸せに暮らすのだろう。・・・そんなこと、許さない!) 女は駆け出した。握りしめた包丁を相手に突き刺す。相手が倒れた先から自らの胸を突き刺した。 男達が右往左往する中、二人の女が血の海の中で横たわる・・・ 「富士子!」土間は叫びながら飛び起きる。嫌な夢だ。最近昔を思い出さなければいけない事が多いせいだろうか?少し、疲れているのかもしれない。 身も心も昔の面影を消し去っても、過去まで消すことはできない。だからこそ、この組の未来は自分の手で切り開きたい。それが自分なりの恩の返し方なのだから。 そう自分に言い聞かせながら、土間は大きく深呼吸する。もうすぐ夜が明けそうだった。少し早いが起きてしまおう。今日は元の麗愛会の組長の四十九日法要があるのだから、早めに支度を済ませてしまいたい。 土間は窓から夜の明けかかる空を眺めた。 その日の午後、喪服姿の土間と礼似は寺の近くの喫茶店にいた。法要に出席し、関係者による昼食会を終え、帰路に就く前に二人は軽く休むことにした。店の中は静かで、午後の光にあふれている。窓の外は青空だ。 「土間が組長になって三カ月か。早いものね」礼似が切り出した。 「そうね。麗愛会の組長も安心したのか、穏やかな日々を過ごせたようね。家族に囲まれてとても安らかな最期だったそうよ」土間は自分の事には答えす、亡くなった故人をしのんだ。 「・・・なんだか土間、少し疲れているみたい。仲居の仕事の方は辞めた方がいいんじゃないの?」 普段遠慮のない礼似にしては珍しく、土間を気遣う言葉がでる。それほど土間には何か翳りがあった。 「逆よ。仲居の仕事や、ドマンナの経営がせめてもの気晴らしになっているの。これが無ければやっていられないわ、組長なんて」 土間が愚痴るのも当然で、華風組の改革は遅々として進んではいなかった。 血筋やしきたりにこだわらない家風を作る。言うは易し、行うは・・・ 昔から古風な華風組は、年配者の意見が大きくものを言って来た。 本来なら杯を交わした以上、上が白と言えば黒い物も白と言う世界ではあるが、そこは歳の功と言うか根回しが早いというか、自分達のプライドにかかわる事態に対しては即座に年配者同士で話をつけ、それが組員の総意であるかのように訴える。いくら組長とは言え、組員の総意を無視することは出来ないのだ。 そうさせないために代々の組長の意思を前の女組長と共に訴え続け、土間の「聡次郎」時代の実績を示しながら、広く組員達を説得する必要があった。土間にとっては封印したはずの過去を自ら利用する羽目となり、それさえも「所詮、腕っ節だけで成り上がった過去の栄光」と、かたずけられかねない状況であった。 結果、華風組の内部は「代々の(都合のよい)家風」を守る一派と、「次世代を託す新たな家風」を作ろうとする土間達とに分裂するぎりぎりのところに立たされているのであった。 「こてつ組がうらやましいわ。会長もお子さんはいらっしゃらないけど、そんなことで組が割れるような事はなさそうだものね。いずれは実力のある幹部を養子にでもして後を継がせるおつもりでしょうけど、あそこは人材にも困ることはなさそうだものね」土間はつい、ため息をつく。 「養子と言えば・・・。御子もついに真柴組長の養女になるそうね。御子、喜んでるでしょう。ずっと組長の養子になりたがっていたから」思い出したように礼似が聞いた。 「真柴組長が女はいくらでも人生が変わるから、やくざ者の養女になどしない方がいいって、ずっと籍を入れてなかったのよね。あの組長さんらしいわ。でも考えが変わったみたい。良平と一緒になるのなら出来れば組を二人に継いでもらいたいって。御子はもちろん大喜びよ。やっと組長をお養父さんと呼ばせてもらえるって」 土間も一時自分の悩みを忘れて嬉しそうに答えた。 「御子と良平ねえ・・・。千里眼と電光石火。絶対に夫婦喧嘩させちゃいけないカップルだわ」 礼似の台詞に二人は顔を見合わせて、思わず噴き出し笑いだした。 「はっくしょん!」 御子は大きなくしゃみをした。誰か噂でもしているのかしら? 「大丈夫か?冷房が利きすぎているんじゃないか」良平が聞いてきた。 「大丈夫。どうせ礼似あたりが噂しているんだわ。・・・ろくな噂じゃないだろうけど」 御子と良平は街の郊外の映画館に来ていた。真柴組長の心づかいである。 二人とも同じ組に居るので、御子が仲居の仕事に行く時以外は二人が一緒にいる時間は多い。ところが二人きりでいられる時間は意外と少なかった。真柴は小規模で家庭的な組なので、皆、二人の事は良く知っているし、遠慮が無い。二人は好奇の目と、冷やかしの嵐に晒されてしまい、このところ辟易していた。 そこで組長が気を聞かせて「今日の法要の後はこてつ会長と飲んで来るから、二人でゆっくり映画でもみてきなさい」と、送り出してくれたのである。 「でもお手洗いは済ませておこうかな。映画が始まったら席を立ちたくないし」と御子が言うので 「席なら取っておくからいってこいよ、どうせしばらくは予告だろうし」と良平も促した。 そこで御子は良平と別れてトイレに行ったのだが・・・ 用を済ませて化粧を直し、さあ、戻ろうと通路を歩きだしたのだが、奥まって死角になったあたりから、人の気配を感じる。しかも不安げ様子まで漂って来た。 御子は迷った。今は良平を待たせている。しかも組長がせっかく作ってくれた時間だ。余計な事に巻き込まれたくはない。・・・でも。 散々迷った挙句「全く私もお人よしだわ!」とぶつぶつ文句を言いながら、御子は気配のする方へと向かった。 行って見ると案の定、気の弱そうな少年が大勢の少女に取り囲まれていた。 「だからさっさと財布出せって言ってんだろ」少年は少女達に取り囲まれたまま、脅されている。 (なんだ、カツアゲか) 御子は少し気が抜けたが、みれば少年も少女もまだ中学生くらい。十四、五歳と言ったところか。 (全く最近の子供は・・・)と、ありがちな台詞を頭に浮かべながらも、今更見過ごすわけにもいかず、御子は彼女らに声をかけた。 「ちょっと、あんた達!何してんの!」 御子が大声を出すと「やばい!」「まずい!逃げろ!」と口々に言いながら、雲の子を散らすように逃げていく。 ところがその中の一人の少女だけ、逃げもしなければ、財布から手を放す事もなく御子を睨みつけている。 どうやら彼女がリーダー格のようだ。 「おばさん、補導員?」睨んだまま少女が聞いてくる。 「違うわ。いいからその子に財布を返しなさい」 (かわいげのない娘だ)御子は少しむっとしながらも、少女に促した。 「お節介なおばさんだな。それともあんた教師?休み中の婦警?」少女は財布を離す気配さえ見せない。 「教師でも婦警でもないわ!いいから財布を返しなさい!」御子が強く言う。 「うるさいな、邪魔しないでよ。婦警だったらその辺のネズミ捕りでもしてたら?」 随分と生意気な娘だ。大人を完全に舐めてかかっている。御子は強引に彼女から財布を取り戻そうとする。 しかし少女もとっさに手を引っ込めて、財布を取られまいとする。なかなかの反射神経だ。 仕方がない。我ながら大人げないとは思うが、この子には少々お灸を据えた方がよさそうだ。 御子は力を使って、彼女の動きを先読みし、少女を後ろ手にして捕まえてしまう。 その瞬間、偶然御子と少女の視線があってしまう。どろりと侵入する、彼女の心のイメージ・・・ その数分後、様子を見に来た良平と会った御子は少女を捕まえたまま、呆然としていた。 「何をしているんだ?」良平が唖然として聞いてくる。すると少女は 「なにこれ?おばさんの旦那?結構いい男連れてんじゃない。あたしにも回してくんない?」 と、御子に聞いてきた。 やっぱりこの娘、可愛くない! 御子は少女をぎろりと睨みつけた。
|
|