一度失った目標を立て直すのはやはり難しい。一心に向かった後であればなおさらだ。 しかし礼似の心は蘇った。むしろ全てを失ったからこそ、一樹への思いの深さが礼似の中で燦然と輝いていた。 「一樹、あんたは誰かを恨まなければ生きられないって言ったわね。なら、私だけを恨んでちょうだい。母の代わりではなく、永井を殺せなかった私自身を恨むの。他の誰も恨む必要はないわ。もちろんあんた自身もね。私はこれからも上を目指すわ。復讐のためなんかじゃ無く、私の存在を証明するために」 「存在の証明?」一樹が聞き返す。 「そう、有名な詐欺師だった母ではなく、私自身がこの世界で生きている証明。私は母を越えるわ。母とは違った生き方でね。だからあんたにも何かを目指してほしい。人を憎む以外の何かを」 「それが俺の存在の証明になるっていうのか?」 一樹の問いに礼似は深くうなずく。 「あんたの憎しみはすべて私が受け止めるわ。あんたは私を解放してくれた。母の血の呪縛から解き放って、母を越える勇気を持たせてくれた。だから私は一樹のすべてを受け入れる。今の私なら、その自信と覚悟があるの。これは一樹のためだけじゃ無くて、私の生き方の問題でもあるのよ」 一樹は礼似の言葉に、じっと聞き入っていた。彼は間違いなく礼似自身の言葉を聞いている。 「それは俺の生き方の問題にもなる訳だな。確かに俺はずっとお前の向こうに見えるお前の母親の陰に縛られていた。それを承知の上で、俺にお前自身を憎めっていうのか?」 「そうよ」礼似は簡単に答えた。 「私はね。今やっとあんたと正面から向き合っているの。今までは母親の陰として、あんたの勢いに引きずられてここまで来てしまった。でも今はすべてまっさらになる事が出来たの。母親の陰に歪んだ心じゃ無く、私自身の心でやっと一樹を真っ直ぐに想う事が出来るのよ。それが私に勇気をくれた。だから私はもう一度上を目指す。一樹を見届けるためじゃ無く、私自身のために」 途中からは独白になっていた。礼似は自分自身に言い聞かせていた。 「一樹になら憎まれてもかまわないわ。たとえ一生でも。それだけの価値はあるわ。だから一樹にも何かを越えてほしい。人を恨まずに生きる道を選んでほしいの」 本当にそう思った。一樹の心を開放したい。出来る事なら自分の手で。 礼似は自らが一樹の憎しみの対象となってでも一樹を他の憎しみから解放したいと願った。 それは優しさや感謝だけではなく、初めて真っ直ぐに一樹への・・・誰かへの愛情を向ける事が出来る純粋な喜びだった。 私は一樹の心を救いたい。 親の過去さえ越えてしまえば、こんなにも簡単な事だったんだ。 一樹は礼似を見ている。彼が礼似と共に上を目指すか、礼似から離れて生きるかは、一樹次第だ。私は一樹がどちらを選んでも受け入れる事が出来る筈だ。礼似は自分に言い聞かせていた。 「お前が存在証明のために上を目指すというのなら・・・」一樹はゆっくりと答えた。 「俺は永井を越える事を目指そう。母にかばわれながらも生き延びられなかった父親を越える事を目指そう。今の俺にはお前を憎めるのかどうかも解らない。でも、お前の覚悟を聞いて思った。俺も何かを越える事を目指して生きてみたい。もう一度お前と上を目指してみたい」 「目指せるわ。きっと。私たちなら」 ようやく二人は動き始めた。自分達だけの人生を取り戻すために。 今度は上に上り詰める事が・・・登り切ってしまう事が目的ではなかった。自分達を苦しめて来た何かを越えることこそが目標になった。二人は再び走り始める。 二人はまず、組織内の様子に気を配った。今まで以上に不穏な空気や、妙な気配がないか日常の様子に目を光らせた。もちろん自分達のスタンドプレーからの失敗にも立ち返って、個々の動きにも注意を向けた。 そして、なまじ幹部にならないからこそ、一歩離れた立場から、幹部達の様子に気をまわした。二度と永井にしてやられたような事態を起こしたくはなかった。 銃の流通ルートにも目を配った。一樹は自分の持ちうる情報を徹底的に洗った。礼似もその確認に走り回った。 丹念な作業が功を奏し、銃を簡単には他の組織に流されずに済むようになっていった。 こうして二人の仕事は、より細やかに、より綿密なものへと変わっていった。 銃の管理が徹底してくると、簡単に撃ちあいなどは起きなくなっていく。けが人もずっと減ってきた。 そんな地道な仕事を続けるうちに、二人は自然に組織の中心として重んじられ始めた。と、同時に組織自体の足場もしっかりとして来た。以前のような不安定さはすっかり感じられなくなって、組織そのものがまとまりを見せ始めていた。 しかし、そんな中でも街の外からの勢力が組織を襲い始めた。以前よりもずっと大きな組織だ。街の他の勢力も自分達のシマを守るのに精いっぱいの状況らしい。 麗愛会のシマの店店も次次と荒らされていく。 「こうなったら元から断つしかないな」一樹はそう判断した。 「元?中心人物をたたくって事?」 「そうだ。規模で比べたらうちは不利だ。人数でもかなわないだろう。しかしこのままやられっぱなしと言う訳にもいかないが、正面からぶつかる訳にもいかない。こうなったらゲリラ戦で大元の奴を街から追い出すのが一番いいだろう」 「でも・・・幹部達が協力するかしら?」 幹部の中には巨大な勢力とはいっそ手を組んで、組織の安定を図ろうとする動きがあったのだ。 「あいつらは手を組んでも力にものを言わせて、こっちなんかいい使いっぱしりにされるのが落ちさ。それでもうちが消耗させられるのを嫌がって、手を組みたいなんて言ってるだけだ。だから今が大事なんだ。ここは組織が二つに割れた時の厄介さをまだ知らない。今は何より、うちが一つにまとまる事が大切なんだ。会長も今度ばかりは俺達に理解を示してくれている」 実際、幹部のこうした動きを礼似達に知らせてくれたのは会長だった。 「だから今回は、俺達の手で、ゲリラ戦を成功させてやる」 「どうやって?」 「体を張るのさ。禁じ手でな。ただし今度は会長公認だぜ」
9.解放 礼似は久しぶりの緊張感を味わっていた。もう数カ月ぶりの「禁じ手」だ。 一樹と上り詰める事だけに夢中になっていた日々を思い出さずにはいられない。 接触を計る時は相手のテリトリーで。 初仕事の時は相手の目の前だった。今度はそれどころじゃない。相手の事務所の中へと入って行こうとしているのだから。 礼似の手には茶封筒が握られている。中には一樹が作ったニセ情報が入っているはずだ。 あらかじめ相手方には麗愛会の中に、向こうと手を組みたがっている人間がいる事を、わざと知らせてある。ここまでは事実なのだから、情報として流すことは簡単だった。 礼似はこの情報の詳しい内容を示したニセの書類を相手に渡す役を演じるのだ。 「とにかく向こうに罠だと気付かれずに無事に封筒を渡してくれ。後は俺が次の手を打つ」一樹が言った。 「次の手?何?」 「それは後でのお楽しみさ」 その自信ありげなせりふ回しに、礼似は以前の一樹を思い出す。そうだ。一樹はいつもこうだった。自信家で自分褒めが得意で・・・。 やっぱり一樹はこのままじゃ終わらない。きっと何かを越える事が出来る。 その核心を胸に礼似は相手の事務所へと向かって行った。 今までのこの手の仕事では、いつも一樹が礼似を見守っていた。だが今度はそうはいかない。本当に自分の才覚だけでここを乗り切らなければならない。 礼似は今回、自然にふるまう事より、むしろ不自然さを強調している。わざとかつらをかぶり、化粧も幾分濃くしている。組織を裏切っている後ろめたさをわずかに演出しながら、事務所の扉の前に立っていた。 さあ、勝負よ。 礼似は自分に気合を入れて、事務所の扉を開いた。 「あんたが礼似か?」 事務所に入ると、部屋の奥に陣取るようにゆったりと座った男が、いきなり礼似に詰問した。 「そうよ。あんたが松木?」礼似も聞き返す。 部屋の中にはざっと七、八人の男達がいた。礼似一人では力任せにかなう人数ではない。失敗すればただでは済まないだろう。 「それで、麗愛会に私達と組もうとする動きがあるというのは本当なんだな?」男はあらためて聞いてきた。 「だから私がわざわざここまで足を運んだんじゃないの。でなきゃ、こんなところまでのこのこ来やしないわ」 「それもそうか。まあお前達も、寄らば大樹の陰と言う訳か。まあ、賢明な判断だ」 「うちはやっと足場が固まったばかりだから、厄介事はイヤなのよ」 男は礼似の手にした茶封筒に目をやった。 「それが、例の情報か?」 「ええ、うちの幹部の中でも、あんた達の意向に沿った意見を持った者たちのリスト。それからうちの詳しい内情が書かれているわ」 礼似は封筒を軽くかざしてみせた。部屋中の視線がその封筒に集まる。 その時礼似は何か部屋の空気が、ふっと動いた様な気がした。 しかし部屋の中に変わった様子は見受けられない。気のせいか? 礼似はやや用心深く、封筒をしっかりと抱え込む。 その姿を見て松木は 「ではさっそく、その封筒を渡してもらおうか」と言う。 「ちょっと待ってよ。これを渡したら、確かにこっちと手を組む用意はあるんでしょうね。」 礼似は念を押した。 「勿論だ。お前達は私達がこの街で暗躍するための大切な足掛かりだ。こっちだっていきなり抗争をしかけるような無駄は省きたい。安全、かつ、速やかな方法を選ぶさ。うちはいつもそうやってきたんでね」 そう言って机の引き出しから書類を引っ張り出す。 「うちと組んだらこの辺のシマのもうけは、六対四で分けてもらう。ただし、あんたらは安定した力と、広い視野を手にする事が出来るだろう。これはそのための書面だ。これをそのリストと交換しよう」 礼似は松木の近くに寄って行く。茶封筒をゆっくりと差し出し、書面を受け取る。松木も封筒を受け取った。 「交渉成立だ。中身を確認する」 そう言いながら松木は封筒を開けた。 取りだされた封筒の中身に、誰もが驚いた。もちろん礼似自身も。 封筒の中身は全くの白紙だった。いったいなぜ?礼似は狼狽した。 と、同時に部屋の空気が凍りついた。一樹が松木の首筋にナイフをあてがっていたからだ。 「いつの間に・・・」松木がナイフをあてがわれたまま、唖然としていた。 「悪いが交渉は決裂だ。麗愛会はあんたらとは組まない」一樹が言う。 「こんな事をしてただで済むと思っているのか?」 「下手な脅しは通用しないぜ。あんたがこの街に進出するための親玉だってことは知ってるんだ。あんたんとこみたいな大きな組織はあんたのためには動かない。俺にこんな真似されたあんたに貴重な戦力を割いてまで、うちに手出しなんかするもんか。今あんたを殺せば、うちなんかさっさとあきらめるだろう。あんただって命は惜しいだろう?」 そう言って一樹はにやりと笑う。 「悪い事は言わない。うちに手を出すのはやめときな。うちには俺以外にもはしっこいのが大勢いるぜ。いつだってお前ののど元にナイフをかざしに来てやるぜ」 一樹は松木を人質にして、礼似を促しながら事務所を出る。そして建物から完全に離れると、ようやく松木を開放し 「下手な真似するなよ。この辺は銃口がお前を狙ってる。ハッタリじゃないぜ。うちの会長はお前のやり方が嫌いらしいんでな。うちには二度と手を出すな。どこかよそをあたるんだな」 そう言い放って一樹と礼似はその場を後にした。 「一樹、あんたいったいなんてことするのよ」礼似は思わず一樹を問い詰めた。 「驚いただろ?」一樹の方は楽しげだ。 「驚いたに決まってるでしょ。まさかあんな無茶をするとは思わなかったわ」 「言っただろ?ゲリラ戦だって。向こうもこうやすやすと俺に入りこまれるようじゃ、もう、うかつなことは出来ないだろう。そんなうっとおしい事をしてまで、うちにこだわる必要はないはずだ。実際俺なら何度でも入りこめるぜ」 一樹は機嫌よく言う。まるでいたずらに成功した子供のようだ。 「正直このところ、礼似には言われっぱなしだったからな。まるでお前に引っ張られているようで、癪で仕方なかったんだ。お前のあの時の顔は見ものだったぜ。ああ、せいせいした」 一樹は今にも口笛でも吹きそうな顔をしている。礼似は思わず笑い出してしまった。 「一樹、あんたには呆れたわ。こっちは命懸けだったっていうのに」礼似は笑いながら言った。 「俺だってそうさ。敵さんのど真ん中だぜ。だいたい俺がお前だけに身体を張らせるような真似、する訳がないだろう?お前は俺の新しい希望なんだぞ」 「希望?」 「そうさ。俺が前を歩いて行くための希望だ。俺は人を憎んで生きるのはやめる事にした。お前を憎んで生きるなんて出来やしないよ。だからお前は俺の希望なんだ」 一樹の瞳が明るい。こんな目をした一樹を見るのは初めてだ。明るさと希望を見据えて、まるで少年のような目をしている。こんな一樹を見る日が来るなんて、礼似は思ってもみなかった。 一樹とこんな風に笑いあえる日が来るなんて。 それでも礼似は、つい、言ってしまった。 「何だか一樹ったら、子供みたいね」 一樹は少しおどけた瞳に、真剣さをくわえて 「そうか?子供ならこんなこと、しないだろう?」 そう言って礼似に口づけて来た。 一樹の脅しが聞いたのか、会長の様子から、麗愛会は厄介そうだと判断されたのか、結局麗愛会がこの件に巻き込まれることはなかった。組織の安定感は一層増し、内部分裂の危機は無事に回避された。 それからしばらくは大きな出来事もなく、一樹と礼似にとっても、穏やかな日々が続いていた。 ある日、一樹が携帯を置いたまま席を立った時に、その携帯が礼似の目の前で鳴った。 一樹に連絡が入るのは、組織の関係者だけだった。礼似はあまり深く考えずに、つい、電話に出てしまった。 「K大病院の眼科担当の物ですが・・・」 病院?
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