「利絵子の夏」
第九話 後編
私と父は、あれから場末の居酒屋に来ていた。 来てから一時間経つが、まだ何も話していない。 目の前の焼き鳥とか枝豆とかにも、私は何一つ口をつけていない。 父は、黙ってビールを飲んでいた。 それから、少し唐突に、けれど静かに、口を開いた。 「……あの親子に関して言えば、詳しくは言えないが、この地区に来なければもう、海に何回沈められていたか……。それぐらいのものだったんだ。それを私は助けてみたんだが……結局この地区の秩序を守るためとはいえ、後味の悪い結果になってしまったな」 私は父の言葉を聞いて、あの光景がフラッシュバックした。
命が消える瞬間。
私が黙って口をつぐんでいると、そんな様子をじっと眺めていた父が、 「……この地区から、元の世界に帰る方法もあるぞ」 父は言った。 「元の世界に戻ったら、私は小学校の教員、おまえは全国大会に出場できるスポーツ少女だ。もしくは全国でトップレベルの勉強の出来る女の子。どちらでも好きな方を選べる。……ただし、この世界で知った記憶はすべて消されるが」 父は言った。 「おまえはこの世界に残ることと、残らないことと、どっちを選ぶ?」 「……戻れないよ。もう、元の世界には」 「戻れない?」 「私は初めてこの町に来た頃、この町はひょっとしたら『mad tea party』の舞台なんじゃないかって思ってた。……けど、実は、私が元居た世界も結局は『mad tea party』なんじゃないかって……最近、思った」 父はビールを飲みながら、 「まあ、利絵子の考えはおおよそ正しい。私たちが今住んでいる世界も、私たちが元居た世界も、本質的には変わらない。ただ違うのは、『目の前に見えている風景』だ。私たちの住んでい『た』世界は、通常に見える。そして、私たちが住んでい『る』世界は通常には見えない。しかし、その源流も結論も、本質的に変わることは決して無い。私たちが、人間という存在である限り」 店内に静かに響く、じゅわじゅわ……という、鶏肉を焼く音。 「私は、この先どちらの風景を見ることも構わない。利絵子が好きな方を選べばいい」 私は、目の前のグラスに入った烏龍茶を眺めていた。 それは、透明な薄茶色に蛍光灯の光が射し込んで、不思議な色模様を作り出していた。 私はしばらく何も考えず、ただその色だけを見つめていたかった。
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