20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:利絵子の夏 作者:高橋隆

第14回   第九話 「父の仕事」 後編
「利絵子の夏」

第九話 後編 

 私と父は、あれから場末の居酒屋に来ていた。
 来てから一時間経つが、まだ何も話していない。
 目の前の焼き鳥とか枝豆とかにも、私は何一つ口をつけていない。
 父は、黙ってビールを飲んでいた。
 それから、少し唐突に、けれど静かに、口を開いた。
「……あの親子に関して言えば、詳しくは言えないが、この地区に来なければもう、海に何回沈められていたか……。それぐらいのものだったんだ。それを私は助けてみたんだが……結局この地区の秩序を守るためとはいえ、後味の悪い結果になってしまったな」
 私は父の言葉を聞いて、あの光景がフラッシュバックした。

 命が消える瞬間。

 私が黙って口をつぐんでいると、そんな様子をじっと眺めていた父が、
「……この地区から、元の世界に帰る方法もあるぞ」
 父は言った。
「元の世界に戻ったら、私は小学校の教員、おまえは全国大会に出場できるスポーツ少女だ。もしくは全国でトップレベルの勉強の出来る女の子。どちらでも好きな方を選べる。……ただし、この世界で知った記憶はすべて消されるが」
 父は言った。
「おまえはこの世界に残ることと、残らないことと、どっちを選ぶ?」 
「……戻れないよ。もう、元の世界には」
「戻れない?」
「私は初めてこの町に来た頃、この町はひょっとしたら『mad tea party』の舞台なんじゃないかって思ってた。……けど、実は、私が元居た世界も結局は『mad tea party』なんじゃないかって……最近、思った」
 父はビールを飲みながら、
「まあ、利絵子の考えはおおよそ正しい。私たちが今住んでいる世界も、私たちが元居た世界も、本質的には変わらない。ただ違うのは、『目の前に見えている風景』だ。私たちの住んでい『た』世界は、通常に見える。そして、私たちが住んでい『る』世界は通常には見えない。しかし、その源流も結論も、本質的に変わることは決して無い。私たちが、人間という存在である限り」
 店内に静かに響く、じゅわじゅわ……という、鶏肉を焼く音。
「私は、この先どちらの風景を見ることも構わない。利絵子が好きな方を選べばいい」
 私は、目の前のグラスに入った烏龍茶を眺めていた。
 それは、透明な薄茶色に蛍光灯の光が射し込んで、不思議な色模様を作り出していた。
 私はしばらく何も考えず、ただその色だけを見つめていたかった。


← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 1935