「利絵子の夏」
第九話 前編
私はふとしたことから、父の仕事を見ることになった。 それは、相も変わらず散歩をしていた時のこと。
「息子が、息子が……!」 誰かの母親らしき人が、叫び声を上げていた。 そばには、小さな男の子が横たわっていて、微動だにしない。 真っ赤な液体が、まるで水たまりのように周囲に溢れている。 「……この地区に住んでいる以上、仕方のないことです」 真っ黒なスーツを着た中年の男性が、母親のそばで言った。 それは、私の父だった。 「でも、でも……!」 倒れている男の子の母親が繰り返し叫ぶと、私の父はその母親に向かってひどく冷たい目つきを投げた。 「……あなたがそれ以上異議を唱えるなら……私たちは、あなたに対する住居、現金の供給を直ちに停止します」 母親は、呆然としていた。 「……うそ、でしょ」 「残念ですが、本当のことです」 二人は少しの間、無言になった。 それから父が、 「ですが、『何もなかった』ことにすれば、あなたの住居は今まで通り確保されます。息子さんに対する見舞金もおります。それで、手を打って頂けませんか」 母親は、言葉を失っていた。 が、それから急に怒りの目つきをあらわにして、 「ふざけるんじゃないわよ! にんげんが一人死んでるのよ!? なのに、その事務的な言い方ってなによ!」 「手を打って頂くことは、できませんか……」 父とは対照的に、母親の激昂は止まらなかった。 「当たり前よ! 息子の命を返してよ! 返して!!」 父はそれを見て、静かに胸ポケットに手を入れた。 それから、黒く沈んだ鉄のカタマリを取り出して、 そして、
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私は、その光景をじっと見つめていた。 人間というものの儚さ、虚しさ。 何十年かの積み重ねが、ぱっ、と散る瞬間。 透明で綺麗な青空と、セミが鳴く声。 そんなのどかな風景とはあまりにもアンバランスな眼前の世界。 非日常。 お父さんはそんな世界の中から、私を見つけて、 「……ごめん」 と私に向かってただひとこと、ぽつりと呟いた。 わたしは、わたしのからだとこころが、かたかたと震えて、とまらなかった。
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