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作品名:トロイメライ 作者:zanpang

第9回   梅雨のはじまり
 梅雨入りのニュースを聞いたのは、いつも見ている朝の報道番組の天気予報だった。それ以前から大阪では連日雨が続いていたので、ああまだだったのか、と彗太は思った。数日前に百円均一で新しく購入したビニール傘には、この間の反省から、持ち手の部分に黒マジックで『摂津彗太』と書いて、さらにその上からセロファンテープを巻いておいた。
 「せっかくやから、もっと違う色にしたらよかったのに。摂津、緑色とか好きやろ」
 彗太の買ってきた白の透明ビニール傘を見て、祥司が言った。確かに、店にはピンクや青などさまざまな色のビニール傘が売られていたし、緑色も好きである。きっと他の色にしたほうが、間違えることも間違えられることも少ないだろう。だが、結局手に取ったのは前と同じ白の傘だった。彗太はその傘を図書館の傘立てに差して、二階の書庫に向かった。この時間なら、あそこにいるはずだ。
 彗太の大学の図書館の自習スペースは、主に本館の一階と、それとは別棟になっている二階のコンピューター室にあるのだが、本館二階の書庫部分にも窓際に少しそのための空間が設けられていた。通路と窓辺の間という微妙な場所にあるため、そこを使う学生は少ないのだが、専門分野の図書棚が近いためか、彼女はいつもそこで自習しているようだった。
 本棚の向こうからそっと覗くと、やはりいつもの場所で、彼女は背中を丸めて机に向かっていた。
 (・・・猫背)
 普段はそうでもないが、椅子に座ると彼女は姿勢が悪くなるらしい。弟の門馬もそうなので、彗太はすごく注意したいのだが、さすがにそれはしない。ただ、見ているだけである。
 (何してるんだろ、俺)
 彗太は、自分に背中を向けている彼女に聞こえないように小さくため息をついた。
 彼女、鶴見千鶴は、文学部ドイツ文学科の二年生で、大学からは東に三キロほどはなれたマンションで一人暮らしをしている。大学では主に文学部棟か、学生会館に入っている購買部か、そうでなければ図書館にいる。部活動は特にしていないらしい。空き時間や週末には、隣町の結婚式場でウェイトレスのアルバイトをしていると、文学部の友人から聞いた。パンが好きなようで、昼休みになるとしばしば大学の近くのパン屋に現れては、二個か三個ほど買っていく。よく買うのは、値段の割に大きいくるみパンかぶどうパン、まれにあんぱんを買うこともあった。服装はスカートが大半で、清楚といえば清楚だが、同年代の女子大生と比べるとやや地味な感じがした。ちなみにあまり遠出はしないようで、服も日用品も、買い物はほぼすべて近所の大型スーパーで済ませている。
 「摂津くんって、結構ストーカー体質やな」
 そう言い放ったのは泉だが、正直自分でも否定ができない。おかげさまで、寮では最近何かにつけて、そのことで話のネタにされている。ジョナだけが「お好きなんどすね」と、―その笑顔が若干苦笑気味ではあるが―彗太の行為を誠実にとらえてくれる。
 (好き、なのか?)
 そう言われると悩んでしまう。彼らが言うような「好き」とは少し違う。好きか嫌いかと問われれば好きだと答えるが、それは恋愛感情からではない。ただ、ひどく懐かしいのだ。
 「話しかければええやん。久しぶり、俺のこと覚えてるー?って」
 大和はそう言うが、それができないから困っているのだ。時折思いがけなく千鶴と目が合うと、彼女はそのたび、挨拶代わりに軽く微笑みかけてくれるのだが、それは「傘のひと」ないし「タオルのひと」に対する以上のものではないらしい。つまり、彗太のことはさっぱり覚えていないようなのだ。自分で言うのも何だが、地元を歩けば小学校以来会っていない友人にさえ後ろ姿で自分だと気づかれるくらい、彗太の容姿は十年前から変わっていない。それとも、あの日々は千鶴にとって、記憶に残らないくらい些細なことでしかなかったのだろうか。何にせよ、これでは彼の一方的な片思いである。彗太はもう一度ため息をついた。
 その時突然、千鶴が彗太のほうを振り向いた。
 「あれ、おはよう」彼女は彗太に気づくと、もう昼をとうに過ぎているが、そう言った。こちらを向いたのは、単に落とした消しゴムを拾うためだけだったようで、椅子に座ったまま腕を伸ばしてそれを拾うと、また彗太に背を向けて机に丸くなった。
 千鶴の向こうに見える二階の窓には、大粒の雨が打ちつけていた。天気が悪いせいで、外はもう夜のように薄暗い。中庭の外灯が何度か点滅したのち、オレンジ色から白色に輝きはじめた。窓の外が暗くなり、千鶴とともにガラスに映った自分の姿に気づいて、もう帰ろう、と彗太は思った。こんなことをしていても、何にもならない。

 雨は好きだ。寮までの短い道のりを歩きながら、父もそうだった、と彗太は思い出した。保育園に通っていたころ、忙しい母に代わって迎えにくるのはいつも父だった。雨が降った帰り道にはいつも決まって、「雨々降れ降れ母さんが」というところを「雨々降れ降れ父さんが」に変えて唄っていた。
 (そういえば、父さんもいつもビニール傘使ってたっけ)
 彗太の記憶の中にいる父が持っているのは、大きな身体にそぐわない小さな安物のビニール傘だった。彼も一応芸術家の端くれなので、家の内装や彗太の学校の持物など、機能を損なわない程度に色々と凝った装飾を加えていたが、なぜか彼の使う傘だけはシンプルなビニール傘だった。大きくなってから一度その理由を尋ねたことがあったが、答を忘れてしまった。どうしても、思い出せないのだ。ふと道の脇に目をやると、道端に青紫色のあじさいが咲いていた。
 寮の玄関扉を押すと、中から突然ピアノの音が聞こえてきた。
 「え、ピアノ?」ピアノなんて、この家にあっただろうか。彗太は耳を澄ました。
 
いのち短し 恋せよ少女

 あの唄だ、彗太ははっとなった。

朱き唇 褪せぬ間に 熱き血潮の 冷えぬ間に

 音はどうやら、一階の奥、管理人室のほうから聞こえてくるようだった。ピアノのことはよくわからないが、なかなかうまい。彗太は引き寄せられるように管理人室の前まで歩いていった。部屋の扉は開けっ放しになっていた。
 「大和、さん?」
 中であの唄を弾いていたのは、意外にも大和だった。いつもと同じ、Tシャツに半ズボン姿で、この空間にはおよそそぐわない立派なグランドピアノに向かっていた。
 「あ、摂ちゃん。おかえり」彗太の声を聞いて、大和は鍵盤を弾く手を止めた。「見てこれ、すごいやろ。今日、知り合いのところからもろうてきてん」そう言うと、彼は得意げに黒い木の塊を手で軽く叩いた。
 「でもなー、これはちょっと、調律せなあかんな」
 「ていうか、ピアノ弾けたんだな」
 「ちょっとだけな」大和は答えた。「久々に弾きたくなって、無料で譲ってくれはるっていうからもらってきたけど、俺の部屋には置く場所なくてなぁ。仕方ないからここに置いたんやけど」
 「って、ここ管理人室だろ。勝手に置いていいのかよ」というより、そもそも鍵の掛かった部屋にどうやって入ったのだろう。
 「ええんちゃう?誰も使ってへんし」彗太の追及に、大和はあっさりそう答えると、立て掛けてあった楽譜をぱたんと閉じた。
 「あ、その唄・・・」
 「ん、これがどうかしたん?」
 「ちょっと、見せて」
 彗太は部屋の中に入って、今さっき大和が閉じた楽譜をもう一度開いた。この楽譜も相当古いもののようで、ページをめくると空中に小さな埃が舞った。
 「それもピアノと一緒にもらってきてん。大正とか昭和とか、なんか古い唄がいっぱい入っとるみたいやわ」
 「さっきのは?」
 「さっきの?」
 「いのち短し、ってやつ」
 「ああ、そいつは確か」大和は彗太から楽譜を受け取ると、ぱらぱらとページを繰った。数枚めくったところで、上端が折られているページに行き当たった。
 「ああ、あったあった。ページ折って印してあったから、試しに弾いてみてん。へえ、これ『ゴンドラの唄』っていうんか」
 歌詞は知ってたけど、と大和はひとりごちた。彗太も、てっきり『恋せよ少女』が題名だと思っていたので、『ゴンドラの唄』というタイトルはなんだか意外だった。
 「で、その唄がどうかしたん?」彗太があまりに真剣な顔で楽譜を見つめていたためか、大和は不思議そうに彼に尋ねた。
 「この唄、昔、父さんがよく聴いてたんだ・・・」
 そう彗太が言うと、大和はすぐに察したようだった。彼は、彗太の父親がすでに他界していることを知っていた。
 「なら、その楽譜、摂ちゃんにあげるわ」
 「え、でも、俺ピアノなんて」
 「ええから、もらっときって。ちょっとぼろいけどなー」
 彼がそう言うので、彗太はそのままそれをもらうことにした。音符は読めないが、題名と一緒に歌詞も書いてあったので、彗太は部屋に帰ってから改めてそれに目を通した。

いのち短し 恋せよ少女
朱き唇 褪せぬ間に 熱き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日の ないものを

 「命、短し・・・」
 彗太はベッドに寝転がって、歌詞の一節をつぶやいた。情熱的で、それも古風な恋の唄だ。なのに、彗太は何か共感とでもいえるようなものと、そして、ほんの少しの虚無感を感じていた。
 「明日の月日は、ないものを」
 どうして父がこの唄をよく聴いていたのか、今なら少しわかる気がする。彗太は仰向けになって天井を見つめながら、少し泣きそうになった。目を閉じると、父と歩いた故郷の町が脳裏に浮かんだ。

 目を覚ますと、外はもう真っ暗になっていた。あわてて携帯電話の時計に目をやると、すでに夜の十時を過ぎていた。
 「あー・・・」彗太は頭を抱えた。あのまま眠ってしまったのだ。階下からは住民らの騒ぐ声が聞こえた。もうこのまま朝まで寝てしまいたかったが、少し空腹感があったので、彗太はだるい身体を起こして、下の台所に何か食べ物を探しに行くことにした。
 一階の談話室では、祥司と泉が飲み騒いでいた。
 「おっ、摂津!お前も飲むかぁ?」
 「ていうか、てめえそれ、俺のビールじゃねーか!」彗太は祥司の周りに転がっている空き缶を指して言った。ビール、正確に言うと発泡酒だが、数日前に彗太がスーパーで買ってきて、冷蔵庫で冷やしておいたものである。
 「祥司お前、今度何かおごれよ!」祥司は適当にうんと言ったが、きっと明日の朝には忘れているのだろう。
 「摂津くん、何しとるんー?」台所の冷蔵庫の前でごそごそやっている彗太に、談話室から泉が声を掛けた。
 「何か食べるものがないかと思って。確か買っといた冷麺があったはずなんだけど・・・」
 「あー、さっきそれ、食べてしもたわぁ」
 「は?」
 「あれ、もしかして摂津くんのやったん?ごめーん」
 もしかしても何も、自分のでなかったら他人のものだろう。確かに、上下ジャージ姿の泉の横には、空になった冷麺のプラスチック容器がそのままで放置されている。彗太は呆れて物も言えなかった。
 「あれぇ、摂津どっか行くんか?」
 「・・・コンビニ」
 「そんなら、ついでにチーかまとソフト裂きイカ買ってきてぇ」
 「あ、俺も俺も。おでんの卵とジャガイモよろしく」
 「おでんなんてまだ出てねーよ!自分らで行け!」
 酔っ払いは放っておいて、彗太は寮の玄関を出た。外はまだ雨が降っていた。
 「・・・ったく、あいつら」
 彗太はぶつぶつ言いながら駅前のコンビニへ向かった。スパゲッティの麺ならまだ台所に残っていたが、今から火を使って調理をする気にはなれなかった。そもそもソースになるようなものが何もない。はぁ、と彗太は息を吐いた。少し頭が痛い。寝すぎたのだろうか。ついでに何かアルコールも買って帰ろう、と彼は思った。
 コンビニの前にある傘置き場に傘を差して、店の自動ドアをくぐると、すぐにレジ横のおでん売り場に目が行った。冬にしか売られていないものだと思っていたが、ここはこの時期でもちゃんと置いているらしい。卵とジャガイモはあるだろうかと中を覗いていると、ふいに横から誰かに指でつつかれた。
 「ん?」
 「あ、やっぱり。今日はよく会うね」
 鶴子、ともう少しで声に出しそうになるのを、彗太は寸でのところで抑えた。
 「買い物?」
 「ああ、うん・・・ちょっと、夜食を買いに」彗太は千鶴の姿を一瞥した。いつもとどこか違うなと思ったら、どうも薄く化粧をしているようだった。「バイト帰りか?」
 「うん。今さっき終わって、電車で帰ってきたとこ。でも、よくわかったね」
 「あ、いや・・・」
 「私のバイト先、まかないが出ないから、お腹空いたんだけど、疲れちゃって・・・だから今日はこれが晩ご飯」彼女は手にもったおにぎりを見て、少し恥ずかしそうに笑った。「千ちゃんがいれば作ってくれるんだけど」
 「今日はいないのか?」
 「ううん、時々来てくれるんだけどね」
 ここ最近、彼女の周りの人間関係についてはからずも詳しくなったが、この『千』という人物が誰なのかだけはさっぱりわからなかった。千鶴の話からすると、彼女とはかなり親しい仲のようだが、文学部にも大学にも、そのような名前の学生はいなかった。
 「で、何買うの?」千鶴が小首を傾げて尋ねた。化粧をしているせいか、いつもより少し大人びて見えた。
 「えーと、おでんと裂きイカとチーかまと、それから酒と・・・ああ、冷麺」
 「じゃあ、先に清算済ませてくるね」
 彼女はそう言うと、おにぎり二個を持ってレジへ向かった。彗太が終わるまで待っている、ということだろうか。彼はあわてて必要なものを手に取ると、レジの店員のところに持っていった。ソフト裂きイカはあったがチーかまはなかったので、かわりに魚肉ソーセージを買っておいた。
 「おまたせ」
 彼女は店のすぐ前の軒下で雨を避けて立っていた。そんなに急がなくてもよかったのに、と彗太を見て笑うと、千鶴は傘立てから傘を取った。
 「あ、それ、俺のじゃないか?」
 「え?・・・あ、ほんとだ、ごめん」
 彗太は傘立てから『千』と書かれた傘を手に取ると、それを千鶴に渡そうとした。
 「あは、こんどは私が間違えたね。これ新しいやつ?」
 「ああ、なくしたから、こないだ新しく買ったんだ」
 「へぇ・・・」
 彼女は何気なく彗太のビニール傘の取っ手を見た。
 「摂津・・・彗太?」
 彗太の心臓が一度、大きく鳴った。ばれる、という気持ちと、気づいてほしい、という気持ちが入り混じっていた。不安と期待がこもった目で彗太は彼女を見た。
 「・・・」千鶴は傘の柄に書かれた四文字を見つめて、しばらく考え込んでから、彗太の顔を見て言った。「摂ちゃん・・・?」
 そう呼ばれて、急に懐かしさがこみ上げてきた。十年、と彗太は思った。あれからなんと長い月日が経ったのだろう。
 「えっと、久しぶり、鶴子」彗太は少し照れながら言った。「実は、最初図書館で会った時から俺は気づいてたんだけど、なんか言い出しづらくてさ。でもまさか同じ大学に通ってるとは思わないよな。しかも大阪で。すごい偶然っていうか・・・ともかく、元気にしてたか?」
照れくささで、彗太は妙に饒舌になった。昔と変わらない千鶴を前に、彗太は十年前に戻ったような気がして、とにかく嬉しかった。
 「・・・鶴子?」
 ぺらぺらと喋る彗太に対し、千鶴は一切無言で彼を見つめていた。その顔は先程までとはうって変わって、不安と怒りが入り混じったような、なんともいえない表情をしていた。
 「どうかしたのか?」
 彗太が千鶴の持っている傘と自分の持っている傘を取り替えようとすると、彼女はとっさに彼の手を払いのけた。
 「来ないで」その目には、十年前はじめて会った時と同じ、何かに怯えた光が宿っていた。「私、あなたのことなんか知らない。もう私に話しかけないで」
 そう言うと、千鶴は傘を放り出して、濡れるのも構わず雨の中に走っていった。
 彗太は雨の中、千鶴の走り去ったほうを見つめたまま、コンビニの前でひとり呆然と立ち尽くしていた。
 十年前の夏、ふたりが別れたのも、こんな冷たい雨の日だった。


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