夜、長崎はいわゆる熱帯夜の状態が続いていた。彗太はベッドに寝転がってぼんやりと天井を眺めていた。そろそろ寝ようと思って二階に上ってから、はや一時間ほどになる。枕もとの目覚まし時計を見ると、針はすでに夜の十一時をまわっていた。彗太は寝返りを打った。暑さでうまく寝付けない。掛け布団代わりのタオルケットはすでにベッドの上から放り出されていた。 すると突然、開けっ放しにしていた部屋の窓の外から小さな物音が聞こえた。 (なんだ?今の音) 彗太はぎょっとして窓際に近づくと、網戸越しに下を覗き込んだ。二階の彗太の部屋からは、ちょうど真下に家の裏庭を見下ろすことができた。どうやら物音がしたのは摂津家のほうではなく、隣の鶴見の家のようだった。小さな黒い影が、息を殺しながら、隣家の裏庭でかすかに動いていた。 「鶴子?」網戸を開けてそう呼ぶと、小さな影が反応した。「鶴子だろ?こんな時間に何してるんだ?」 返事はなかった。こんな夜更けに、何かあったのだろうかと、彗太は妙に思った。 「とにかく、すぐそっちに降りるから、そこで待ってろよ」 そう言うと、彗太は物音を立てないようにそっと階段を下りた。一階のリビングはすでにしんと静まりかえっていた。さきほどまで晩酌をしていた両親はすでに寝てしまったらしかった。 「鶴子」 ベランダから庭に出て、彼はもう一度彼女の名前を呼んだ。あたりを見渡すと、ちょうど二つの家の間にある松の木の下で、千鶴は地面にうずくまっていた。 「おい、大丈夫か」それを見た彗太は、あわてて千鶴のもとに駆け寄った。 「摂ちゃん・・・」千鶴は力なく顔を起こして彗太を見た。パジャマの胸倉をつかんで、苦しそうに肩で息をしていた。暗くてはっきりとはわからなかったが、顔色がよくないようだった。 「気持ち悪いのか?」 「ん・・・」 そう答えるのがやっとといった感じで、今にも気を失ってしまいそうな彼女の様子に、彗太は急に心細くなった。大人を連れてこなければ、と彼は思った。 「誰か・・・そうだ、俺、母さん呼んでくるから」 「いい」千鶴は、立ち上がろうとした彗太の手を掴んだ。「ここに、いて」 強い力で手を握られて、彗太はどうしたらいいか悩んだ末、結局彼女の言うとおりその場を離れなかった。その手は小さく震えていた。彼にはただ、苦しそうな彼女の背中を撫でてやることぐらいしか思いつかなかった。 しばらくそうするうちに、千鶴の呼吸が少し落ち着いてきた。 「よくなったか?」彗太の問いに、千鶴が小さくうなずき立ち上がろうとしたので、彼は、自分の手を掴んでいた彼女の手を握り返してそれを支えた。 「ごめん・・・」おぼつかない足取りで立ち上がると、千鶴は申し訳なさそうに謝った。その表情はまだ少し辛そうだった。 「でも、こんな時間に外に出てきて、どうしたんだよ。もう十一時だぞ」彗太は、少し咎めるような調子で言った。鶴見の家はしんと静まりかえっている。ふと下を見ると、千鶴の足は裸足のままだった。 「急に息苦しくなって、眠れなくて」 「・・・病気?」やや遠慮がちにそう尋ねると、これにはううんという答えが返ってきた。 「たぶん、違うと思う。ただ、夜寝ようとしたら、突然息ができなくなるの」 「それ、よくあるのか」千鶴はうなずいた。 「毎日じゃないけど、時々。どうしてなのか私にもわからない。でも、いつもすごく苦しくて」その時の感覚が思い起こされたのか、千鶴の呼吸がまた少し乱れはじめた。「あんまり苦しくて、でも、おばあちゃん、起こしちゃだめだから、外に出たら少し、楽になるかな、って・・・」 「もういい、無理するな」彗太は空いたほうの手で千鶴の背中をさすった。そうしていると楽になるのか、千鶴の発作はすぐに治まった。 眼下に見える街は、街灯やネオンサインのおかげでまだ明るい。道路には自動車や電車が行き交い、港のほうからは船の汽笛が聞こえた。赤い夜空の中にぽっかりと黒く浮かぶ稲佐山の上には、数本の電波塔が明るく輝いていた。海のにおいを含んで生暖かく湿った風が身体にまとわりつく。千鶴はこの暑さにやられたのではないか、彗太はそう推測した。 「少し歩くか?」 そうしたら楽になるかもしれない。千鶴は少しの間考えてから、電気の消えた家のほうを見、こくりとうなずいた。 千鶴のサンダルを取ってきてから、ふたりはそっと家を出た。こんな夜中に、しかも両親に無断で外出することははじめてだったので、彗太は少なからずどきどきしていた。 「行くぞ、鶴子」 「うん」 坂道を下って大通りに出ると、観光地に近いせいか、この時間でも車と人通りはまだまだ多かった。Tシャツに半ズボンの彗太はともかく、パジャマ姿の千鶴はやはり目立つのか、しばしば通りすがる大人に怪訝そうな目を向けられていた。それが嫌なので、向かいから人が歩いて来るたび、彼女はさっと彗太のうしろに身を隠した。その様子がなんだかおかしくて彗太が笑うと、千鶴はちょっと頬をふくらませて、なんで笑うの、と言った。 特にどこを目指すわけでもなかったが、気がつくと、彗太は千鶴を連れて海のほうへ向かっていた。道路を渡ってしまうと、また人の姿が少なくなった。港の公園まで来たところでふたりは足を止めた。 「海・・・」 背後の喧騒の中で掻き消されそうな彼女の声を、隣にいる彗太だけが聞き取った。 「まだここは港だけどな。ほんとの海はまだあっち」彗太は湾の出口がある左手を指さした。「あの向かいのが造船所で、もっと先に行くと港の入り口があるんだ」 造船所より先はずっと真っ暗で、彗太は、そこからどこか違う世界につながっているような気がした。千鶴は彗太の指した方角を見つめて、海が見たいな、とつぶやいた。 「お前んちの近くにはないのか?」 「あるけど・・・」彼女は少し困った顔をしてから、あんまりきれいじゃないから、と付け加えた。 「だったら、俺が連れてってやってもいいぞ。海」 「え?」 「夏休みがはじまってから、だけどな。大波止から向こうの島まで船が出てるんだ」彗太は去年の遠足で行った伊王島のことを思い出した。確か、市内から島まではさほど遠くなかったはずだ。不意に、暗い海の向こうから一陣の風が吹いた。 「っと、大丈夫か?」彗太は千鶴の肩を支えた。これしきの風で人が飛ばされるはずはないのだが、なぜか、そうしなければならないと思った。そうしないと、彼女が半分どこかに連れて行かれる気がした。 (半分?) なぜ半分なのだろう、と彗太は思った。いったいどこから唐突にその言葉が出たのか、彼にはさっぱりわからなかった。 「摂ちゃん?」千鶴は彗太の妙な表情に気がついたのか、小首をかしげて彼の顔を見た。 「どうかした・・・?」 「べ、別になんでもねーよ」彗太はそう答えたが、彼自身どうかしていると思った。千鶴はずっと千鶴で、二分の一にも三分の一にもなりはしないのに。 「まあとにかく、夏休みになったら行こうな、海」 彗太はそう言うと、千鶴の頭に手をぽんと置き、くしゃくしゃと撫でた。自分でも、こんなに優しい声が出るとは思わなかった。夜の闇がそうさせたのだろうか。千鶴は彗太の言葉には答えずに、ただ、少し悲しそうな顔でにこりと微笑んで、島のある南の方角を見つめた。
その時彗太が夜の海の向こうに思い描いていたのは、夏のまぶしい日差しと、自分と千鶴のいる海辺だった。光のない、暗い闇の先に彼女が見ていたのは、いったい何だったのだろうか。
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