大阪はまた雨が降っていた。彗太は図書館の窓から外を見た。午後から降りだすと今朝の予報で言っていたが、道行く学生のなかには傘を忘れたのか、雨の中を足早に駆けていくものもいた。壁の時計に目を移すと、もう二時半になろうとしていた。 「やべっ・・・」 彗太はあわてて机の上の自習道具をかばんのなかに突っ込んだ。次の授業の担当教授は時間にうるさいのだ。 本を元の棚に返して急ぎ足で一階に下り、傘置き場に自分の傘を探した。ステンレスの骨格は、無茶に詰め込まれた傘たちで溢れ返っていた。彗太は少しいらいらした。場所を忘れてしまわないようにと、いちばん隅のところに自分の傘を置いたはずなのに、それがなぜか消えてなくなっていた。他の場所も探したが、やはり見当たらない。 「なんでないんだよ」彗太は携帯電話の時計を見た。もう時間がない。しかたがない、このまま走って行こうと思った時、誰かが後ろから彼のショルダーバッグを引っ張った。 「傘、忘れたの?」 「あ・・・」彼女だった。突然のことだったので、彗太は一瞬言葉を失った。 「私もう帰るんだけど、途中まで一緒に入っていく?」 「う、うん」彗太は彼女に促されるまま図書館を出た。 「どっちに行くの?」彼女は例のビニール傘を開いて、彗太に問うた。 「薬学部棟。・・・悪い、ちょっと急いでもいいか?俺、次授業なんだ」 「えっ、じゃあ走らないと」 彼女はあわてて彗太を連れ走り出した。が、すぐに足を止めた。 「・・・ごめん、薬学部ってどっちだっけ」 「こっち。それからそれ、俺が持つから」 彗太は彼女の手から傘を奪い取った。彼女は一瞬困った表情を見せたが、あえて何も言わず彼に任せた。二人は薬学部棟をめざして雨の中を走った。 彗太の所属する薬学部の校舎はまだ新しい。入り口のぴかぴかの自動ドアを抜けて一階の玄関ホールに出ると、彼女は感嘆の声を上げた。 「文学部棟なんて、地震がきたら倒壊しそうなのに」 「そりゃ、俺が入学する直前にできたばっかだからな。・・・あ、スカート・・・」彗太は彼女の足元を見た。白いスカートの裾が、跳ね返った泥水で汚れていた。 「ごめん」 「ああ、いいよ、洗えばいいんだし」彼女はあっさりと答えた。よく見れば、華奢なサンダルを履いた足も水浸しになっている。「それより、急がないと授業はじまるよ」 そう言うと、すぐさま彼女はその場から立ち去ろうとした。 「あ、おい!」 「何?」 「これ使え」 彗太はかばんの中から長タオルを引っ張り出した。降ると聞いていたので、今日の朝入れておいたのだ。 「え、でも」 「また今度返してくれれば・・・いや、別に返さなくてもいいんだけどな!じゃ」 彗太は半ば押し付けるかたちでタオルを彼女に渡し、三階にある教室へと階段を駆け上った。
その日の晩、彗太は降りしきる雨の中を、ずぶ濡れになりながら寮まで走って帰った。あのあともう一度図書館に立ち寄ったのだが、結局傘は見つからずじまいだった。 「ただいまー・・・」少しぐったりしながら彼は古い玄関扉を開けた。 「どうしたん摂ちゃん、びしょ濡れやん」 「うわー、なんか段ボール箱に捨てられて雨の中で震えてる子犬みたい」 「誰が子犬だ」 彗太が怒ると、彼らは大声でげらげらと笑った。 彼が住んでいる家は、四捨五入するとそろそろ築四十年になる、家賃は安いが値段に比してぼろい木造二階建ての学生寮だった。いちおう『ニュー・ビッグ・パレス』という、場末のクラブか銭湯のような趣味の悪すぎる名前があるのだが、長いので、郵便局員にすら『大宮寮』という通称で呼ばれている。玄関を入ってすぐ正面にある階段の向こうの談話室は、共同の台所がすぐ隣にあることもあって、もっぱら寮の住民たちのたまり場になっていた。 「ほら摂津、このタオル使い」風呂上りなのか、トランクス一丁で扇風機の前に座っていた祥司が首にかけているタオルを彗太に投げた。 「ばか、これももうびしょびしょじゃねーか」そう言いつつ、彗太はそのタオルでがしがしと頭を拭き、もう一台の扇風機の前に腰を下ろした。どうぞ、と上背の高い金髪の青年が、やかんから冷えた麦茶をグラスに注ぎ、彗太の前に置いた。 「あ、悪いな、ジョナ」 「いえ、雨の中おつかれさんです。それより、傘、どないしはったんですか?朝持って出はったと、ボク思たんですけど」 「そうやんなぁ、俺も今朝、摂ちゃんがいつもの傘持ってくの見たわぁ」リモコンでテレビのチャンネルを回しながら、大和はのんびりと相槌を打った。この男はどうも学生ではないようなのだが、仕事らしい仕事をしているところを彗太は見たことがなかった。 「それが、いつの間にかなくなってたんだよ」 「へぇ、どこでですか?」 「図書館、傘立てのとこ」 「ああ」同じ大学に通う祥司とジョナは、なるほどわかったという顔をした。 「誰か間違えて持ってったんとちゃう?摂津のん、普通のビニ傘やったやろ」 祥司の言葉に、彗太は、たぶん、と頷いた。彼自身つい先日傘を間違えたばかりなので、そうだろうと思っていた。 「せやったら、摂津くんが入れてあげたんやなくて、入れてもろてたんかぁ」 「はあ?」 泉が突然変なことを言うので、彗太はソファーの上で足を投げ出し袋入りポップコーンをほおばっている彼女の顔を見やった。美人で寮の紅一点と言えば聞こえはいいが、手に付いたポップコーンの塩を何の躊躇もなく床に払い落す彼女を見るたび、彗太は女性の見かけには騙されるまいと思う。 「あんな、うちらさっきまでな、ちょうど摂津くんの話をしてたんよ」 「俺の話?何だよそれ」 泉はにやにやと笑いながら、「いややわぁ」といかにもおばさん臭い動作で手を振った。 「もう、とぼけんといて!うちこの目でちゃーんと見てんからな」 「見たって、何を」 泉のもったいぶった態度に少々いらだってきた彗太に対し、横から大和が説明した。 「なんかなぁ、泉ちゃん今日、大学の中庭で摂ちゃんが女の子と相合傘してるとこ見たんやって」 「は・・・」 あのことか、と思うと同時に、見られていたと知って思わず顔が熱くなった。 「あ、泉の話ほんまやったんか!」 「だからぁ、嘘ちゃうって言うたやん!」 「摂ちゃん顔赤いでー」 「ばかっ、それはその、違うんだって」彗太はあわてて弁解した。「あいつはその、ただ、通りすがりの俺が傘持ってないの見て、親切心から一緒に入れてくれただけで、だから、えっと・・・」 「ほんなら、お知り合いやないんですか?」少し困った様子で微笑みながら、他の三人を見ていたジョナが、ふと口を開いた。 「そ、そう、別に知り合いでもなんでもねーし」 「そうなん?なーんやぁ」泉と祥司は明らかにがっかりという顔をした。「鶴見さんと摂津くんで、おもろい組み合わせやと思ったのになぁ」 「鶴見?」彗太は泉のその一言を聞き逃さなかった。 「うん、鶴見千鶴ちゃん。うちの文学部の後輩」 ああやっぱり、と彗太は思った。彼女は『鶴子』に間違いなかったのだ。胸の奥から急に懐かしい気持ちがこみ上げてくると同時に、遠い記憶の中から、小学校最後の夏の景色と、父が好きだったあの唄のメロディが流れてきた。
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