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作品名:トロイメライ 作者:zanpang

第42回   Mondnacht
 その晩、彗太とつるは摂津家に泊まることになった。あのあと八幡の伯母に電話をした文野が、彼女からつるも長崎に来ていることを聞いたのだ。
 「大人になったわねぇ、千鶴ちゃん。うちの彗太ったら、千鶴ちゃんが大阪の同じ大学に通ってるなんて、ちっとも教えてくれなかったのよ。それにしても本当にきれいになって」
 なんとなく気恥ずかしそうな彗太をよそに、つるは、お邪魔します、と丁寧にお辞儀をして、玄関から中に入った。懐かしそうに中を見渡すと、奥の居間から門馬がひょっこりと顔を出した。
 「あ、門馬。帰ってたのか」
 「あんたが千鶴ちゃんを迎えに行ってる間にね。ちょうど入れ違いだったのかな」
 つるは、自分のことをもの珍しそうにじぃっと見ている門馬に気が付くと、彼に向かってにこりと微笑みかけた。すると、門馬は顔を真っ赤にして居間の中に駆け込んでしまった。
 「あ、こら門馬!ちゃんと挨拶せんね」
 「まあまあほっときなさいよ。照れてるんでしょ。ごめんねー、千鶴ちゃん」
 「いえ、そんな」
 最初のうちはそんな様子だったのだが、それから数時間経った夕飯のあとには、門馬はすっかりつるに懐いていた。
 「ちぃちゃん、ちぃちゃん。見てこの絵、俺が描いたんよ」
 「わぁ、すごい。門馬くん絵上手だね」
 「ちぃちゃんにも描いてあげる」
 「本当?ありがとう」
 居間の床に座って遊んでいるふたりを、彗太はダイニングの椅子の上から黙って見ていた。つるもつるだが門馬も門馬だ、と彗太は思った。ついさっきまで、あんなにもじもじとはにかんでいたくせに、門馬はあっという間につるに懐くと、今は「ちぃちゃん」などと親しげにあだ名で呼んでいる。つるのほうもはにかみ屋だから、子どもの相手なんて苦手だろうと思っていたのに、これが案外楽しそうにしている。ちょうど今、門馬に自分の絵を描いてもらっているところの彼女は、本当に嬉しそうに見えた。
 「何つまらなさそうな顔してるの」
 文野が笑いながら、丸盆を手にダイニングテーブルのほうにやって来た。
 「別に。何だそれ?」
 「京都のお漬物だって。千鶴ちゃんが持ってきてくれたのよ。食べる?」
 母がテーブルに置いたガラスの器の中には、薄切りのかぶらの漬物―千枚漬けというらしい―を適当な大きさに切ったものが入っていた。彗太の家にまであらかじめ手土産を用意していたあたり、つるは長崎に来る前から、こうなることを予想していたのかもしれない。
 「土産なんていいって、いつも言ってるのに」
 「いいじゃない、せっかく持ってきてくれたんだから。おいしいよこれ」
 千枚漬けをぽりぽりと食べながら彼女は言った。柚子でも入っているのだろうか、柑橘系のいい香りがした。彗太はふと、絵を描く門馬のためにじっとしている彼女の横顔を見た。
 「いい子ね、千鶴ちゃんて。ひょっとして、夏休みにカステラくれたのもあの子?」
 「何だよ突然。そんなにこの漬物が気に入ったのか?何なら今度買ってくるけど」
 「ばか、そんなんじゃないわよ。あんたはあっちで門馬とテレビ見てたから知らないだろうけど、晩ご飯の準備から何から全部手伝ってくれたんだよ。後片付けもやってくれて、今だってああやって門馬と遊んでくれてるし」
 「はいはい、明日はちゃんと手伝うって。まったく、みんなして門馬門馬って」
 彗太はもう一度弟たちのほうを見やった。身の丈の三分の一ぐらいはありそうな大きなスケッチブックを膝の上に立てて、門馬は利き腕の左手で軽やかに鉛筆を走らせている。さっき千鶴も褒めていたが、彼はお世辞ではなく本当に絵がうまい。以前、学校の写生大会で描いた風景画を見せてもらったときには、兄の贔屓目があるにしても、とても小学生の描いたものとは思えなかった。やはり父の血を引いているのだ、と少しばかり羨ましく思う。
 「そういえばさ」
 彗太は言った。
 「父さんって子どもの頃どんな子だったの?」
 やぶからぼうに守の話が出たので、文野は返事をするのに少し時間がかかった。
 「どんなって・・・ねぇ。お母さんも、お父さんのこと、子どもの頃から知ってるわけじゃないからなぁ」
 「あ、そっか。そうだよな」
 わかりきったことを聞いてしまい、彗太は顔を少し赤らめた。そんな息子を見て文野はふっと微笑んだ。
 「でも、若いときのことならわかるよ。はじめて会ったとき、お母さんが看護大の四年だったから、ええと、お父さんは大学一年生か。うわ、もう二十年以上前じゃない。懐かしいなー」
 「そりゃそうだろ、俺が今年二十二なんだから。で?」
 「そうそう、はじめて会った日ね、ちょうどお休みで天気もよかったから、うちの大学の旧校舎を写生に来てる人がたくさんいたんだけど・・・って、この話したっけ?」
 「いや、はじめて聞く」
 彗太はテーブルの上に身を乗り出した。彼も数年前なら、両親の馴れ初め話など別に興味も示さなかったかもしれないが、なぜか今は知りたいと思った。文野は、まるで若い娘のするようにはにかみながら話を続けた。
 「あのね、その人たちの中にお父さんもいたんだけど、私がたまたま彼の前を通った時に突然、動かないで、って言ってきたのよ。で、そのまま私と旧校舎の絵を描きはじめちゃって。変なひとだなぁってその時思ったけど、描き終わるとあの人、ちょっと頭下げただけで、そのままスケッチブック持ってすぐに帰っちゃったんだよね」
 「え、そんだけ?」
 「うん、その時はね。そのあと何ヶ月か経ってから、突然守くんが大学に私のことを訪ねてきて、一緒に来てくださいって言うのよ。何でも、あのとき描いた絵が何かのコンクールに入選したらしくて」
 文野は少し戸惑ったような、それでいて得意そうな顔を見せた。
 「それで、一緒にその絵を見に美術館に行ったの。お母さん、それまで絵なんて全然興味なかったけど、その絵を見たときは、何ていうか、こう、じーんとなっちゃって」
 「好きになったんだ」
 「もう、からかわないでよ」
 「それで、付き合うことになったのか?」
 「ううん。でも、それからちょくちょく会うようになってね。って言っても、守くんが絵を描くのを端から見てただけなんだけど。けどあの人、何か変わった絵・・・彗星みたいな・・・そんなのばっかり描いてて」
 彗星、という言葉に彗太ははっとなった。
 「抽象画っていうのかなぁ、私には全然わからないけど。でも思わず、もっと明るい絵を描けばいいのに、って言っちゃったのよね。そしたらお父さん、何て言ったと思う?」
 「え・・・?」
 「文野さんがいたら描けるかも、だって」
 彼女はそう言うと、それこそりんごのように頬を赤く染めながら大笑いした。
 「すごい口説き文句だな、それ。父さんそういうこと言いそうだけど」
 「でしょ。しかもそれで素なのよ。天然の女たらしよね、まったく」
 やだやだ、と文野は頭を振った。そのとき、彼女の目に少し光るものがあったことに彗太は気づいていた。
 「それからかな・・・お父さんが今みたいな絵を描くようになったのは」
 彼女はふうと息を吐いた。すべてはもう二十年以上も前のことだ。父も母も年を取った。けれど、それは彼女の中に今でも色鮮やかに残っている。そして、彗太自身の中にも。
 「できちゃった婚なんだっけ」
 彗太が訊くと、文野はぽかんと口を開けた。
 「え、ちょっと、いきなりそんなこと聞く?違うわよ」
 「でも父さんが」
 「違います。あんたのお父さんが、市役所に婚姻届出しに行く約束すっぽかして、大学の友達と何ヶ月も海外に旅行に行っちゃったから、彗太が先になっただけ」
 「え・・・すっぽかしたぁ?」
 「そう。結局二ヶ月くらいで帰ってきたんだけど、当然そのあと大喧嘩してね。まぁでもその友達、大宮くんっていうんだけど、彼が仲裁してくれたおかげで何とか別れずには済んだのよ。もとはといえば奴のせいなんだけどねぇ」
 「はは・・・父さんらしいな」
 その大宮くんなら彗太も知っている。この場で言ってしまおうかとも思ったが、もう少し黙っておくことにした。いつか、彼が彗太のアパートの大家だと知ったら、彼女は驚くだろうか。
 それから母はちょっと席を立って、台所で二人分の熱いほうじ茶を淹れて戻ってきた。
 「それより、千鶴ちゃんもまだ何日か長崎にいるんでしょう。せっかくだから、明日にでもどこか遊びに連れて行ってあげなさいよ」
 「わかってるよ、うるさいなぁ。ちゃんとグラバー園には連れて行ったし、それから、えーと」
 「ほら、言わんこっちゃない。どうせあとはスーパーぐらいしか行ってないんでしょ。ほんと、そういうとこはお父さんと一緒なんだから」
 墓参りにも行ったけど、と彗太は思ったが、あえてそれは言わなかった。茶を一口飲んだあと、甘いかぶら漬けをつまみながら彗太が苦い顔をすると、それに気付いているのかいないのか、母は何か思いついたように手を叩いた。
 「そうだ、伊王島にでも行ってきたら」
 「伊王島?」
 ひさしぶりに聞くその島の名前に、彗太は手を止めて顔を上げた。
 「あそこ、何年か前に温泉ができたんでしょ?それ以外にもきれいな海岸とか展望台があるって、病院の患者さんが言ってたけど。まあ、今行くとまだどこも寒いだろうけどね」
 彗太はもう一度つるの横顔に目をやった。海が見たい、と彗太に言ったことを、彼女は覚えているのだろうか。

 風呂から上がったあと、彗太は何か飲もうと思って、台所の冷蔵庫のところに行った。つるの寝る部屋を用意していたら、結局かなり遅い時間になってしまったため、最後に入浴した彗太が出てきた時には、家の中はすでにしんと静まり返っていた。月明かりがあったので、彗太はあえて台所の電気を点けずにいた。冷蔵庫のペットボトルからグラスに水を注ぎ、それを一気にぐいと飲み干した。冷たい水が火照った身体に心地よかった。
 グラスを適当に洗って二階の部屋に戻ろうとしたとき、父がアトリエに使っていた一階の部屋から明かりが漏れているのに彗太は気が付いた。文野だろうか、と思いながら、開いたドアの隙間から部屋を覗くと、小さな影が部屋の中で手を動かしていた。
 「門馬?」
 「わっ!に、兄ちゃん」
 彗太が部屋のドアを開けると、門馬はあわてて手に持っていた何かを背中のうしろに隠した。
 「何してるんだ、こんなところで。しかもこんな時間に」
 「な、何だっていいだろ」
 「今何隠した?」
 「何も隠してねーよ」
 彗太は上からひょいと、弟が後ろ手に隠したものを取り上げた。門馬は八歳の割には上背があるが、守と同じく運動神経はとことん鈍い。彼は、こら、ばか、などと言いながら、彗太に取り上げられたそれに手を伸ばした。
 「何だこれ、写真?」
 裏返すと、周りに白い縁のある写真の中に、彗太と同じくらいの年頃の青年がひとりで写っていた。彼はすぐに、それが父だと気が付いた。
 「これ・・・」
 「返せ、ばかぁ」
 「この写真、お前が見つけたのか?」
 彗太が問うと、門馬は半分泣きそうな顔でうなずいた。
 「そこの引き出しの奥に挟まってたんだ。その写真の男の人が、俺のお父さんなんだろ」
 生前の父は、自身が写真を撮るのが好きなわりには、人には自分の写真を撮らせなかった。家でもカメラを持つのはいつも彼なので、彗太や文野の写真はたくさんあっても、守のそれはあまり残っていなかった。まして自分が生まれる前の父の写真など、目にするのは彗太も生まれてはじめてだった。写真の中の彼は、彗太が知っている父よりも、どこか悲しげで表情に暗い影が宿っていた。背景に大学のキャンパスらしき建物が写っていたので、彼がまだ学生の頃に撮られたものなのかもしれない。
 彗太がじっとその写真に見入っていると、ようやく写真に手の届いた門馬が、それを兄から奪い取った。彼は写真を大事そうに両手で持つと、それをぎゅっと胸に抱き寄せた。
 「俺、お父さんのこと全然覚えてないんだ」
 彼は言った。
 「ひどいよな、自分のお父さんなのに。いっぱい大事にしてもらったのに。だから俺、こうやって、お父さんのこと絶対に忘れないようにするんだ。衛先生が新しいお父さんになっても、俺は絶対にお父さんを忘れない」
 「門馬・・・」
 父が死んだ時、門馬はまだ一歳にもなっていなかった。彼は自分の父について、彗太にも文野にも、ほとんど何も聞かなかった。だから、弟が父に対してこんな風に思っていたなどとは、彗太はこれっぽっちも知らなかった。こらえきれなくなった門馬は、大きな目からぽろぽろと涙をこぼした。写真が濡れてしまわないようにパジャマの袖で覆って、彼は声を押し殺しながらしゃくり上げた。彼は彼なりに、亡き父を弔っていたのだ。悲しいのは自分ばかりではなかった。
 「ごめん、門馬。ごめんな」
 彗太は弟を抱きしめてやった。あんなに小さかった弟は、もはや自分の腕には余るくらい大きくなっていた。

 泣き疲れた門馬を自分の部屋に寝かしつけると、彗太はまた一階に下りた。すぐには寝付けそうになかった。月が可笑しいくらい明るかったので、ビールの入ったグラスを手にベランダのガラス戸に寄ってみると、庭の隅に人影があるのに気が付いた。一瞬泥棒かと思って彗太は身構えたが、すぐにそれがパジャマ姿のつるであるとわかった。
 「風邪引くぞ」
 戸を開けて声を掛けると、庭の松の木のあたりに立っていたつるがこちらを振り向いた。月明かりのせいか顔色が青白く見えた。彗太は不意に十年前の出来事を思い出した。
 「もしかして、また気分悪くなったのか?大丈夫か?」
 あわてて庭用のサンダルを引っ掛けて外に飛び出すと、何でもないよ、というようにつるは笑った。
 「またお酒飲んでる」
 「あ、ああ。眠れなくて。お前も飲むか」
 「うん」
 てっきり、「いらない」といつものようににべもなく言われると思っていたので、つるのほうからグラスに手を伸ばされると、彗太は思わずそれを引っ込めてしまった。
 「・・・くれないの?」
 「鶴子、お前酔ってるのか?」
 「まだ飲んでないよ」
 彼女は彗太からビールの入ったグラスを受け取ると、月明かりを映したそれに軽く口付けた。
 「・・・苦」
 「そりゃ、ビールだからな。ほらもうやめとけ、あんまり美味くないだろ」
 「うん・・・」
 彗太がそう言うと、つるは素直にグラスを彼の手に返した。ほとんど飲んでいないはずなのだが、つるの顔はほんのり赤くなっていた。
 「月がきれい」
 「・・・お前、大丈夫か?」
 「うん。ねえ、摂津くん」
 「何だ」
 「この松、おばあちゃん家にあったやつ?」
 つるは目の前の細い松の木を指した。それはかつて、摂津の家と鶴見の家の境に生えていたのを、鶴見の家を取り壊す際にこちらに移したものだった。背はあまり高くなくて、風が強い日などは折れてしまいそうに思えるほど弱々しい姿なのだが、植え替えられたあとも案外しぶとくそこに生え続けている。
 「よく覚えてるなぁ」
 十年前の夏、彗太も千鶴もこの松の木の下を行ったり来たりした。あの頃よりもずいぶん小さくなった気がする。今こうしてふたりでその木の前に立っていると、柄にもなく童心に返るような心地だった。つるはそっとその幹に触れた。
 「摂津くん」
 「ん?」
 「今日ね、千ちゃんに会ったよ」
 彼女は亀甲状にひび割れたその表面を撫でた。指に木の先が刺さるのではないかと思われたが、そんな彗太の視線には構わず、つるは木をいとおしむように撫で続けた。
 「そう、か」
 彗太は残りのビールを一気に呷った。自分も酔っているのかもしれない、と彗太は思った。空を見上げると頭上の月がぼんやりと霞んで、一瞬、彗星のように見えた。時折陸から海へ向かって吹きぬける風が心地よかった。
 「明日、海に行こうか」
 「え?」
 「近くに伊王島っていう島があるんだ。連れていくって約束したよな」
 つるは彗太の茶色い目の奥を見上げた。それから静かに、うん、とうなずいた。


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