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作品名:トロイメライ 作者:zanpang

第41回   もうひとりのわたし
 探していた建物は緩く長い坂の中ほどにあった。つるは手元のメモを確認した。『今宮産婦人科医院』という名を見つけたのは、昨日スーパーマーケットで彗太を待っている間、何の気なしに手に取って開いた電話帳の中だった。
 「今宮」
 自分に言い聞かせるように、つるはそう小さくつぶやいた。幼い頃母が一度だけ口にしたその名前を、つるはずっと忘れずに頭の片隅に置いていた。そして今、彼女は二十年前自分が生まれたその場所に立っている。
 つるは左手でそっと首筋に触れた。彗太にもらったマフラーで隠してはいるが、薄い皮膚の上に赤黒い三日月形の爪痕がまだ残っている。そうしていると、急に軽いめまいと吐き気に襲われた。首の傷が痛むのではない。喉の奥、さらにもっと下って、心臓のあたりからそれは湧き起こる。つるは手を離した。
 今宮産婦人科医院と看板を掲げたその建物は、うっかりすると見落としそうなくらい小さな診療所だった。二階建ての建物の正面は青いタイルで飾られて、重そうな色付きガラスのドアもなんだか古めかしかった。空が曇って薄暗いため、昼時だというのに玄関の照明はすでに点灯している。つるが生まれた日も、外はこうやって雪が降っていたのだと、いつか母から聞いた。二十年前、彼女はどんな思いでここへ来たのだろう。
 つるは時々、息苦しさで夜中に目を覚ますことがある。一種の発作のようなもので、それはある晩突然やってくると、ひどい時は彼女を一睡もさせない。暗闇になるのが怖いのだ。目を閉じると、母の両手がつるの首もとに伸びてくる。どうしてそんなことになったのか、『千鶴』にはわからなかった。ある晩、夜中にふと起き出して隣の部屋を覗くと、母と、彼女の同僚の八尾という男が、同じ一枚の布団の中たがいに一糸纏わぬ姿で取っ組み合っていた。千鶴はいつも、母の口から八尾の妻への呪いの言葉を聞いた。八尾が家に来るたび押入れの中に隠れると、人見知りをする子だと叱られた。そしてある日、母の手が千鶴の首に伸びた。頭に血が上って、そのとき母が何を言っていたのか、千鶴はまったく聞き取ることができなかった。首から手が離れたとき、母は泣いていた。そのあとすぐ、千鶴は長崎の曾祖母のもとに送られた。
 髪とまつげに積もった雪を落とすために、つるは頭をふるふると振った。やはり傘を持ってくるべきだったかもしれない。そろそろ戻ろうかと思って足を動かすと、踏みつけられた路上の氷が、しゃり、という音を立てた。
 「あの」
 不意に背後から声を掛けられ、つるはびくりとして振り向いた。
 「診察の方、ですか?」
 背の高いすらりとした青年だった。一方の手に手提げ袋、もう一方の手にビニール傘を差して、心配そうな顔でつるを見ている。年はつるよりもひとつかふたつ上だろうか。色の白い肌と、切れ長の涼しい目元が印象的だった。
 「い、いえ・・・」
 頬に朱の差すのがわかって、つるは顔を伏せ首を横に振った。その動きに合わせて、また白い雪の粉がはらはらと落ちた。それを見ると、青年は持っていた傘をあわてて彼女の上に差し伸べた。
 「もしかして、うちに何か御用でしょうか」
 「は、はあ。あの、先生にお会いできないかと思って・・・」
 「でしたら中へ。ここは寒いですから」
 そう言うと、彼は正面の入り口ではなく、裏の勝手口からつるを案内した。
 「どうぞ」
 ドアを開けて中に通されると、そこは小さな客間のようになっていた。部屋の真ん中に二人用のソファーがふたつ向かい合わせに並んでいて、その間に木製のコーヒー・テーブルが置かれている。低いテーブルの中央には白いレースのドイリーが敷かれ、その上に二、三輪の花が小さな可愛らしい花瓶に飾られていた。
 「どうぞ、ここで掛けていてください。俺はとりあえず部屋に荷物を置いて、母を呼んできますから」
 彼はにこっと笑うと、手提げを手に部屋を出て行った。はきはきとしてなおかつ物腰の柔らかい、感じのいい青年だとつるは感じた。彼女は言われたとおりにソファーに腰を下ろした。どうやらここと二階部分は住居になっているらしい。彼が出て行ったあと、ぎしぎしと木の階段を上る音が聞こえた。
 (どうしよう)
 正直、中に案内されるとは思ってもみなかった。自分が生まれたという場所を見てみたかっただけなのだが、とっさに先生に会いたいと口にしてしまった。もちろん話すことなどひとつも決めていなかったし、そもそも先生は自分や母のことを覚えてなどいるのだろうか。一度大きくため息をついて、つるは仕方なく部屋を見渡した。建物の外観同様、中は古いながらもきれいに片付けられている。ふと部屋の隅の写真立てに目がいった。一枚は幼稚園の入園式、もう一枚は小学生の頃のものだろうか、どちらも小さな男の子が写っている。きっとさっきの青年だろう。今よりも丸顔で、黒目がちな目が可愛らしかった。
 「すいません、お待たせしました」
 五分も経たないうちに彼は戻ってきた。手には、煎茶とカステラの一切れが乗ったトレーを提げていた。お気になさらず、とつるが言う前に、彼の方から、こんなものしかなくて、と言われた。
 「そんな、ありがとうございます」
 つるがあわてて頭を下げると、彼はちょっと笑みを浮かべて、つると向かい合わせにソファーに座った。
 「もうすぐ午前の診察が終わるので、申し訳ないんですけど、もう少しここで待っていただけますか」
 「は、はい、もちろん。あの・・・」
 「はい?」
 「ひょっとして、先生の息子さん、ですか?」
 「俺ですか?はい。母がここの院長・・・と言っても医師はひとりなんですが、俺はまあ、息子兼雑用係ですね」
 つるが目をぱちくりとさせると、彼はまた笑って、
 「俺も産婦人科医を目指してるんですけど、まだ学生だから半人前扱いなんです。さっきもこの雪の中、廊下の蛍光灯が切れそうだって言うから買い出しに。ところで、学生さんですか?」
 自分のことを訊かれたのだと思って、つるは「はい」とうなずき、それから「二回生です」と付け足した。
 「今二回生ってことは、四月から三回生?」
 「はい」
 「じゃあ俺と同期だ・・・同期ですね」
 「はい。ええと私、こないだ二十歳になりました」
 「え?いつですか?」
 「二月二十一日」
 「本当に?俺と同じだ」
 「本当?」
 ふたりは目を見合わせて笑った。誕生日は偶然の一致だったが、年齢が同じということでさっきよりも緊張が緩んで、自然と会話が弾んだ。
 「俺、京都の大学なんだけど」
 「え、私大阪」
 「ほんと?」
 また笑いがこぼれた。彼は笑うと少し幼い感じがして、ちょうど自分と同い年くらいに見えた。話している内容はとくべつ何と言うこともないのだが、ふたりは不思議と気が合った。初対面の相手、しかも異性と、こんなに短時間で親しくなるようなことはつるにはごく稀だった。その後もふたりは互いにありふれた質問をしたり、それに答えたりした。 
 「ところで、今は帰省中?」
 「ううん。長崎に実家のある友達がいて、その子の帰省について来たの。私の実家は埼玉」
 「ああ、埼玉・・・」
 不意に、彼の目に正体不明の光がよぎった。
 「・・・?」
 「いや、何でもないよ。そっか、埼玉か。それはまた随分遠いところから」
 その時、家の奥から女の声で、俊之、と呼ぶのが聞こえた。
 「ああ、母さんが呼んでる。診察が終わったんだ、行こう」
 つるは彼に案内されて、客間を出て長い廊下を渡った。外から見ると狭そうな建物だったが、間口の幅に比べて意外に奥行きはあるらしい。部屋をいくつか通り過ぎたところで、上部のプレートに『診察室』と書かれた部屋の戸が目に入った。
 「どうぞ」
 ノックをしてドアを開けると、部屋に入ってすぐ正面にあるデスクを前に、白衣を着た女が椅子に腰掛けて座っていた。表の看板に書いてあったので知ったのだが、名前は今宮恵美子というらしい。短く切った頭に銀縁の眼鏡を掛けて、全体としてどっしりとふくよかな感じの人だった。優しそうな人物だが、あまり息子とは似ていない。年は五十代後半、もしかすると六十に近いのかもしれない。母、と聞いて自分の親と同年代を想像していたつるは、思っていたよりも彼女が高齢だったので、失礼とは知りながらも思わずその顔をまじまじと見てしまった。
 「こんにちは。どうぞそこにお掛けになって」
 そう言うと、彼女は目の前の問診用の椅子を示した。机と椅子のほかには隣にベッドが一台と、部屋は一般的な診察室と大差ないが、薄いピンク色の壁紙とそこに貼られている母体検診の啓発ポスターが産婦人科らしかった。つるが荷物を置いて椅子に座ると、彼女はにこと笑って尋ねた。
 「今日は何かご用かしら。とその前に、まずお名前を訊いてもいい?」
 「鶴見、鶴見千鶴です」
 つるが名乗ると、まだ部屋の中にいた彼―俊之というらしい―が、「えっ」という声をあげた。
 「あの・・・?」
 椅子の上に座ったまま、つるはこの母子の顔を交互に見やった。母親のほうも少し驚いたような表情をしていた。驚き、というよりも困惑している様子の俊之は、母さん、と言って母親を見た。
 「俺、出て行ったほうがいい?」
 「いや、ここにいなさい。・・・ごめんなさいね、鶴見さん。ところで今日はどうしたの?」
 今宮医師は笑顔に戻ると、まるで小児科医が子どもに問診するような調子でそう尋ねた。ここへ来た理由など用意していなかったので、つるはとりあえず、自分がこの医院で生まれたこと、それからできればカルテか何かを見せてもらえないだろうか、ということを伝えた。
 「ええ、ちゃんと写真も残ってますよ。俊之、わかるでしょう、資料室から取ってきて。お母さんのぶんも一緒にね」
 部屋の隅に立っていた彼は一度こくりとうなずくと、さっき入ってきた入り口とは別の扉から出て行った。
 「あの、ひょっとして母のこと覚えてらっしゃいます?」
 つるが尋ねると、今宮医師はもちろん、と答えた。
 「鶴見美鶴さんね。顔も名前もお母さんに似ているからすぐにわかったわ。・・・お母さんは元気?」
 「はい、たぶん」
 つるは曖昧な返事をした。結局夏も冬も埼玉の実家に帰らなかったので、かれこれ一年近く母の美鶴には会っていない。電話連絡もしないので、今彼女がどうしているかはつるもよく知らない。ふたりともお互いに対して関心がなかった。いや、あえてそういったものを持たないようにしていた。
 「美鶴ちゃん・・・あなたのお母さんもこの医院で生まれたのよ」
 「え?そうなんですか?」
 「といっても、まだ私の父の代の時だけどね。小さい頃、お母さんかおばあちゃんと時々ここに遊びに来てくれたからよく覚えてるの。・・・ああ、戻って来た」
 資料室にカルテを取りに行っていた俊之が、二冊の書類ファイルを手に戻った。そのうち古いほうを彼女は手にとって、デスクの上でつるに開いて見せた。
 「これがお母さん。といっても、赤ちゃんじゃわからないか」
 「モノクロ写真なんですね」
 「この当時はね。もうカラーも出始めていたかもしれないけど、この時はまだ白黒の方が多かったのかな」
 彼女は懐かしそうに目を細めた。目じりの皺が、この人の生きてきた年月を物語っていた。
 「私がここで新人として働きはじめた頃、美鶴ちゃんはちょうど高校生で。お母さんとお父さんはもう亡くなってらっしゃったけど、休みの日になると時々顔を出してくれてね。エミちゃん先生って、私のこと姉みたいに慕ってくれて・・・」
 今宮医師は少し言葉を詰まらせて、母のファイルをそっと閉じた。
 「そのあとしばらくしてうちの父が死んで、私がこの医院を継いですぐのことだったと思うけど、高校を卒業して大阪で働いてるはずの美鶴ちゃんが突然ここに来たの。血相を変えて、先生どうしよう、赤ちゃんができた、って」
 彼女はそっとつるを見つめた。俊之は部屋の角に立ったまま、じっとまじろぎもせずに母の話を聞いている。
 「おめでとうって言ってあげたかったんだけど、それにしては美鶴ちゃんの顔色が妙だったのね。これはおかしいぞと思って父親の名前を聞いたら、黙って首を振るばかりで絶対に答えようとはしなかった」
 「・・・母は、その、私を堕ろしにきたんですか」
 つるはぎゅっと震える手を握った。自分の存在意義について人の言葉に左右されるほど彼女はもう若くないが、もし自分がはじめから否定された存在として生まれてきたのであれば、八尾との一件があったとき、母が千鶴に取った行動が理解できるような気がした。
 「いいえ」
 今宮医師は力強く言った。
 「いいえ、それだけは決してなかった。父親のことがあったから、私も最初は中絶を提案したんだけど、彼女は絶対にうんとは言わなかった。自分でこの子を産んで育てるんだって、お母さんはそう言ったのよ」
 すると、彼女はおもむろにもう一冊のファイルを開いた。その中にはカルテとスナップ写真が一枚挟まれていた。
 「・・・え?」
 写真の中には生まれたばかりのふたりの赤ん坊の姿が写っていた。カルテには、二月二十一日という同じ生年月日が、生まれた時刻の順に上下にふたつ並べて書かれてあり、上には男、下には女と記入されていた。どちらの赤ん坊が自分なのか、つるは写真を見ても判別がつかなかった。新生児というものはみなそうなのか、それとも双子だからなのか、写真のふたりは驚くほどよく似ていた。
 「右があなた、左が、あなたの双子のお兄さん」
 「・・・」
 「お母さんからはまだ何も聞いてないのね」
 驚きのあまり身動きひとつできなかったつると、そのうしろに立っている俊之を見て、今宮医師は「千鶴ちゃん」と真剣な面持ちで言った。
 「あなたのお母さんは本当に、あなたたちふたりを自分の手で育てるつもりだったのよ。でも、どうしてもふたり一緒に育てることができなくて、退院してしばらくしてからまたここに戻ってきて、お兄さんのほうをうちに預けたの」
 つるは、恐るおそる斜めうしろの彼に目をやった。俊之もまた、彼女のことを凝視していた。それでは、彼が。
 「去年の夏、お母さんがここに来たことは知ってた?」
 今宮医師がつるに尋ねた。
 「夏?いえ、母はそんなこと全然・・・」
 「お盆の頃だったかな。ご両親とおばあさんの舟を流しに来てね。その時この子・・・俊之に会いに来たの。二十歳になる前にどうしても会いたい、会って謝りたいって」
 彼は口を引き結んだままこくりとうなずいた。自分だけが知らなかったのだと思うと、つるはなんだか急に心細くなった。
 「私、何も聞いてません」
 「変ね、あなたにもちゃんと話すって言ってたんだけど。成人式の前には必ずって」
 「成人式・・・」
 彼女ははっとなった。そういえば、成人式には埼玉に戻ってくるようにと、珍しく母から何度も留守電が入っていた。けれど年明け早々入院したこともあって、結局実家には帰らずじまいだった。母としてはやはり面と向かって話したかったのだろうか。
 「そう、あれからもう二十年になるのね」
 今宮医師は感慨深げにつぶやいた。ぼんやりと暖かい部屋の中で、どこからともなく外の風の音が聞こえた。

 診療所を後にした時、外の雪はだいぶ小降りになっていた。つるはふらふらとする足取りで坂を下った。双子の兄がいた。ただそれだけのことなのだが、つるの頭を混乱させるのには十分だった。雪がはらりはらりと頬に触れる。今まで保ってきた自分が自分でなくなるような感じがした。
 「千ちゃん」
 つるは思わず彼の名を呼んだ。彗太は彼が自分自身なのだと言った。その意味がつるにもだんだんわかりかけてきている。
 「・・・千鶴さん!」
 その時、背後から追いかけてくる足音がした。坂の途中で振り向くと、俊之が家から飛び出してきたところだった。
 「千鶴さん、ちょっと待って」
 「俊之さん」
 つるに追いつくと、彼は手のひらほどの大きさのメモ用紙を彼女に一枚手渡した。
 「これ、俺の京都の下宿の連絡先。こっちは携帯の番号とメールアドレスで、こっちはパソコン。今あわてて書いたからちょっと読みにくかもしれないけど。・・・ええと、それから」
 彼は息を整えながらつるの手を取った。
 「傘、雪が降ってるから」
 そう言った途端、西の方角から日の光が差し込んだ。さっきまでかかっていた厚い雲が切れたらしい。その間から、光の帯が階段のように長崎の街に下りてきていた。
 「・・・晴れてきたね」
 つるは上空を見上げた。いつのまにか雪も止んでいる。彼女は手元の受け取ったビニール傘に目をやって、それから俊之を見た。本当に大急ぎで飛び出してきたのだろう。彼はこの寒い中上着も羽織らずにいた。彼は少し照れくさそうに笑って言った。
 「ちょっと遅かったな。ごめんね」
 「ううん、ありがとう。この傘、また今度返しに来てもいい?」
 つるの言葉に俊之は一瞬はっとして、それから嬉しそうに目を細めて、もちろん、と答えた。

 その日長崎に降ったその冬最後の雪は、春の日差しで溶けて坂道を下り、海へと流れていった。


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