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作品名:トロイメライ 作者:zanpang

第40回   雪解け
 路面電車の扉が開くと、風とともに車内に吹き込んできた冷たい雪の薄片が頬に当たってふわりと溶けた。
 「足元滑るから気をつけ・・・うわっ!」
 「だっ・・・大丈夫?摂津くん」
 古い型の車両から電停に一歩降りた瞬間、凍って滑りやすくなっていた路面で彗太は前のめりに転びかけた。幸いすぐそばにあった電柱につかまったので怪我はなかったが、他の乗客や、あとから降りてきたつるに本気で心配そうに見つめられて、まさに穴があったら入りたいという気分だった。いっそ笑ってもらったほうが恥ずかしくなかったかもしれない。
 「はぁ・・・寒い。もう三月なのに真冬みたい」
 話題を変えようとしたのか、つるはかじかんだ手に息を吐いて、小雪のちらつく灰色の空を見上げた。傘を差すほどでもないが、黒い髪の上に白い雪が積もって、いかにも寒そうに見えた。
 昨日の夕方から長崎市一帯に降りはじめた雨は、夜中のうちに雪に変わり、朝になって地面に積もっていた雪は溶けたものの、今もちらちらと降り続いていた。冬が終わり春が来たと思った途端、また急に寒くなる。こういったことは長崎でもそう珍しくはないのだが、昨日がかなり暖かかっただけに、家を出る前、八幡の伯母もしきりに「不思議ねぇ」とつぶやいていた。街行く人の姿も、みな冬物のコートか厚手のジャケットである。まれに、雪が降るなどとは予想していなかったのだろう、春物の薄手の上着を羽織っただけの観光客と思しき一団が見受けられた。昼を過ぎてようやく少し気温が上がってきたが、それでも摂氏十度かそこらだろう。街路のプランターに植えられた色鮮やかな花がかえって寒々しい。
 「それじゃ、またあとでな。気をつけて」
 「うん。摂津くんも転ばないように気をつけてね」
 彗太の実家は東山手の斜面上に建っている。そこに至る坂の下で、今日は他に行きたいところがあるというつると別れて、足元に気をつけながら彼は細く長い階段を上った。

 半年ぶりに家の前に立ったとき、実家とはいえ、さすがに呼び鈴を押すのがためらわれた。薄緑色の壁、灰色の瓦、海の見える裏庭。アルミ製の郵便受けとその上に張られた『摂津』という表札は、この家に越してきたとき父が自分でつくったものだという。寒空の下で自分の生まれ育ったこの家を見上げると、色々な思い出が頭をよぎった。自分たちはもうじきここを出るのだ。
 彗太はかじかむ指で玄関の呼び鈴を鳴らした。いちおう合鍵は持っているのだが、帰省するときはいつもこうするようにしている。玄関前でしばらく立って待っていると、木製のドアがかちゃりと音を立てて開いた。
 「彗太・・・」
 扉を開けた文野は、突然連絡もなしに帰ってきた息子を見ても、それほど驚いたようには見えなかった。ひょっとすると義姉か河内からすでに聞かされていたのかもしれないし、彼が来るのをなんとなく予感していたのかもしれない。彼女は彗太をじっと見つめたあと、寒いからはやく、と彼を家の中に招き入れた。
 ストーブの焚かれた居間には、文野と彗太のほかには誰もいなかった。
 「あれ、門馬は?」
 「さっき学校の友達の家に遊びに行ったところ」
 紅茶を入れるための湯を沸かしながら文野は答えた。
 「ひとりで行かせて大丈夫なのかよ。外、雪降ってるのに」
 彗太が少し咎めるように言うと、あら、と彼女は笑った。
 「何言ってるの。あの子もうすぐ三年生よ。天気が悪いからって私がついて行ったら嫌がるわよ。あんただってそうだったでしょ」
 「俺?」
 「友達の家に遊びに行ってる時、途中でひどい夕立が来てね。帰ってくるのが大変だろうと思って、お母さんがわざわざ傘持ってその子の家まで迎えに行ったのに、あんた、恥ずかしいからやめろってすごく怒ったじゃない」
 「そ・・・そうだっけ」
 「それも、二年生か三年生くらいの頃じゃないかな」
 やかんがシュンシュンと音を立てはじめたので、彼女は火を止めて、湯を陶器のポットに注いだ。彗太が食器棚に紅茶のカップを取りに行こうとすると、文野は「いいから座ってなさい」と、キッチンから彼を押し留めた。待っている間手持ち無沙汰になった彗太は、ぐるりと居間を見渡した。夏に帰省したとき家具の位置が少し変わっていた理由が、今更になってわかった。箪笥の上からテレビの上に移動した壁時計を見ると、もうすぐ一時になんなんとしていた。
 「彗太、お昼ごはんはもう済ませたの?」
 紅茶をふたつトレーに乗せてきた文野が尋ねた。それをテーブルの上に置いて、彼女もまた彗太と向かい合わせにカーペットの上に腰を下ろした。
 「まだだけど」
 「ならお腹空いてるでしょ。何か食べる?」
 「ううん、いい」
 彗太は首を振って、白い紅茶のカップに手を伸ばした。事実、寝坊して朝食が遅くなったので腹はそれほど減っていなかったし、何より母にこれ以上気を遣わせるのが申し訳なかった。ひさしぶりに会う息子を前に、文野も緊張しているのだ。彼女は、そう、とだけ答えると、同じくまだ湯気ののぼるカップを手に取った。
 「いつ長崎に帰ってきたの?」
 文野は昨日の河内とまったく同じことを訊いた。
 「一昨日。いつもどおりバスで」
 「じゃあこの二日間、いったいどこに泊まってたのよ。まさか、漫画喫茶とかじゃないでしょうね」
 「違うよ、市子伯母さんのところ」
 それは彼女にとって聞いていない話だったのか、文野は目を丸くして驚いた。
 「まあ、全然知らなかった。お母さんついこのあいだ伯母さんに会ったのに、伯母さん何も言ってくれなかったのよ」
 「俺が母さんには黙っててって言ったから」
 彗太は少し歯を見せて笑った。本当は、そのことについて伯母には特に何も頼んでいないのだが、家に泊めてくれと頼んだ時点で、母に黙っているように言ったも同じだろう、と彼は思った。
 「いやだ、私ったら、お義姉さんたちにお礼の一言も言ってないわ。とりあえずあとで電話しなきゃ」
 「いいだろ別に。俺が言ってるし」
 「だめ。子どもがお世話になったんだから、親がちゃんと挨拶しないと。彗太、このあと伯母さんのところに戻るの?」
 文野は、必要最低限のものしか入っていなさそうな彗太のショルダーバッグを見た。
 「あ・・・何も考えてなかったけど」
 今日は実家に戻るかもしれないと思って、昨日のうちに荷物を簡単にまとめておいたのだが、とりあえずは外でつると待ち合わせる予定だった。彼女のほうも何時になるかわからないという様子だったので、とりあえず夕方の四時頃に、天主堂下の電停でふたたび落ち合うことにしていた。
 「あのさ、今日ここに泊まってもいい?」
 彗太が訊くと、母は、いったい何を言うのだというように笑った。
 「いけないわけないでしょ。あんたの家なんだから」
 自分の家、という言葉がちくりと胸に刺さった。この家はもうすぐ自分たちのものではなくなる。売るのか取り壊すのか彗太はまだ知らないが、隣のように更地にして駐車場にするくらいなら、誰か知らない人に住んでもらうほうがまだよかった。だが、この古い家に買い手などつくだろうか。裏庭につながるベランダのガラス戸に目をやると、家や木立の間からのぞく長崎港が、雪で墨汁の染みのように滲んで見えた。
 「紅茶、おかわりする?」
 文野は空になった彗太のカップにポットから熱い紅茶を注いだ。一杯目よりも濃い、外の景色とは対照的な暖色の表面が、天井の明かりを映しながらゆらゆら揺れた。口に含むとほんのり甘い。摂津家ではものぐさな守のために、ポットのほうにあらかじめ砂糖を入れることが暗黙の了解になっているからだ。
 「昨日河内さんに会ったよ」
 「え?」
 「スーパーで偶然。コーヒーおごってもらった」
 できる限りさり気なくそう言うと、彗太はカップに口を付けて、そっと彼女の顔色をうかがった。やはり、河内のほうからも何も聞いていないようだった。
 「そう、なの」
 「結婚するんだろ」
 「・・・うん」
 「いつ?」
 文野はぱっと顔をあげて彗太を見た。冷静でいようと思っていたのに、今にも泣き出しそうな母親の顔を見ると、彗太は思わず笑みがこぼれてしまった。
 「遅くなったけど、おめでとう」
 文野の頬がぽっと赤く染まった。それを見ると、彗太のほうも何となく嬉しいような気がしてきた。同時に、彼女の潤んだ目を見て少し心苦しくもなった。文野はいちど目元を指で拭うと、ありがとう、と言って彗太に微笑んだ。
 「あの人・・・衛さん、何か言ってた?」
 「まもるさん?」
 「河内先生のこと。河内衛さんっていうの。衛星の衛で、お父さんと字は違うけど。そうそう、あの人真面目だから、守くん・・・お父さんのことも、旦那さんじゃなくて『守さん』って呼ぶのね。で、私が『衛さん』って呼ぶでしょう。だからふたりで会話してると『まもるさん』だらけになるのよ」
 母が可笑しそうに笑うのを聞いて、彗太は昨日の彼との会話を思い出した。
 「ところでさ」
 彗太は言った。
 「この家はどうするの?」
 「どう・・・って?」
 文野は質問の意図をはかりかねたのか、紅茶のカップを持ったまま怪訝そうに首をかしげた。
 「河内さんのところに引っ越すんだろ。ここはどうするんだ?売るのか?」
 息子の言葉に、文野はきょとんとして彼を見つめた。
 「取り壊して駐車場にするってのもありだと思うけど、どうせなら誰かに使ってほしいよな。古いって言ってもまだ十分住めるんだからさ。狭いけど庭だってあるし、それに」
 「待って、彗太。ちょっと待ちなさい」
 彼女は手のひらを彗太に向けて、彼が喋るのを抑止した。
 「家を売るとか売らないとか、そんなこと一体誰に聞いたの?」
 「え?いや、それは・・・」
 「確かに引っ越すとは言ったけど、この家を売るなんて、お母さんは一言も言ってないよ」
 彗太はあっけに取られてしばらく声も出なかった。文野は再度、家を売るなんて、とつぶやいた。
 「そんなこと、お母さんひとりで勝手にするわけないでしょう。お父さんと一緒に暮らした家を・・・」
 そこで彼女はちょっと言葉を詰まらせて、「ひょっとしてそれで怒っていたの?」と訊いた。
 「べ、別に怒ってたわけじゃないけど」
 「ばかね。この家はちゃんととっておくつもりなのよ。維持管理のこととか少し大変だけど、いつか、あんたが長崎に帰ってきたらここに住めるように、って」
 「俺――?」
 「いつか彗太が大きくなって家族ができたら、みんなで一緒にここに住んでくれたらいいねって・・・お父さん、そう話してたんだから」
 そのとき不意に、西の空の雲間から日の光が差し込んで、雪に濡れた稲佐山の山際を照らした。摂津家のベランダの窓際にも、同じように空から白い光が落ちてきた。
 「ああ、晴れてきたね」
 母はつと立ち上がって窓際に寄り、薄いレースのカーテンを開けた。彗太もそのあとに続いた。ベランダのガラス戸から庭を見ると、庭木に積もった雪の結晶が、日差しを反射してきらきらと輝いていた。眼下の街も港も、薄い紗をかけたように白くぼんやりと煙っている。
 「雪、溶けるかな」
 彗太は、すでに溶け出しているそれを見つめながら、ぽつりと一言こぼした。ガラスはまだ冷たいが、差し込む日差しの中に立っていると暖かかった。ふと気が付くと、文野が横からはっとした表情で彼を見つめていた。
 「なんだよ、じろじろ見て」
 「いや、あのね。あんた見た目も性格も、小さい頃から私にばっかり似てるなぁと思ってたんだけど。でもなんだか突然、お父さんのほうに似てきたわねぇ」
 そう言うと、彼女は眩しそうに目を細めて笑った。窓の外の、父が愛した長崎の景色は、うららかな春の光に包まれはじめていた。


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