市郊外にある大型スーパーマーケットはすでに駐車場から混雑していた。春休み中の子どもを連れた家族連れが多く、皆が大きな買い物カートを押している。一人暮らしの学生が多い大宮寮の近くの小さなスーパーとは大違いだ。 「すごい人だね」 「田舎は娯楽がないからな。遊びに行くって言っても、こういうところしかない」 彗太はやや皮肉まじりに言った。彼自身も、弟が出掛けたいと駄々をこねたら大抵いつもここに連れてくる。入場料はいらないしついでに買い出しもできるしで、大人にとっては一石二鳥なのだ。 「カートは・・・あったあった。ちょっと取ってくるね」 「あ、待って俺も」 「・・・彗太くん?」 「え?」 男の声で名前を呼ばれて振り向くと、五歩ほど離れた人混みの中に、買い物カゴを持った河内がびっくりした表情で立っていた。
スーパーの入り口近くのベンチで、彗太は河内におごってもらったコーヒーを手に、まだ湯気の立っているその表面を見つめながら、隣に座る彼の様子を横目でつぶさに観察していた。 よりによって、と彗太は思った。気まずいにもほどがある。まだ文野と話してすらいないのに、こんなところで当の河内に出くわすとは万に一つも思わなかった。おまけにつると一緒にいるところまで見られて、彗太はこの男の前でどんな顔をすればいいのかわからなかった。そのつるは気を利かせたのか、ひとりで買い物をしにカートを押して行ってしまった。 「ええと、いつ帰ってきたの?」 河内も緊張しているのだろう、いたって当たり障りのないことを尋ねた。 「・・・昨日の朝、です」 「ああ、昨日。へぇ」 そう鸚鵡返しをして、また会話がぷつりと途絶えてしまった。彗太は次の言葉を探しながら、手の中でコーヒーカップをくるくると回した。紙製のカップには、さっきからまだ一度も口を付けていない。熱いコーヒーなんて買ったのだから、河内も彗太とゆっくり話がしたかったのだろう。彼もまたベンチの上で大きな身体を丸めて、何を話せばよいか必死に考え込んでいた。気まずい雰囲気の中、無言で並んで座っているふたりの男の前を、兄弟と思しき子どもらが不思議そうな顔をして通り過ぎた。 「昨日はホテルに?」 河内はまた短い質問をした。 「いや、伯母のところです。立山の」 「お母さんには」 「まだ言ってません」 河内は、そうか、とだけ答えた。どうして連絡しないのかと咎められると思ったのだが、意外にも、彼の口から出たのは「よかった」という一言だった。 「元気そうでなにより。ふみ・・・いや、摂津さん、摂津くんのこと心配してたから。摂津も春休みだっていうのに、このところ元気がなくて。あ、そういえば摂津くんの大学も今は春休み中なのか。摂津さんが、摂津くんはバイトで忙しいって言ってたって摂津から聞いて・・・あれ?」 「あの、俺のことは彗太でいいですから。母のこともいつも通りに呼んでください」 律儀な河内の様子に、彗太は思わず吹き出しそうになるのを必死でこらえた。気を遣ってくれているのがよくわかった。河内は頭を掻き、少し照れ笑いを浮かべた。図体がでかく、顔もひげの剃り跡が濃いため、ぱっと見大型の熊のような外見なのだが、近くで見るとなかなかどうして、くりくりとした丸い目に愛嬌がありかわいらしくも見えた。無駄に大きい声や若干暑苦しいところなど、どちらかといえば女性的で線の細い印象を与えた守とは似ても似つかないが、彗太はそれにとくべつ嫌な感じはしなかった。 「文野さんには会う?」 「たぶん、明日にでも家に帰ります」 本当はまだ何も決めていなかったのだが、彗太ははっきりとそう答えた。いつまでも市子のところで世話になるわけにもいかないし、そもそもそのために長崎に帰ってきたのだ。それを聞いて、河内は安心した表情を見せた。 「文野さんも門馬も喜ぶぞ」 母と弟を名前で呼ぶ彼に、彗太はほんの少し苛立ちを覚えた。父が死んで以来担ってきた自分の持ち場を、突然奪われてしまったような感覚。だがこれがふつうの感情なのだろうと、彗太は思えるようになっていた。そしていつかそんな気持ちも癒えるだろう。 「あの、河内さ・・・」 そう言おうとした時、開いた自動ドアの外からぴゅうっと冷たい風が吹き込んできた。午後になってから、朝のうちはよく晴れていた空がだんだんと曇りはじめて、気温がかなり下がってきていた。車の中にコートを置いてきた彗太はぶるっと身体を震わせた。それを見て、河内はすぐさま自分のジャケットを脱いで彗太の肩に掛けた。 「え、あ、大丈夫です」 「うんにゃ、風邪なんか引いたらいかん」 「いいです。そんなこと言って、河内さんが風邪引きますよ。下、半袖じゃないっすか」 「なに、俺は身体だけは頑丈だから。大丈夫だいじょうぶ」 そう言って彼は、彗太の肩をばしばし叩いた。彗太はなんだか、自分が急に小さくなったような気がした。ぶかぶかのダウンジャケットの下で、彗太は手にした紙カップをぎゅっと握りしめた。気がつけば中のコーヒーはもう冷たくなりはじめていた。 「河内さん」 「ん?」 「河内さんは、奥さんと子どもさんがいなくなってから、どれくらいで悲しくなくなりましたか」 意地悪な質問だ、と自分でも思う。だが彗太も、別に河内を責め立てたいわけではない。ただ、この真面目そうな男が何をきっかけにして、亡き妻と子を忘れられるようになったのか、それが知りたかった。河内は虚を突かれたようだったが、すぐに真っ直ぐな目で彗太のことを見つめた。 「悲しくなくなる、と思ったことはなかよ」 「でも、気持ちを切り替えたから、うちの母と再婚するんじゃないんですか」 「うーん、切り替える、かぁ・・・」 河内は両腕を組んだ。 「こんなこと言うと彗太くんは嫌かもしれんが、妻と娘のことはこれからも一生、忘れることはないと思う。きっと毎日思い出す。文野さんと結婚しても、だ」 「・・・」 「文野さんがリカの代わりになるとは思っとらん。たぶん文野さんもそうだろう。あの人は優しい人だからそんなこと言わんが・・・けど、俺が君のお父さんの代わりになることは望んどらんだろうし、俺もじゃっど。そんなこと、きっと誰にもできん。できるはずがなか」 「はい・・・」 彗太の脳裏に千の顔が浮かんだ。すると、少し涙声になっていた河内が眉間にこぶしを当ててうなだれた。妻と娘を同時に失ったこの男の悲しみが、今更になって彗太にも痛いくらい伝わってきた。本当に片時も彼女らを忘れたことはなかったのだろう。 「ごめんなぁ、こげな辛気くさい」 河内は一度鼻をすすってから、困ったような顔で、ふたたび頭を上げて彗太を見た。 「ちょっと情けないとこ見せてしまったな」 「いや・・・そんな」 「彗太くん」 「はい?」 河内がいつになく真剣な様子だったので、彗太も思わず身を正した。 「さっき俺、悲しくなくなることはないって言うたけど、でもいつか、悲しいばっかりじゃなくて、会えてよかったなぁって思えるようになるんと違うかな。時間はかかるだろうけど・・・」 そう言った河内の目は暖かく優しかった。思えば、父も心の優しい人だった。 ふと、雑踏の中から「雨だ」という声が聞こえた。
「鶴子」 彗太が声を掛けると、大きな買い物袋を携えてひとりベンチに座っていたつるはぱっと顔を上げた。 「もういいの?」 「うん。悪かったな、待たせて」 彗太を待っている間よほど暇だったのか、彼女はすぐ横の公衆電話のところにあった分厚い電話帳を読んでいた。本好きなのは知っていたが、そんなものを読んではたして面白いのだろうか、と彗太は少し可笑しくなった。 「じゃあ帰ろうか。雨降ってきたしな」 「そうなの?」 電話帳を閉じながらつるは訊いた。時刻はまだ夕方の四時前だったが、辺りは薄暗くなりはじめていた。来た時はたくさんいた買い物客の姿も徐々に少なくなっていった。ふたりも、トイレットペーパーや食材など伯母に頼まれたものを持って駐車場へと向かった。 「あの人が河内先生?」 車に入って運転席のドアを閉めた時、助手席に座ったつるが彗太に尋ねた。 「ああ、うん」 「優しそうな人だね」 「まあな。・・・今度、母さんと再婚するんだ」 案外その言葉はするりと口から抜け出た。つるは少し驚いた様子だったが、すぐに笑みをつくって、そっか、とつぶやいた。 「よかったね、って言っていいのかな」 自分の母と八尾のことを思い出したのだろうか、少し困惑気味に彼女は言った。けれど、彗太にとってはそれでよかった。すべて受け入れられるようになるまでは、まだしばらく時間がかかるだろう。だがそれでいいのだ。 「母さんたちに、何かお祝いしてやんないとな」 彗太は窓の外を見やった。雨は弱まる気配がなく、空気は真冬に戻ったように冷え込んでいた。雪になるかもしれない、彼はそう思った。
|
|