翌日も長崎の空はよく晴れていた。天気予報によると、北九州地方では今後数日間穏やかな晴天が続くらしい。外はコートを着ていると暑いくらいだったので、彗太は厚手のジャケットを着て、コートは念のために車の後部座席に丸めて置いた。 「何だよ、助手席に乗ればいいだろ。鶴子」 コートを膝に乗せて、後部座席に乗り込もうとしたつるに向かって彗太は言った。彼女は少し考えてから、「うん」とだけ言って、彗太の言うとおり前の座席に移動した。 「シートベルトちゃんと締めろよ」 「はい」 そうは言ったものの、彼女はめったに車に乗らないのか、シートベルトを探し出すのにも一苦労していた。なので、仕方なく彗太が運転席から手を伸ばしてベルトを引っ張り出した。 「ありがとう」 「ん、じゃあ行くぞ」 彗太は借りてきた車のキーでエンジンを掛けた。
「おはよう摂津くん」 今朝起きてみると、つるは台所で伯母と一緒に朝食の支度をしていた。 「ほら彗太、もうすぐ朝ごはんできるから顔洗ってきなさい。ついでに伯父さんも起こしてきて」 「あ、ああ・・・」 彗太はキツネにつままれたような気分だった。昨日、二ヶ月ぶりに千が現れたと思ったら、今度は何の前触れもなく一日でつるに戻ってしまった。 「ふたりとも、今日はどこかに出かけるの?」 伯父を含めた四人で朝の食卓を囲みながら、伯母の市子が尋ねた。ご飯茶碗を持ったまま、彗太とつるは顔を見合わせた。どこで何をするか、まだ何も話し合っていない。 「あら、まだ何も決めてないの?だったら稲佐山でも登ったら?あそこは夜景がきれいだから、夜はカップルが多いんだって」 「こら、あんまりからかうんじゃない」 普段は口数の少ない伯父が口を挟んだ。生まれも育ちも長崎というこの伯父のもとに、伯母は守が高校に上がる年に嫁いできたらしい。白髪まじりの頭と優しい面立ちがどことなく紳士然としていて、彗太も幼い頃からこの伯父によく懐いていた。 「もし出かけるんだったら、そこに止めてある車を使ってもよかよ。彗太、もう免許は持ってたよな」 「うん」 「あ、じゃあもしよかったら、ついでに買い物してきてくれない?伯母さんもこれから用事があって出掛けなくちゃいけないの」 特に断る理由もなかったので、彗太は伯父の車を借り、つるを連れて郊外の大型スーパーにおつかいに行くことにした。
交差点で信号待ちをしている間、彗太は横目でちらと助手席のつるを見た。千とは昨晩夢の中で入れ代わったのだろうか。彗太は隣の別の部屋で休んでいたが、隣室はいたって静かなものだった。もっとも、夜行バスの中ですぐ隣に眠っていた時でさえ何も気付かなかったのだから、『交代』はおそらくごく静かにおこなわれるのだろう。 「・・・?何?」 「いや、別に。あ・・・ちょっと寄り道してもいいか?」 「うん?」 「その前に、そこのコンビニに寄っとくか」 彗太はハンドルを左に切って、国道沿いのコンビニの駐車場に入った。
緑の多い共同墓地は、遠めに見ると公園のようにも見えた。丘陵上にあるそれも、町と同様に春の気配を帯びている。駐車場に車を止めて墓地の中に入ると、むっと濃い緑のにおいに身体を包まれた。 「おじさんのお墓どこ?」 「もう少し先。あの階段上ってすぐのところ」 片方の手に提げたビニール袋には、コンビニで買ったチョコレートとカステラ、それからつるがドリンク売り場で見つけたプリンジュースが入っていた。缶コーヒーの隣に平然と並んでいるそれを見ると、奇妙なような可笑しいような感じがした。 「着いた、ここ」 急な斜面を上ると息が弾んだ。うしろからついて来たつるも同様で、最後の数段を上る足取りがおぼつかなかった。彗太はあわてて空いたほうの手で彼女の手を引いた。 守の墓の周りはきれいに掃除されていた。供えられた花もまだ新しく、ここ最近人が訪れたばかりのようだった。 「ただいま」 ひさしぶり、と心の中で父に話しかけた。夏休みに帰省して以来だから、かれこれ半年以上来ていないことになる。彗太は買ってきた菓子類を袋の中から取り出して父の霊前に供えた。つるも彼と同じように墓の前にちょこんと屈み、胸の前で指を組んでうな垂れた。 思っていたほど深刻な悲しさは押し寄せなかった。悲しくないと言えば嘘になるが、それよりもむしろ、暖かく懐かしい気持ちが心の多くを占めていた。昨日のことがあったからだろうか。それとも、今隣に彼女がいるからだろうか。木の葉の擦れる音に混じって、風がスケッチブックをめくる音が聞こえた気がした。 「おじさん、いつ亡くなったんだっけ」 「俺が十五になったばっかりの時だから、鶴子は十四・・・いや、まだ十三か」 「そう・・・」 つるはそう言うと、ふたたび守の墓のほうに顔を向けた。どことなく悲しそうな瞳で、何も言わずに灰白色の石の塊を見つめている。こうやって父を偲んでくれる者が傍にいることが、今の彗太には何より心強かった。 しばらくの間そうやって静かにした後、ふとつるのほうから口を開いた。 「私、お父さんがいないって話したっけ」 「え?あ、いや・・・」 彼女の思いがけない言葉に、彗太は思わず声が上擦った。 「いないの、お父さんが」 「いないって、亡くなったのか」 彗太の言葉に、つるは首を横に振った。視線を土の上に落として、しばらく考えるようにしてから、つるはふたたびぽつりぽつりと話しはじめた。 「生きてるけど、めったに会わない。血は繋がってるけど、お父さんって呼んでいいのかほんとはよくわからない。やっぱり、私は正式な家族じゃないから」 「・・・」 「今更お父さんがほしいなんて思わないけど、摂津くんのことは少しうらやましかったよ。短い間だったけど、私、おじさんのことほんとに大好きだった。背が高くて、会うといつも優しくて。ああ、これがお父さんかぁって、そう思ったの。こんなこと言うと怒る?」 「ううん」 よかった、と彼女はほんの少し微笑んだ。どことなく千の笑い方に似ていた。 「鶴子」 「何?」 「鶴ばあのお墓、行くか?」 つるは一瞬声を失った。 「たぶんすぐそこにある。前に家族が墓参りに来てたから」 彗太はその場にすっくと立ち上がって、つるに手を伸ばした。少しの間彗太をじっと見つめてから、彼女はその手を取った。 鶴ばあの墓はすぐに見つかった。守のものよりもはるかに古い墓石には『鶴見家ノ墓』と刻まれていた。 「あ・・・」 墓の前まで来たとき、つるは身体をびくりと震わせて硬直した。眩しい陽光のもとで、彼女は震える両手を口に当てて、そこに刻まれた『鶴見千代』という文字を凝視した。 「おばあちゃん」 「鶴子、大丈夫か」 「ごめんなさい、おばあちゃん。私、わたし・・・」 彼女は両手で顔を覆って、そのまま墓の前に崩れこんだ。その足元には摂津の墓と同様に、真新しい菊の花が供えられていた。 「おばあちゃん、私のことすごく可愛がってくれたのに、私、いつもそれに答えられなくて・・・おばあちゃんが死んだって聞いた時も、お葬式にすら行ってあげられなかった。お墓参りだって今日まで一度も来なかった。私なんて憎まれて当然なのに、おばあちゃん、いつも優しくしてくれた。なのに・・・」 つるは許しを請うように墓にすがった。ごめんなさい、と何度もつぶやく彼女を、彗太は背中を撫でてなだめるしかなかった。
墓地を出て、駐車場に止めてあった車の中に戻った頃には、正午を少し過ぎていた。 「少し落ち着いたか?」 「うん・・・ごめん」 彗太が伯母の家から持ってきたペットボトル入りの緑茶を渡すと、つるはそれを少しだけ口に含んだ。車内に積んであったティッシュの箱を、彗太はつるの前に引っ張ってきた。 「ほら、鼻もかんどけ」 「はい・・・うわ、ひどい顔」 サイドミラーに映った自分の顔を見て、つるは思わずぷっと吹き出した。泣き腫らした目が赤くなって、以前土居が言ったように、確かにうさぎのようだと彗太は心の中で思った。 「なあ、なんで鶴ばあの葬式に来なかったか、聞いてもいいか?」 彗太は、ずっと前に千が言っていた「自分たちはだめだ」という言葉の意味が気になっていた。そもそもそれ以前から、鶴ばあに対する千鶴の態度はおかしかった。孫娘が祖母に取るにはあまりによそよそしい態度。一体何が彼女をそうさせたのか。 「行こうとしたら止められたの、ママに。行ったら他の親戚の人たちにも迷惑がかかるって」 「お母さんが?」 「うん。でも、本当はママもおばあちゃんに会いに行きたかったんだと思う。だって、おばあちゃんはママにとっても大切なおばあちゃんだもん」 それから、つるは一呼吸置いて静かに言った。 「私にとってあの人は、本当はひいおばあちゃんなんだけどね。私のお父さんになる人は、お母さんの叔父さんだから」 「え」 「だから、おばあちゃんたちと苗字が同じなの」 そう言って、つるは長いまつげを伏せた。彗太は彼女に何か言ってやりたかったが、下手な同情や憐れみが通用するような相手ではないことを、彼もよくわかっている。 「軽蔑した?」 その声からはほんの少しだけ自己嫌悪が見え隠れしたが、彼女はもうそれとはうまく付き合っていけるのだろう。強く、それでいて穏やかな目を運転席の彗太に向けた。 「するわけないだろ、ばか」 彗太は自然に、コンソールボックスの上に置かれたつるの右手に自分の左手を重ねた。冷たいつるの手が、彗太の手の温度でじんわりと暖かくなった。 「行くぞ」 彗太は手をはなし、エンジンキーを回した。助手席から、うん、と小さな声が聞こえた。
春の日差しを受けた緑の斜面を、彗太はサイドミラーで見送った。ここにはまた来るだろう。今度は三人かもしれないし、四人かもしれない。父の遺骨を埋葬した雨の日、ひどく冷たく感じられたこの場所は、六年経ってようやく暖かい土地になった。眼下に海を臨むこの場所で、父ともうひとりの自分は、大人になった彗太が来るのをずっと待っていた。
彗太は、自分がやっとひとつになった気がした。
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