肩を揺さぶられる感覚で彗太は目を覚ました。 「彗太起きて。もう朝だよ」 「あ・・・?」 「もうすぐ到着だから、はやく起きて降りる準備しないと」 もう着いたのか、とぼんやり考えながら目を開くと、すぐ目の前につるの困った顔があった。 「ああ、やっと起きた。おはよう彗太」 彗太が完全に目を覚ましたことを確認すると、つるは彼の肩から手を離した。 「あ、ああ、おはよ」 そう答えてから、彗太は妙な違和感を感じた。何かがいつもと違う。予想に反して熟睡してしまったのに、まだ眠い目を擦りながら、彼はそう思った。 「見て、窓の外。いい天気だよ。海も見えるかな」 「たぶんそのうち・・・あ、ほら見えてきた」 彗太が指差したほうには、ビルの間々に長崎港の青い水面が朝陽を反射して輝いているのが見えた。そのきらきらとした光が起きぬけの瞳に眩しい。 「あ、船が見えた。路面電車も走ってる」 「別に電車なんて珍しくないだろ。前に来たときも乗らなかったか?」 「俺は長崎に来るのはじめてだよ」 「は?」 「ひさしぶり、彗太」
荷物を持って長崎駅前に降り立った時、彗太の頭はまだ混乱していた。 「案外大きい街だな。つるの話聞いてると、もっと小さな町かと思ってた」 バスの発着する県営バスターミナルから、千鶴がいたときにはまだ改装されていなかったかもしれないJR長崎駅を見て、千は言った。時間はやっと朝の七時になるぐらいだが、平日だったので、駅前の道路は電車に乗り込む学生や通勤客で賑わっていた。 「つるに聞いたけど、彗太の伯母さんのところに泊めさせてもらえるんだっけ」 「あ、ああ・・・それより、ゆき」 そう言いかけたとき、彗太、と誰かから下の名前を呼ばれた。振り返ると、伯母の市子が自分に向かって手を振っていた。 「市子伯母さん」 「彗太!ひさしぶり!よかった間に合って」 「何でこんなところに」 駆け寄ってきた伯母の姿を見るや、彗太は驚いて尋ねた。 「九時に大阪を出るバスに乗るって聞いてたから、うちから駅まで車で迎えに来たのよ。荷物持ってたら電車に乗るの大変でしょう。でも家を出るのがちょっと遅くなっちゃって。もしあと少し遅かったら、入れ違いになってたわねぇ」 事実、彗太は今まさに千を連れて路面電車に乗るために、バスターミナルの建物を出ようとしていたところだった。市子は彗太の隣にいた『千鶴』を見て、一瞬目を丸くして彼と『彼女』の顔を見比べた。 「はじめまして。私、鶴見千鶴といいます。摂津くんとは同じ大学の同級生です。これ、つまらないものですが」 「あら、まあ。ご丁寧にどうも。彗太、あんたまたこんな可愛らしいお嬢さん連れてきて。おばさん、友達って聞いてたから、てっきり男の子かと」 千は少し照れくさそうに笑って、お世話になります、と市子に頭を下げた。控えめながらもはきはきと物を言うところがやはり千だなと、彗太は内心思った。もしこれが千鶴だったら、ひょっとして面を伏せたまま、彗太のうしろに隠れてしまったかもしれない。 伯母の運転する乗用車の後部座席に乗って、ふたりは立山にある彼女の家に着いた。 「それじゃあ、二階は好きに使っていいから。千鶴ちゃんもバスで疲れたでしょう。ちょっと一休みしてええよ。下りてきたらお土産のお饅頭とカステラ切ってあげるから」 市子はそう言うと、千の渡した手土産を持って、にこにこと上機嫌に階段を下りていった。伯父はもう仕事に出てしまって今は留守らしい。 「土産なんてよかったのに・・・」 「泊めてもらうのに、手ぶらじゃ失礼だろ」 荷物を下ろして、千は二階の客間のベッドに腰を下ろした。客間といっても、あるのはそのベッドと小さな机ぐらいで、彗太はなんとなくそこに座る気になれず、窓際の壁にもたれかかった。 「千・・・だよな」 「そうだよ」 「なんで二ヶ月も出てこなかった」 そんなつもりはなかったのだが、つい責めるような物言いになってしまった。千に見捨てられたかもしれない、と悲しそうに話したつるの顔が頭に浮かんだ。千は、朝陽の差し込む窓辺に立つ彗太の顔を見返した。 「彗太。その前にさ、俺に言うことがあるんじゃないか」 「言うこと?」 彼は軽く彗太を睨んで、無言で唇の上に人差し指を乗せた。すぐにその意味がわかって、彗太は恥ずかしさで顔に血が上るのがわかった。 「あ、あれは・・・!」 月明かりに浮かび上がる病院の一室。今思えば、なぜあんなことをしたのだろうと、あの時の自分の気が知れなくなる。明らかに狼狽した様子の彗太を見て、千は少し困ったように笑った。 「冗談。怒ってないよ」 「でも、ごめん、俺」 「そんな顔されると、俺まで照れくさくなる」 千はすっと立ち上がって、観音開きのガラス窓を開けた。海の湿り気を含んだ風が部屋の中に入り込んできた。 「なあ、グラバー園ってどこ?」 「グラバー園?南山手・・・俺んちの近くだけど」 「ここから遠い?」 「歩くとちょっと遠いけど、電車ならそんなに。行きたいのか?」 「うん。つるがよく話してくれたから、一度どんなところか見てみたい」
結局その後、色々聞きたそうな市子に捕まり一階のリビングで長話をしたため、ふたりが出かけた時はすでに正午を回っていた。空はよく晴れわたって日差しも暖かく、観光客や散歩をする市民に混じって坂をのぼりながら、彗太も千も暑さでコートの前をはだけさせた。土産物屋の並ぶ通りを抜け、大浦天主堂の前で右に曲がり、階段をさらに少し登ってグラバー園と書かれた入場ゲートをくぐった。 「あれ何だろう」 エスカレーターで園内を登りながら千が言った。 「どれだ?」 「あの真っ青な屋根の大きな建物」 「ああ、あれは学校の校舎。海星っていう」 そう言って彗太は、十年前、千鶴に今とまったく同じことを訊かれたのを思い出した。 「じゃあ、あっちの・・・」 「あっちの赤い屋根も学校」 千は、どうして、とでも言いたげな顔で彗太を見た。彗太は少しだけ胸が痛んだ。十年前隣にいたあの子は、もうここにはいないのだ。 入り口でもらったパンフレット片手に園内をぐるりと回ったあと、グラバー邸前のベンチでふたりは足を休めた。南国の春とはいえ、日陰に入るとやはりまだ肌寒い。千もそうなのか、開いたコートの前を掻き合わせた。 日が高くなるにつれ、影は短くなり、空の青はますます濃くなった。冬がおわり、緑を取り戻してきた山とのコントラストが目に鮮やかだった。海の色も沈むように深い。その濃い青が、守の描いた彗星の絵に少し似ていると、彗太はふと思った。 「昨日の夜、夢でつるに会ったよ」 千がぽつりと言った。 「一緒に行こうって、言ってくれたんだ」 その声は一見嬉しそうにも聞こえたが、本人は少し複雑そうな顔をしていた。 「いつもは『千ちゃん、助けて』って、俺に頼ってばかりいたのに、昨日は別人みたいに落ち着いてた」 「お前・・・あれから何してたの」 「何も。ある時目を覚ましたら真っ白な光の中にいて、自分も何も見えなかった。何度もつるに声を掛けようとしたけど、声が出なかった。つるの声も聞こえなかった」 一体それはどんな気分だろうと彗太は想像したが、わかろうはずもなかった。 「検査で入院してた時、偶然、昔千鶴が長崎に行く前にお世話になったらしい小児科の先生に会ったんだ。先生、千鶴のこと覚えてたよ。その先生と色々話したあと、夢も見てないのに、気がついたらつると入れ替わってた。そんなことはじめてだったから、正直俺もびっくりした」 千は視線を遠くの海に向けた。時折風が吹くと、屋敷の柱に絡まった蔦がわずかに揺れた。ちょうど春休み中だからか、園内には、両親や祖父母に手を引かれた小さな子どもたちがたくさんいた。彼らの声が遠く幻のように聞こえる。 「でも、不思議と気持ちだけは伝わってきたんだ」 「つるの気持ちが?」 「うん。はじめはひとり不安で、苦しくて、寂しくて・・・でもそんな気持ちが、時間が経つにつれてだんだん優しくなっていった。彗太がずっと一緒にいてくれたんだろ」 「・・・」 「ありがとう」 千はふわりと微笑んだ。それは、彗太の見たことのない表情だった。まるで千ではないようだった。そして、つるでもない。 「俺は・・・」 「俺のこと、亡くなったお父さんに重ねてたんだね」 彗太ははっとなって千を見た。その目には、怒りでも同情でもない、優しい光が浮かんでいた。 「あの時、父さん、って呼んだだろ。俺のこと」 「・・・」 本人に言われて、彗太はようやくすべてを飲み込むことができた。今すぐ泣き出したいような気分だった。 自分だけは死なないと、父が死んで以来なぜかそう思っていた。それが、目の前に突きつけられた不条理な現実に対するささやかな反抗だった。事実を素直に受け入れるには、失ったものがあまりに大きかった。それでも、父の死そのものは目の背けようがなかった。 千鶴と再会した時、父の思い出が唐突に蘇ってきた。彗太にとって、十年前の千鶴の記憶はそのまま父、守の記憶だった。元気だったあの頃の父は、あの雨の日、千鶴と一緒にいなくなってしまった。あれ以来、日に日に死に近づいていく父を見ながら、あのひと夏の思い出が彗太の心にただひたすら美しく映った。だから図書館で千鶴を見た時、彼は死んだ父が帰ってきたような錯覚に襲われたのだ。思い出の中の千鶴をつるに、守を千に投影していた。 「大丈夫だよ」 千は黒目がちな目を細めた。 「俺は忘れないから。彗太が、お父さんを忘れてなかったってこと」 胸から熱いものがこみ上げてきた。畢竟、恐れていたのはそれだった。自分が父を忘れてしまうこと、そして、彼を慕っていた自分を皆が忘れてしまうことを。 「う・・・」 彗太が袖で隠すように涙を拭うと、千はそっとその背中を撫でた。泣いてもいいよ、と言っているようだった。涙はまるで堰を切ったように止まらなかった。思えば父が死んで以来、一度も彼のために泣いたことがなかった。 日が傾いてきて、周りに日向の部分が多くなった。泣いているのが可笑しいくらい空が青い。 「ずっと覚えているから」 背中をさすりながら千は言った。 「だから、俺のことも忘れないで」
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