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作品名:トロイメライ 作者:zanpang

第36回   長崎へ
 午後八時、彗太はバスターミナルの待合室の中に彼女の姿を探した。
 「あっ、いたいた。鶴子」
 その声に反応して、ベンチに座っていたつるは伏せている面を上げた。
 「ごめん遅くなって。バイトがちょっと長引いてさ」
 「おつかれさま」
 そう言うと、彼女は少し笑って、座るところのない彗太に席を譲ろうとした。
 「いいって。座ってな」
 彗太は立ち上がろうとしたつるを止めて、旅行用かばんを下に置いた。この時間の待合室は、長距離夜行バスを待つ人であふれ返っていた。現に、彗太のまわりにも、彼と同じように荷物を地べたに置いてそこに座り込んでいる者が数多く見受けられた。待合室の時計に目をやると、夜の八時を少し過ぎたぐらいで、長崎行きのバスが到着する九時にはまだ少し時間があった。
 「私、何か飲み物買ってくる」
 所在なさげに壁を見ている彗太に何か思ったのか、つるは気まずそうにふたたびベンチから立ち上がって、自動販売機のあるほうに歩いていった。座っていて、と言われたので、彗太は空いたベンチの隙間に腰を下ろした。

 一緒に長崎に行こう、そう誘ったのは彗太からだった。つるはその場ですぐに返事をしなかった。数日経ってから、メールでたった一言「行く」と返してきた。その間に彼女が何を考えたのかはわからないが、さっきの様子を見る限り、旅行気分で浮かれているというふうではなかった。彗太も―彼にとっては旅行というより帰省だが―いつもよりいくぶん気持ちが重たかった。そもそも、実家の母に帰ることを伝えていないといううしろめたさがある。とりあえず伯母の市子に連絡してつるも一緒に泊めさせてもらうことになったが、いつかは実家のほうにも会いに行かなくてはならない。そうは思うものの、こうやって梅田に来ていつものように長崎行きのバスを待っていると、胃のあたりがなおいっそう重く感じられる。ひょっとすると、そういった気分がつるにも伝わってしまったのかもしれないと、彗太は飲み物を買いにいった彼女を待ちながら思った。
 そうこうしているうちにも、また新たにバスがやって来ては、乗客をのせて目的地に向かって発車していった。入れ代わり立ち代りする雑踏の中にあると、沈んだ気分も少しは紛れるかもしれない。今何時だろうと思って再度壁の時計を見やると、さっき確認してからまだ五分も経っていなかった。
 「おまたせ」
 彗太が物思いにふけっていると、つるが人ごみの間を抜けて、飲み物の缶を両手にひとつずつもって戻ってきた。
 「はい、どっちがいい?ココアと紅茶。どっちもホットだよ」
 「俺の分?」
 「うん、そう」
 「じゃあ・・・紅茶。さんきゅ」
 彗太は、親指と中指で熱そうに缶の上縁を持ったつるの手からミルクティーを受け取って、それから自分のショルダーバッグの中に手を突っ込んだ。
 「払うよ。いくらだった?」
 すると彼女は首を横に振って、財布を出そうとした彗太を止めた。
 「だめ。今日は私のおごり」
 「え、でも」
 「いいの。そのかわり、長崎に着いたら中華街で東坡肉が食べたいな。ガイドブックで見たんだけど」
 一瞬彼女の意図がわからず、目をぱちくりさせた彗太を見て、つるはくすっと笑った。ああ、励ましてくれているのだ、と彼は思った。
 「了解。東坡肉でも豚まんでもなんでも」
 東京行きのバスが来て、彗太の隣がわずかに空いたため、つるは荷物とともにそこに座った。ただの長椅子のようなベンチにかなり詰めて座っているので、コート越しに肩が触れあった。つるは彗太のあげた赤いマフラーで首の部分をごく軽く覆っていた。その隙間から、白い首の上に治りかけた傷痕がいくつか見えた。痣は引いたものの、二ヶ月経ってなお痛々しいそれを見て、彗太は思わず憐憫の情を催した。あの日、気を失って病院に運ばれる前に『彼』が口にした「ママ」という叫びが、まだ耳に残っている。
 「あ・・・これ?」
 彗太の視線に気付いたのか、ココアをちびちび飲んでいたつるは、指で首筋の傷痕にそっと触れた。
 「まだ痕が消えないんだけど、もう全然痛くないんだよ。まあ、最初からあんまり痛くはなかったけどね」
 「そうか」
 「ところで、つばさちゃんは元気?」
 彼女は努めて明るく尋ねた。つるの口からつばさの名を聞くのははじめてだったので、彗太は一瞬動揺した。
 「あ、ああ。ちょうど今日電話があって、高校受かったってさ」
 「そうなの?よかった」
 今朝バイトに出かける前、帰省の荷物をまとめていると、彗太の携帯電話につばさから直接連絡があった。一月のあの一件以来まったく会っていなかったので、最初はお互いに気まずいものがあったが、すぐに以前のようにうち解けることができた。
 「とにかく、合格おめでとう。がんばったな」
 「へへ、ありがと、先生」
 つばさは、制服がかわいくないとか、高校に入ったらバイトをするのだ、という話を彗太に一通りしたあと、少し間を置いて、鶴見さんは、と訊いた。
 「あの人、元気にしてはる?なんか、あのあと入院しはったって聞いたんやけど」
 「ああ、うん。大丈夫。ただの検査入院だって言ってたし」
 「そっか・・・」
 彼女の声には、かつてのような千鶴に対する嫌悪感こそ含まれていなかったが、どことなく同情するような響きがあった。
 「あんな、先生」
 「ん?」
 「パパと鶴見さんのお母さんのこと、もしかしたら鶴見さんから聞いとるかもしれんけど。でもそのことについて、うちのママを悪く思わんといてな。うちもママの気持ち、少しはわかるから・・・」
 その気持ちをどう表現したらいいのかわからないのだろう。面と向かって話すことのない電話の向こうで、つばさは一生懸命言葉を探していた。
 「でもな、鶴見さんもかわいそうやなぁって思うねん。生まれたときからお母さんとふたりきりやったのに、突然そのお母さんが家に知らんおじさん連れてきて、いったいどんな気持ちやったんやろうって」
 「ああ・・・」
 やっぱり、と彗太は思った。母の男。それが許されない相手であることを、頭のいい千鶴はきっと感づいていたのだろう。女としての母を知ったときのどうしようもない不快感は、彗太にも理解できなくはない。帰りたくない、と言ったあの時の千鶴の思いが、今の自分に重なる。
 「鶴見さん、うちのパパとママのこと、怒ってはる?」
 「まさか。そういうやつじゃない」
 「・・・ほんまに大好きなんやねぇ、鶴見さんのこと」
 「あのなぁ・・・」
 彗太は言い返そうとしたが、言葉が続かなかった。
大人たちのように、相手を呪うことで済ませてしまえたらどんなに楽だったろう。他者に対する怒りや憎しみならば、人によって差こそあれ、いつかは忘れてしまうこともできよう。けれども千鶴は自分自身を呪った。自分の内にある弱さを憎んだ。彼女が嫌悪した心の弱さはつるになり、ほんの少しの自己愛が千になった。あの日彼女との約束を反故にして、崩壊しかけていた千鶴の自我に追い討ちをかけたのは彗太だった。故意ではないにしろ、自分が彼女の解離の引き金になってしまったことを、彗太は今でも悔やんでいる。その一方で、彼女がもともと持っていた不安定さをひどく愛しいとも思う。十年前、はじめて会ったときからそうだったのかもしれない。
 「摂津くん?」
 心配そうに尋ねるつるの声で、彗太は我に返った。
 「あ、ごめん。何か言ったか?」
 「ううん。ただ、ぼーっとしてたから。何か考え事?」
 「ああ、うん。お前のこと」
 つるはきょとんとして彼を見つめた。その表情を見て、彗太は自分が何気なく口にしたことの意味に、あらためて気付いた。その彗太よりも少しはやく、つるの頬がぽっと赤く染まった。
 「・・・」
 「あ、その、変な意味じゃないからな!」
 彗太は思わず彼女から顔を逸らして、手に持ったままになっていた紅茶の缶に勢いよく口をつけた。一気に飲み干したミルクティーは、すっかりぬるくなってしまっていた。

 待合室にアナウンスが掛かって、ふたりも他の乗客につづいて長崎行きのバスに乗り込んだ。予約していた座席のうち、窓際の席につるが、通路側に彗太が座った。待合室自体は混みあっていたが、バスの車内はそうでもなく、適度に空席が設けられていた。つるはカーテンを少し開けて、窓から見えるバスターミナルの様子をじっと見つめていた。
 午後九時ちょうど、バスは目的地の長崎に向けて出発した。冷たいガラスの向こうを流れていく都会の風景を、つるは相変わらずなぞるように目で追っている。
 「大丈夫か?」
 彗太は尋ねた。まだ発進したばかりだが、さっそく揺れに酔ったのかもしれないと彼は思った。つるはゆっくりと視線を彗太に移した。そのまなざしは、いつか見た怯えの色をほんの少しだけ宿していた。
 「・・・昔のこと、思い出してた。十年前もこうやって、ここから長崎に行ったから」
 彼女の声は、バスのエンジン音に混じって少し震えていた。
 「朝になったら・・・」
 「ん?」
 「明日の朝になったら、私のこと起こしてくれる?」
 「ああ、別にいいけど。もう寝るのか?」
 「うん・・・なんだか、すごく眠くて・・・」
 「そっか、じゃあもう寝な。明日の朝はちゃんと起こしてやるから」
 「うん・・・」
 「ほら、寒いからブランケット掛けろよ。おやすみ」
 「おやすみ・・・」
 まぶたを閉じて、彼女が現実から夢の中に滑り落ちていくのが彗太はなんとなくわかった。


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