20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:トロイメライ 作者:zanpang

第35回   夢と現実
 「摂津、最近ちょっと太ったんちゃう?」
 彗太が風呂からあがってきたところを見た祥司が、ポテトチップスを食べながらぽつりとつぶやいた。
 「・・・え」
 「確かに前よりちょっとふっくらしたなぁ。まあ、摂津くん元々貧弱・・・いや、少し痩せすぎやから、そのほうがええと思うけど」
 あまりフォローにはなっていない泉の言葉を聞きながら、彗太自身「やっぱり」と思った。
 このところつるが妙に優しい。大学で目が会えば、自ら彗太のほうへ来て少し話してくれるようにもなったし、おまけに時々お菓子や料理を作ってはそれを学校まで持ってきてくれる。それは彗太にとってもありがたいのだが、前回のから揚げといい前々回のチョコレートケーキといい、いかんせんその量が尋常でなかった。もしかしたらひとり分ではなかったのかもしれない。だが他の住人にあげるのももったいない気がしたので、結局部屋でこっそりひとりで平らげてしまった。千が以前、つるは料理が下手だと言っていたが、味や見た目に限れば言うほどひどくはない。
 「幸せ太り〜?」
 「佐野さんこそ、毎晩だらだら柿ピーとポテトチップスばっかり食べてると肥満体になるよ」
 「つ、土居さん。もう少し言葉を選んであげてください・・・」
 ジョナがそう言ったものの、当の本人が隣で大口を開けて笑っているのであまり意味がなかった。
 そろそろ冬学期も終わりということで、気の緩みはじめた寮の学生組を談話室に残し、少し疲れていた彗太は早めに休もうとひとり二階の自室へ向かった。玄関に近いため、冬は非常に冷える階段を早足で上っている途中、一階の廊下から「おおい」と大和が彼に声をかけた。
 「摂ちゃーん、電話やで」
 「電話ぁ?」
 「八幡さんやって」
 誰だろう、と一瞬思ったが、すぐにそれが長崎に住む守の姉の苗字だと思い出した。大宮寮には一応、一階に共用の固定電話が一台存在するのだが、住人は全員自分の携帯電話を持っているので、わざわざ電話交換を必要とするそれは今ではあまり使われていない。しかし、携帯ではなく寮に直接掛けてくるとは、あちらで何かあったのだろうか。
 「悪いけど、この電話コードレスちゃうから、受話器こっちまで取りに来てくれへん?」
 「うん、すぐ行く」
 彗太はそう答えて、半分のぼった階段をふたたび下りた。
 「じゃ、俺はあっち行っとるな。終わったら呼んで」
 大和はそう言って、彗太に電話線をのばした電話機ごと受話器を手渡した。少し前まで管理人室にあったこの黒電話は、大家の大宮がヨーロッパに戻ってからは、ふたたび管理人代理の大和の部屋に置かれている。
 「・・・もしもし?市子伯母さん?」
 彗太は大和の部屋の戸口に座りこみ、膝の上に電話機を置いて受話器に耳を傾けた。まだ濡れている髪から、明らかに水には弱そうなその電話の上に水滴が落ちてきたので、彼はあわててそれを首に掛けたタオルで拭った。
 「なんだ、案外元気そうじゃない」
 「なんだよ案外って。わざわざ寮に電話してきて、どうかしたのか?」
 「別にどうもしないけど、携帯のほうに掛けたら出ないかも、と思って」
 「そんなこと・・・」
 彗太はそう言ったが、確かにそうかもしれない。これが文野から自分の携帯に掛かってきた電話だったら、たぶん彗太は無視しただろう。
 「それで、元気にしているの?夏以来会ってないけど」
 「・・・うん」
 「あんたのことだから、また痩せたんじゃない?いつもお母さんが心配してるわよ」
 「大丈夫。さっき友達に太ったなって言われた」
 「あら」
 電話の向こうで伯母が笑った。どうしたん、という伯父の声も聞こえた。彼もそこにいるようだ。
 「別に、そこまで太ったわけじゃないんだからな。ちょっとだけだぞ」
 「はいはい。ああ、でもはやく見てみたいわ。彗太、昔から食べてもなかなか太らなかったのにねぇ」
 「うるさいなぁ。甘いものは太るんだよ」
 文句を言いつつも、明るい伯母の声を聞いていると彗太は何だか故郷が懐かしくなってきた。
 「それで、もうすぐ春休みでしょ。今度は帰ってくるの?」
 伯母は語調を改めて言った。どうやらこれが本題らしい。
 「帰ってきなさいよ。お母さん、待ってるから」
 「・・・」
 「河内さんとの再婚の件、おばさんは賛成なんだけどね。でも文野ちゃん、私や周りに気を遣ってなかなか返事が出せないのよ。彗太から言ってあげないと」
 「・・・わかってる」
 「お父さんのこと思う気持ちはわかるけど、今はお母さんのことを考えてあげて。それから彗太も、伯母さんに気を遣わなくていいんだからね」
 「俺は別に・・・」
 「もし家に帰るのが嫌なら、伯母さんのところに泊まってもいいから。とにかく、一度ちゃんと顔見せなさいよ」
 伯母はなんどもそう念を押してから電話を切った。彗太も重い受話器を置いた。さっきまで水が滴り落ちていた髪はすでに乾きかけている。電話をそこに置いたまま、彗太は膝を抱きかかえた。
 「そんなこと、わかってるよ・・・」
 もし彗太が絶対に嫌だと反対すれば、きっと母は再婚をあきらめてしまうだろう。だが彼とてもう子どもではない。別に河内のことが嫌いなわけでもないし、母が彼と再婚するのにも反対ではない。実を言えば、父の守ことを慮っているのでもない。すべてはあの家を離れたくない自分自身のためなのだ。
 「ばーか・・・」
 帰らなければ、と彗太は思った。故郷に帰って、そこにある真実に目を向けなければならない。止まっている時間を自分の手で動かすために。

 大学の前期入試も終わったころ、大阪はまた雨が降っていた。このところ少し暖かくなってきていたのだが、雨が降るとまた一気に気温が下がってしまった。それでも中庭に植えられた梅の木は、ちらほら赤い小さな花を開きはじめていた。
 学務課にレポートを出しに行った帰り、正門まで近道をしようと思って、彗太はグラウンドを突っ切ることにした。さすがにこんな雨の中では陸上部も練習をすることができないので、グラウンドはまったくの無人だった。広い運動場の向かい側には、音楽系サークルのための音楽棟が建っている。音楽棟といっても防音設備も何もないただのコンクリート建築なので、このように他の校舎から離れた辺鄙なところに建てられている。彗太はそこには一切用がないため、今まで一度も中に足を踏み入れたことがないが、前を通るといつも何かしら楽器の音や歌声が聞こえてきた。管弦楽も合唱も、音楽コンクール等に関してはとりたてて実績のない大学だが、その割に吹奏楽部の部員数は多いらしい。今日も中から聞き覚えのある行進曲が聞こえてくる。そのリズミカルな音に混じって、どこからか途切れ途切れの電子オルガンの音が聞こえてきた。よくよく聞けば、それらはひとつのメロディをなしているようだった。傘を叩く雨粒と他の楽器の音色の中から、彗太は耳を澄ましてその音を拾い出した。

いのち短し 恋せよ少女

 あの唄だ、と彗太はようやく気付いた。お世辞にも上手とは言えないその演奏は、音楽棟のいちばん端の方から聞こえていた。いったい誰が、と思い、彗太は少し開いている窓から中を覗いた。
 「つる子?」
 「きゃっ!」
 彗太が思わず声を出すと、オルガンの前に座っていたつるは椅子から飛び上がった。
 「な、なんだ摂津くんか・・・びっくりしたなぁ、もう」
 彼女は彗太のいる窓際に歩み寄ってその窓を開けた。
 「いきなり窓の外に人が立ってるんだもん。お化けかと思った」
 「お化けって・・・それより、窓開けっ放しにしてると風邪引くぞ」
 彗太がそう言うと、つるは一言「換気中」と答えた。確かに、暖房の効いた部屋の中は暑いのか、彼女の頬はのぼせたようにほんのり赤い。
 「でも、何でこんなところでオルガンなんか弾いてるんだ?お前音楽部だっけ?」
 「ううん、ここで独文の先生を待ってるだけ。今日、先生に授業のことで相談に乗ってもらうつもりだったんだけど、ほら、発表会前でしょ。練習が長引いてるんだって。先生、吹奏楽部の顧問だから」
 「ふうん」
 「摂津くんは今から帰るの?」
 「ああ、うん」
 彗太は部屋の中をちらと覗いた。小さな部屋のなかには、つるのほかには誰もいなかった。部屋の隅に置かれた小さな電子オルガンの鍵盤の上には、楽譜が立て掛けられていた。
 「弾きたい?」
 「へ?」
 「オルガン、弾いてもいいと思うよ。先生が、この部屋の楽器は勝手に触ってもいいって言ってた」
 つるがそう言うので、彗太は玄関から音楽棟の中に入った。コンクリートの壁に囲まれた廊下は冷たく、木張りの床は上を歩くたびにぎしぎしと軋んだ。練習室、と書かれたいちばん隅の部屋に入ると、つるがオルガンの前の椅子に座っていた。中は暖かかった。
 「お前、鍵盤楽器弾けたんだな」
 「まさか。楽譜があったから、何の曲だろうと思って、音符を見ながら指で鍵盤を押してただけ」
 そう言って、彼女はもう一度曲の最初から、右手の人差し指で鍵盤を叩きはじめた。

いのち短し 恋せよ少女
朱き唇 褪せぬ間に 熱き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日の ないものを

 「摂津くんも弾いてみる?」
 「俺が?俺もピアノなんて弾けねーぞ」
 「じゃあ主旋律だけ弾いてみてよ。私それに合わせて、この下のパート弾いてみる」
 つるに促されるまま、彗太も部屋にあったパイプ椅子を持ってきて、オルガンの前に座った。楽器を演奏するなんて、高校の音楽の授業以来だった。
 「せーの」

いのち短し 恋せよ少女
黒髪の色 褪せぬ間に 心のほのお 消えぬ間に
今日はふたたび 来ぬものを
 
 自分たちでもびっくりするぐらい、ふたりはぴたりと息が合った。最後まで弾き終えたあと、つるは珍しく満面の笑みを見せた。
 「すごい!一回でちゃんと弾けた」
 「まあ、知ってる曲だしな」
 「なんて曲だっけ」
 「ゴンドラの唄」
 ふと、彗太は、隣に座る彼女がこの唄を覚えているのだろうかと思った。父がたまにレコードで聴いていたこの唄を、幼い千鶴は好きだと言っていた。訊いてみようという気になったが、その前につるが口を開いた。
 「私、ピアノ習ったことがないから、ひとりじゃいつもメロディしか弾けなくて。両手で弾けないんだよね。千ちゃんがいれば連弾できるんだけど」
 「千と?」
 「連弾って言っても、一本指連弾だけど。『猫踏んじゃった』とか。千ちゃんは一応ピアノ弾けるから、私が人差し指で伴奏するんだ。それでね・・・」
 「鶴子」
 彗太は、人差し指でピアノを弾くまねをしたつるの手を取った。
 「せ、摂津くん?」
 「ふたりじゃない、お前がひとりで弾いてるんだ」
 「何、言ってるの?」
 「千はお前なんだよ」
 つるの手が一瞬びくりと震えた。怯えたような、あるいは怒ったような目で彼を見て、彼女は小さく首を横に振った。
 「違うよ」
 「違わない。つるも、千も、みんなお前自身なんだ。お前が千ちゃんって呼んでるのは、お前の中にいるお前の一部なんだよ」
 彗太は自分自身にそう言い聞かせているような気分だった。それが正しいことなのか、正直自分でもよくわからなかった。ただ、今目の前にいる『彼女』を傷つけるであろうことは容易に想像できた。
 「わ、私・・・」
 彼女は両手の自由を奪われながらも、その耳を手のひらで塞ごうとした。
 「鶴子、ちゃんと俺の話聞いて」
 「やだ」
 「鶴子」
 「いや!」
 「千鶴!」
 そう呼んだ途端、彼女の抵抗がぴたりとやんだ。部屋の中に沈黙が流れた。雨の音に混じって、吹奏楽部が練習をしている近くの教室から、管楽器や打楽器を打ち鳴らす音が聞こえる。通し練習をしているのだろう。もうすぐ一曲がおわる。まだ開けっぱなしになっていた窓の隙間から、急に強く冷たい風が吹いて、オルガンの譜面台に立て掛けてあった楽譜を床の上に飛ばした。ふたりは足元に落ちてきたそれに目を落とした。
 「いのち、短し・・・」
 彗太は掴んでいた手を放し、腰をかがめて楽譜を拾った。
 「この唄、覚えてるか?」
 「・・・」
 「父さんが、好きだった」
 自分の中でばらばらになっていたものが、ふたたび静かに組み合わさっていく感覚がした。自分でも怖いくらい、気持ちが落ち着いていた。
 「今度、長崎に帰るんだ」
 そこに父はいない。ずっとわかっているつもりだったが、今ようやくそれを飲み込むことができた。目の前の彼女の中にいる彼は、もはや父ではない。
 「一緒に帰ろう、千鶴」
 雨がまた一段と強くなった。


← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 68